義満の選択した「冊封」の意味するものは???

このQ&Aのポイント
  • 義満は、明に朝貢する形で使者を送り、明皇帝から「日本国王」に冊封されました。
  • 「冊封」とは、日本を統治することを認められることを意味しており、当時の貴族の間で屈辱外交とされていました。
  • 義満は国内で日本国王の称号を使用しなかったため、研究者の間では支持されていない説もあります。
回答を見る
  • ベストアンサー

義満の選択した「冊封」の意味するものは???

「流れをつかむ日本史」という本を読んでいて、下記のような記述が気になりました。 義満は、正式な日明貿易を行うため、明に朝貢する形で使者を送り、明皇帝から「日本国王」に冊封(明の朝貢国として日本を統治することを認められる)されました。これは、当時の貴族の間でも、屈辱外交として評判が悪いものでした。日本国王に冊封されることによって皇位を簒奪しようとしたのだという説もありますが、義満は国内向けに日本国王の称号を使おうとはしていないので、あまり支持する研究者はいません。   「冊封」というのは、日本の古代史の記述にも出てきたような記憶があるのですが、その時は、相手は大国だし、中国に対する日本の態度もなんとなくわかるような気がするという程度で、そんなに気にも留めていなかったのですが、室町時代になって、この「冊封」という用語が出てきたことに、「これは、なんなのか」という疑問が湧いてきました。しかも「当時の貴族の間でも、屈辱外交として評判が悪いものでした。」ということだったようで、私も、私の先祖も貴族ではありませんが、疑問が湧いてきました。 1 義満はなぜ「冊封」という道を選んだのでしょうか???単に「財政」だけでしょうか???鎌倉時代の「元寇」は関係しているのでしょうか???ご回答をお願いいたします。 2 現在の「日中」、「日韓」、「日朝」の関係が、ふと頭の中をよぎったのですが、この4国関係は、「古代から何も変わっていないのではないか???」と。ご意見をお願いいたします。

noname#247736
noname#247736
  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.2

> 義満はなぜ「冊封」という道を選んだのでしょうか  商人どうしの通商だと、原則「等価交換」です。もちろん中国での価格と日本での価格は違うので、日本まで持ってくれば儲かるということはあったのですが。  ところが、明の朝廷に朝貢すると、「我が国の権威を慕ってはるばる海を越えてやってきたか。ういやつじゃ。褒めてとらすぞ」とメンツがたったとして、ちょっと贈り物をすると2倍3倍の量・価値のある返礼品が返ってきたわけです。  2000円故郷納税すると、1万円相当の松阪牛の肉が届く、という感じです。  マイナスが大きいので、朝鮮に対してだったと思いますが、明は「あまり頻繁に朝貢してくれるな」と通達を出したそうですが、大陸国の明にとって元を撃退した日本などが「はるばる海を越えてやって来た」という事実は自身の虚栄心をくすぐることで、琉球に対しては「来るな」と言わなかったようです(拳骨拓史:中国が憧れた理想の国日本)。  但し、朝貢だからこうなるのであって、「我が国は対等の貿易をしたいだけで、朝貢はイヤです」と言ったら相手をしてもらえないわけです。  朝貢するには冊封してもらわなければならない。だから、冊封を受けただけでそれ以外の意図はなかったのではないでしょうか。 > 鎌倉時代の「元寇」は関係しているのでしょうか  無関係ではないでしょうね。  質問者さんが、どう関係していたとお考えかわかりませんが、私は自信の表れだと思っています。「冊封だなんだと言ったところで、なにも変わらない。何か命令してきたら拒否すればいい。元寇以上に、完膚なきまで叩き潰してやるわい」に思っていたのではないか、と思います。 > 現在の「日中」、「日韓」、「日朝」の関係 > この4国関係は、「古代から何も変わっていないのではないか???」  日中韓北 の4ヶ国ですか?  どの点が変わらないとおっしゃっているのかわかりませんが、まあ変わらない点もあるでしょうが、全般的には変わっているでしょう。  当時1国だった朝鮮が今は2国になって争っていますし。もっと昔の事を言えば、今2国の朝鮮は3国(高句麗、新羅、百済)だったり4国だったりして争っていましたし。  大陸国で、日中の間には広大な海がありましたが、いまは「もともと海は我が国のものだ」とか中国では言ってますし。  「冊封だ(海は我が国のものだ)なんて言っていても、口先だけさ。そんな力なんてナイ!」「我が国には恐れ多くも憲法第9条がある」などとうそぶいているわけにはいかない時代ですよ。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 よくわかりました。

その他の回答 (1)

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.1

 これは憶測ですが 1。いわゆる「金印」「https://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E5%86%8A%E5%B0%81/m1u/  は、一世紀(57年)に比定され、その印が「漢委奴国王印」とあることからその頃の日本の一部が中國に朝貢していたことがわかります。 2。7世紀に百済に援軍を出して唐と新羅の連合軍に大敗した倭は、急速に中国化して8世紀には平城京のような中国を模倣した都市計画を立てます。 3。元寇は台風で免れたものの、自然現象がなかったら国内はともかく、外的には難しいと読んだ義満が選んだのは、それを他に任せることだったかもしれません。  一番正確なのは義満に聞いてみることです。あとは憶測です。 4。「古代から何も変わっていないのではないか???」  変われば変わるほど変わらないって感じですね。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 元寇では、台風が来なくても日本は負けなかっただろうというのを何かの本で読んだ記憶があります。

関連するQ&A

  • 朝貢貿易による明にとっての利益について

    よろしくお願いします。 明が対外政策として朝鮮・日本などに冊封させることによって、 中華思想のもと君臣関係を結び朝貢させる・・・とまでは分かり ます。しかし、わずかな朝貢でも何倍ものお返しをする明にとっ てメリットはあったのでしょうか?また具体的には、どのような ものを朝貢し、何をおかえししていたのでしょう?

  • 日本と中国の外交関係について

    東アジアにあっては中国は絶大な権力を有しており、周囲の国々は中国と主従の関係を結んでいたと聞きました。 この冊封関係は19世紀まで続いています。  日本は足利義満の時、一度だけ冊封関係を結んだと歴史の時間に習ったように記憶しています。 これは正しいでしょうか。 またどうして他の時代には中国との外交関係に入らなかったのでしょうか。  沖縄県知事や名護市長の米国政府との駐留軍撤退の交渉を見ていても、辛抱強く、しかも堂々としています。 長く中国との冊封関係の中で外交交渉の腕を磨いていたからでしょう。 実に見事だと感心します。 これに比べると日本政府の外交交渉はまるで『子供の使い』です。 見ていられないというのが正直な告白です。 どうして日本は中国との外交関係に入らず、アジアにあって孤児のようだったのでしょうか。 教えて下さい。   

  • 日清戦争後の清について

    『東アジア国際政治史』という書籍のP84に「日清戦争は、清が冊封・朝貢など既存の対外関係を維持しつつ、他方で万国公法を利用して「近代的な再編」を行うという外交路線に決定的な打撃を与えることになった。」という記述がありますが、「万国公法を利用して「近代的な再編」を行うという外交路線」というものがどのようなものなのか、また、何故それが日清戦争によって困難に陥ったのかがよくわかりません。 解説をいただけるとありがたいです。

  • 戦前の歴史教育における古代史の扱い

    戦前の歴史といえば、皇国史観に基づいて行われていたのでしょうが、古代史はどのように扱われていたのでしょうか。今の日本の教科書では考古学や支那の歴史書の記述を基にして、縄文時代や弥生時代などの記述がせられておりますが、日本書紀などの記述に従えば、弥生時代などにはすでに天皇が政治を行われていたことになりますよね。戦前の教科書はどういう風に書いていたのでしょうか。また、縄文時代や弥生時代というのは一般に知られていたのでしょうか。支那の歴史書の倭国に関する記述や、時の指導者が支那の皇帝に朝見していたという事を当時の日本人は知っていたのでしょうか。蛇足ですが、足利義満が明に入貢していたということは知られていましたのでしょうか。

  • 大韓帝国は「清の冊封体制脱却」「日本への対抗」を目指した?

    1897年、朝鮮半島にて史上初となる「皇帝」が統治する 「帝国」である大韓帝国が誕生しました。 この当時清帝国が弱体化していたため、冊封体制を維持する 必要性が無くなったのは理解できますが、それだけでしょうか? 当時の日本も「天皇」が統治する「帝国」です。 日本に対して対等な関係になろうとする意図もあったのでしょうか?

  • 倭の五王の朝貢品

    倭の五王の朝貢品 古代の日本は、朝鮮半島を支配する権利を認めてもらおうと、倭の五王は、南宋に使いをおくったといわれています。で、朝貢をするわけですが、日本は当時は遅れている国で、資源もないのに、奴隷以外で、なにか輸出するものがあったのでしょうか?なにか輸出するものがないと、朝貢貿易にならないとおもうのですが、、、。よろしくおねがいします。

  • 韓国朝鮮の歴史について正しいものを教えてください。

    (1) 高麗では,12 世紀に文臣が権力を握り,以後,滅亡する時まで武臣は政権から排除されて いた。 (2) 高麗はモンゴルの侵略に抵抗し,クビライの日本侵攻に際しても協力拒否の姿勢を貫いた。 (3) 高麗は,中国で明朝が成立すると,朝貢して冊封を受けた。 (4) 高麗は,中国に遼(契丹)や金ができると,その冊封を拒否し,宋以外の王朝と冊封関係 をもつことがなかった。

  • 護衛艦〔さざなみ〕に五星紅旗

    深センに、昨年中国軍艦が来日した答礼として護衛艦さざなみが訪問しました。 昨年の中国艦船の写真には当然のことで日章旗が見えません。 http://www.fmprc.gov.cn/ce/cejp/jpn/zrgx/t385412.htm ところが、さざなみには五星紅旗が掲げられています。 http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080625k0000m010083000c.html 対等な国同士の修好のための相互訪問でこのようなことがありえるのでしょうか? 支那歴代の王朝への朝貢の姿勢を海上自衛隊は自らとったのでしょうか? それとも、中国の要求に応じたのでしょうか? もし、中国の要求に応じたのなら、、支那歴代の王朝の外交方針と同じように 徳を慕ってくる夷狄には冊封をあたえ、臣属を許す、との考え方の 現代版つまり対等な関係でないとの外交を、日本が受け入れたとに なってしまいますが、皆様如何お考えでしょうか?

  • 高句麗の好太王の石碑

    中国吉林省(満州)には、高句麗の好太王の石碑があります。 石碑には、4世紀末に、倭国(日本)が、攻めてきて、戦ったことが、刻んであります。 日本から、朝鮮半島を飛び越えて、満州を攻めたとは、考えられません。 当時は、朝鮮半島全体が、全部、日本の支配下だったんじゃないでしょうか? 古事記を読むと、新羅、百済は、日本の朝貢国として書かれています。 ”神功皇后の新羅征伐”も出てきます。 紀元1~2世紀に、内戦の末、日本を統一した大和朝廷が、その勢いのままに、朝鮮半島に侵攻します。(ここまでは、豊臣秀吉の朝鮮征伐と同じ) そして、朝鮮半島攻略に成功して、次に、高句麗をも攻めた、というのが、歴史的事実なんじゃないでしょうか? 白村江の戦い(663年)で、百済が滅んで、百済の王族、貴族は、日本に亡命します。 百済時代の古墳は、日本の大和地方にある古墳とそっくりです。 百済の国王は、日本の天皇家の分家で、百済の貴族は、日本人だったそうです。 (専門家の調査で判明したそうですが、専門家が隠しているそうです) 百済が、日本人の国でなければ、日本が援軍を送るはずがないし、百済の王族・貴族が、日本に亡命するはずもありません。 それ以降、日本が、朝鮮に援軍を送ったこともないし、朝鮮から、王族・貴族の亡命もありません。 もう、それ以降は、日本人の国では、なかったからです。

  • 鎖国していた江戸時代の国交とは。

    オランダ、中国(明・清)、朝鮮、琉球の4カ国で、日本と国交があったのはどの国ですか。 また、当時の「国交」とはどのような状態を指すのですか。 例えば、指定する港での貿易を認めるという程度の内容の親書を国王が交わすだけで「国交がある」ということになるのですか。 釜山には日本の(対馬藩の?)出先機関があったように思いますが…。 中学生レベルで理解できる回答をお願いします。 よろしくお願いします。