酒井氏忠や忠勝等の左衛門尉酒井家の幼名は小五郎か?

このQ&Aのポイント
  • 酒井氏忠や酒井忠勝が幼名小五郎であり、通称として左衛門尉を名乗っていたことが新井白石の著書『藩翰譜』に記されている。
  • しかし、『藩翰譜』には事実の誤呈や伝聞調の記述が含まれており、信ぴょう性に欠けると指摘されている。
  • そのため、酒井氏忠や忠勝の幼名や通称については他の資料との比較も必要である。
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酒井氏忠や忠勝等の左衛門尉酒井家の幼名は小五郎か?

(↓)この下記の URL の “酒井氏忠” と “酒井忠勝 (左衛門尉系第2世)” の wiki のページには、 “酒井氏忠” のページでは、 「新井白石の『藩翰譜』によれば、広親の子の一人である氏忠が通称を初め小五郎・将監、後に左衛門尉としている。」 “酒井忠勝 (左衛門尉系第2世)” のページでは、「忠勝は幼名小五郎、通称を左衛門尉を名乗ったと『藩翰譜』には記す。」 と書かれていますが、 藩翰譜は、wiki のページによれば、「短時日に完成されたもので事実の誤呈があり、白石自身のちに補訂を加えた。」 「藩翰譜の出典だが、本文中に「ある人のいう」「一説にいう」などの伝聞調の記述が見られ、また白石の『折たく柴の記』には、「諸家の事共、尋ね究めて」と記載があり、藩翰譜が伝聞に基づくものであることがわかる。そして他の史料を引用している記述は見られないことから、新井白石が伝聞に基づいて、独自の主観で編纂したものと思われる。家系図においても、『寛政重修諸家譜』で大幅に修正を加えると、ほとんど改修となってしまうと記載されている。」 と、“藩翰譜は信ぴょう性に欠ける” という様な事が書かれているのですが、それでは、 酒井氏忠が、「広親の子の一人である氏忠が通称を初め小五郎・将監、後に左衛門尉としていた。」という事や、 酒井忠勝 (左衛門尉系第2世)が、「忠勝は幼名小五郎、通称を左衛門尉を名乗った。」 という事は、他の資料でも書かれていたりして、信ぴょう性ははっきりとあるのでしょうか? 教えてください。 酒井 氏忠(さかい うじただ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E6%B0%8F%E5%BF%A0 酒井 忠勝 (左衛門尉系第2世)(さかい ただかつ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E5%8B%9D_(%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E5%B0%89%E7%B3%BB%E7%AC%AC2%E4%B8%96) 藩翰譜 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E7%BF%B0%E8%AD%9C

noname#239132
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  • ithi
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回答No.1

xmwxnyさん、こんばんは。 藩翰譜に記載があるなら、問題はほぼないでしょう。

noname#239132
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

noname#239132
質問者

補足

御回答ありがとうございます。 >藩翰譜に記載があるなら、問題はほぼないでしょう。 その、「藩翰譜」というのは、完全に信用してよいのでしょうか? wiki には、「藩翰譜」は、「短時日に完成されたもので事実の誤呈があり、白石自身のちに補訂を加えた。」とか、信憑性に欠けるという様な事が書いてあったのですが?

その他の回答 (1)

回答No.2

どんだけ小五郎好きなの?

noname#239132
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

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