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生まれてもすぐに死んでしまう命は何故生まれてくるのでしょうか?

Syo-yaの回答

  • Syo-ya
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回答No.13

お返事ありがとうございます。再度の11です。 以前にも他のカテゴリーで質問者さまの質問に投稿していたようです^^ で、仏教はそもそもは生きている人の救済を目指したものです。 まあ、現在は手垢だらけで、難解の極みになっていますが。。。 勉強するのならば原始仏教が良いと思います。 で、先にも書きましたように「分別」が苦の発生する原因なんです。 好き嫌い、勝敗、損得、幸不幸、生死、善悪、美醜、優劣、正邪・・・・です。 選り好みとも、葛藤とも、分別とも、相対とも、二元的対立とも言って良いと思います。 で、以前「素直・・」という問いがありましたが、その素直さも、何らかの分別の上に成り立っていると思うんです。 例えば、この質問も虐待は絶対悪であるというスタンスに無意識に立って設問しているんです。 (虐待は確かに悪ですが) その他にも「あの人はこうなのに、自分は・・・」とかも分別地獄ですよね。 「自他」の関係になると、必ず分別が始まってしまうんです。 自他の関係では「自」に執着してしまいますから、分別が始まってしまうんです。 しかし、こちらの2&6を読んでみて欲しいんですが、 http://security.okweb.jp/kotaeru.php3?q=972426 「自」というのも「他」があって初めて生じさせられているのであって、純粋に「自」を追い求めると「無」「空」になってしまうんです。 全てのものが「縁」によって繋がって生じせしめられているから、「自分」という存在の本性は「無」「空」であるということです。【縁起、ゆえに無自性】 で、仏教(特に禅宗)は執着を超えて(分別を超えて)無を悟れと言います。 こういうような思想背景(心理的作用)に基づいて、さらに坐禅(姿勢+呼吸法)によって実際に生理的作用を求めるというのが本来の仏教なんです。ですから、ほとんど自己救済なんです。 ですから仏教には神様とかは存在しませんし、形而上的な話も無いんです。逆に神様等の形而上的な存在を認めてしまったら他力本願になって、自己救済の為の「行」が滞ってしまうからでしょう。 で、実際に坐禅を科学している学者(大脳生理学、神経生理学、脳波学・・・)というのが大勢いて、その効果は現在でも高く評価されていて、特に最近、メンタルヘルスの要であるセロトニン神経の強化にも繋がるということが解ってきたのだそうです。 http://www.ktv.co.jp/ARUARU/search/aruserotoninn/serotoninn_1.html http://www.ktv.co.jp/ARUARU/search/aruiyasi/ih_1.html http://physi1-05.med.toho-u.ac.jp/arita/arita.html 「お釈迦さまは最高の生理学者であった」という生理学者もいるほどでして、2500年も前に自分の身体をモルモットにして、いろいろ研究した結果、坐禅とその呼吸法を後世に伝えたのだということです。弟子に対しても「坐禅をしろ」と、しつこく薦めていたようです。 私のHNをクリックしてもらえれば坐禅と呼吸法、姿勢をご紹介してますので、気長に続けてみてください。姿勢を保つのもセロトニン神経が関係しているんです。(抗重力筋) つまり心理面の考え方を正し、生理的面から脳を鍛え直すことが自己救済になるのであって、お釈迦さまにとって、それ以外の形而上的な話はどうでもよかったんだと思います。神様が居ても居なくても関係なかったんでしょう。 こちらの本も図書館でご覧ください。 『声に出して読む般若心経』. 山名 哲史著(素晴らしい内容です)

frau
質問者

お礼

こんにちは。 有意義な時間をもたせてもらっています。 「分別」って「二律背反」のことだったのですね。 よく「あの人は分別がない」と悪くいわれますが、いちがいに言えないと思いました。この言い方は「物分りがよくない」という意味にとらえられますから。 「葛藤」=「苦行」だと思いました。森羅万象は二律背反で成り立っています。ということはこの世=苦界だということでしょうか。あの世に行けば極楽があるのではなく、地獄も極楽も自分の中にあるということで、形而上的なことは教えなの中にはない、ということなのでしょうか? ご紹介いただいた「世界とは?」は以前拝見してます。 興味深く読ませていただきました。「世界」は主観であるというのは日常よく感じています。一般的にも「物事は自分の考え方ひとつでよくも悪くもなる」と言われていますよね。 私の考え方は「世界とは単なる記憶」と思っています。脳細胞、潜在意識に刻み込まれただけのものです。でも「世界観」というのは、刻まれた世界への主観的な見方だと思っています。またそれを構成する要素を集める自分だけの趣味であるともいえます。 昨日までの過去の嫌な記憶がいとも簡単に消せたらと思っています(笑)。 そしてお釈迦様が形而上的な存在ではないと知り新鮮でした。また最近呼吸が見直されていますよね。「すべては呼吸から始まり呼吸で終わる」、身体から心まで、呼吸によって左右されるされるそうなのですが、当たり前のこととしてあまりにもないがしろにしてきましたよね。 座禅は呼吸を整えることで身体と心も整えるという見方が許されるのでしたら、今科学的に検証されているこうした生理学的なことは、すでにお釈迦様が数千年(?)前から実践していたわけですよね。 単に言葉のみで教えを説く宗教よりも、自分で実践させ己のなかに真実をみつけさせる能動的なある仏教は深い!ですよね。仏教は巨大な教えですが、本来は仏陀の個人的な悩みから始まったのですよね。 だとしたら私も個人として、親しみやすいし、それだけリアリティをもってせまってきます。基本から学びたいです。 ありがとうございました。

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