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白州次郎ってどういう人物ですか?
白州次郎ってどういう人物ですか? 軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長だった人だそうですけど。
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明治35年に芦屋の大富豪の長男として生まれた白州次郎は、中学を卒業後イギリスに渡り、ケンブリッジ大学歴史学科を卒業する。その後イギリス大使吉田茂と親交を結び、戦後吉田が外務大臣になると、彼の懐刀としてマッカーサー占領軍との交渉に当たる。昭和26年のサンフランシスコ講和会議には吉田首相に随行してる。ケンブリッジ出の白州のキングスイングリッシュは完璧で、GHQ民生局長ホイットニー准将がそれを褒めると、「あなたも勉強すればもう少し英語が上手になりますよ」と答えて煙たがられたという逸話が面白い。 昭和21年2月13日午前10時、ホイットニー准将は幕僚3人を連れて外務省官邸を訪問、吉田外相にGHQがまとめた日本国憲法草案、いわゆるマッカーサー草案を手渡す。原文はもちろん英文である。このときの日本側のメンバーは、吉田外相のほか憲法担当国務大臣松本蒸治、外務省通訳長谷川元吉、および終戦連絡事務局次長白州次郎の4人だったという。それ以前に日本側も松本らが独自に新憲法草案を作っていたが、旧態依然の天皇神権論がベースになっていて、日本の民主化を目指すGHQに相手にされなかった。このGHQの草案について、白州次郎は後年次のように回想している。 「…渡された原文は、議会が一院制になっているほかは、ほとんど今日の憲法の各条文を彷彿とさせるに足るものであった。」 その後日本側は内容変更についてGHQと交渉するが、2院制問題を除いてすべて拒絶される。交渉の先頭に立ったのはもちろん連絡官白州次郎である。3週間後の3月2日、白州はホイットニーから呼び出しを受け、翻訳官を連れてこいと指示される。数名の外務省翻訳官を同道し再訪すると、GHQ内の一室をあてがわれ、マッカーサー草案の全文を一晩で日本語訳するように命じられる。メンバーの中に憲法学者など一人もいない。この日本語訳を幣原首相が3月5日の閣議で受諾、天皇の「今になっては仕方あるまい」という裁可を仰ぎ、3月6日、「憲法改正草案要綱」として公表する。この場面の白州の回想は次のようである。 「こうして、日本語で書かれた新憲法草案は、専門の法律学者の検討を経ることなく、一夜のうちに完成した。元の英文の原文とて、おそらくは専門の憲法学者の手には触れられていまい。せいぜい、戦時応召でマッカーサー麾下に入った二、三の弁護仕上がり将校ぐらいのものであろう。」 「草案の天皇の地位に関する記述が“Symbol of State”となっている点は、外務省きっての翻訳官達を大いに惑わせた。小畑翻訳官が、「白州さん、シンボルと言うのはなんやねん?」、と大阪弁で問うので、僕は「井上の英和辞典でも引いたら?」と応じた。やがて辞書を引いていた小畑氏が頭を振り振り、「やっぱり白州さん、シンボルは“象徴”や」。こうして新憲法の「象徴」という言葉は一冊の辞書で決まった。」
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- nagata2017
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最近たまに耳にする 上級国民みたいですね。 お金持の家に生まれ いい大学を出て海外留学もして 徴兵もコネで回避できるという 恵まれた環境で育っています。それでいて優秀な頭脳をもっているのですから 一般人では太刀打ちできません。 安倍のように私利私欲に走る人物ではないというところも 大衆の支持を受けるところなのでしょう。
- h_ishikawa
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著名な方ですから、wikiに載っています。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B4%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E 白洲 次郎(しらす じろう、1902年2月17日 - 1985年11月28日)は、日本の実業家。貿易庁長官。兵庫県芦屋市出身。 連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した。
お礼
みんなありがとう