• 締切済み

行目を読めはある種の暴力なのではないだろうか?

noname#247707の回答

noname#247707
noname#247707
回答No.6

 それは特定の誰かにとってはある種の暴力になり得ます。  行間を読めずに非常に困惑しているのに、さらに行間を読めと強要することは紛れもないある種の暴力的行為でしょう。  しかしながら、それは他の方も言っているように程度問題です。  現実にもし行間を読めない特定の誰かが居るならば、読めない人自身が読めないと主張することは大切かもしれません。もし、その特定の誰かが行間を読めないことをある種の暴力と感じる際には、行間を読めと言っている人も自分の意図が理解されないことに困惑しているかもしれません。  ただ、「赤の他人に何を伝えたい時に」行間を読めをいうのは、その文章を作った人の言語能力の問題です。ただし、受け手に、言語障害や日本語を母国語としていない、もしくは育った環境が特別だったなどのなんらかの特殊な事情がある場合を除きます。通常、人は特別なケースを想定して発言をしていません。  漫画「アオアシ」にもあります。同じように行間を読むためのは、ある程度、似通った経験が必要です。

hayyuji9401010
質問者

お礼

ご回答のほど、 ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 家族だから分かり合えるは社会的な暴力なのだろうか?

    家族だから分かり合えるは社会的な暴力なのだろうか? 無条件で親は愛している、子どもは親を愛さなければいけないも社会的な暴力なのだろうか? 家族カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。

  • 毒親を社会問題として語ることは新たな暴力の連鎖を産

    毒親を社会問題として語ることは新たな暴力の連鎖を産むのだろうか? 社会カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。

  • 非暴力の抗争で最も大事なのは、どうすればこちらが暴

    非暴力の抗争で最も大事なのは、どうすればこちらが暴力を使わずに、相手に暴力を使わせることなのか? 哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。 https://togetter.com/li/1041286 http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/67368

  • 非暴力の抗争で最も大事なのは、どうすればこちらが暴

    非暴力の抗争で最も大事なのは、どうすればこちらが暴力を使わずに、相手に暴力を使わせるか? 沖縄の土人問題とは? 哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。 https://togetter.com/li/1041286 http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/67368

  • 社会人の暴力について

    こんばんは。21歳の学生です。社会人の暴力について質問します。 最近、医療系の仕事をしている父が勉強会に参加してきたのですが、医者がMR(医療情報担当者。製薬会社の職員で、医者に営業や接待もする人)に「話が違うじゃねーか!!」と言って蹴ったといいます。理由は、MRが医者に紹介した勉強会が、医者が期待していたものとは違うからと思われます。皆スーツを着て参加する集会みたいです。 社会人として働いている方に聞きたいのですが、この医者の暴力というのは、どうなのでしょう。異常でしょうか?医者が傲慢になっているからついやってしまうことなのでしょうか?それとも、社会に出たら、この医者ほどではないにしても、何らかの暴力をされることはあるのでしょうか? ご回答よろしくお願いします。

  • 争いの種を撒き散らす様な人間とは?

    争いの種を撒き散らす様な人間とは? (心理、哲学、利点欠点限界盲点とは?) 哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。

  • 暴力団について

    暴力団とは,本来は裏の社会における存在なのではないでしょうか? 日本では,暴力団だとわかっているのに,なぜ表の社会での存在を許しているのでしょうか? 社会通念上からと,法的な面と両方の見解を教えてください. また,欧米諸国,アジア諸国における日本の暴力団に相当する組織の取り扱いについても教えてください.

  • なぜ、ニコラ編集部は母親からの暴力を受けている悩み

    なぜ、ニコラ編集部は母親からの暴力を受けている悩み相談に対して、「怒られない生活を心がけること」「言われなくてもきちんと行動できる生活をして怒られなくなったら『しつけ』というもの」と回答したのだろうか? 社会カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。 http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1804/09/news094.html https://togetter.com/li/1215494 http://con-isshow.blogspot.jp/2018/04/nicola.html?m=1

  • 20世紀はすべてが暴力だった。

    そうさな、本来こういう話は美術カテゴリーか歴史カテゴリーだろう。 哲学カテゴリーは変態さんの巣窟なんでね、カテゴリーの適正よりここが面白い。 代表的なこととして写真作品で、テレビに何年か前、癒し系戦場カメラマンが登場したね。 沖縄やアウシュビッツ、広島、戦争をテーマにした作品に21世紀に入って変化があるんだ。 過去の戦争をテーマにした作品は、惨状を誇張して悲劇の傷跡をかきむしり、癒されることのない憎悪を掻き立てる作品群だ。とことん悲惨に表現することが社会派報道家とされた。 朝日新聞的だね。 そして、解決策も暴力だった。 これらは何もかも暴力の20世紀に、芸術すらも侵され、だれも暴力を終わらせるすべを失っていたからだ。平和を叫ぶことすら合法ゆえに秩序だっていても暴力だ。 日本人作家限定だが、21世紀に入って若手は変わってきていてね、惨劇の作品描写が、埋没しつつある過去を振り切り平和への展望を開こうとする姿に変わってきている。 その作品群に共感すると、20世紀作品と違って、暴力的解決以外になすすべがある。 20世紀の暴力は埋葬されつつあるんだ。 以上が論説。 さて写真の作家表現で日本しか知らないので日本人作家の話をしたけど海外はどうなのか。 他の芸術分野はどうなのか。 暴力の20世紀を乗り越えて、21世紀の世相に何を感じるか。 ほかにも思うところを回答してください。 暴力で暴力を覚醒させた英雄はビンラディンだと考えます。

  • 暴力団排除、行き過ぎでは?

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130702-00000134-san-soci こんなニュースが入っています。最近は、何かというと暴力団排除条項というのがあって、暴力団員だと分かると、ゴルフもできない銀行口座も作れない、生命保険にも入れない、といったありさまです。 しかし何をもって暴力団員と判断されているかというと、全くのブラックボックスなのです。暴力団員はおろか、暴力団自体も登録制になっていません(「指定暴力団」というのは暴力団の一部に過ぎない)。民間人が勝手に判断しているわけです。また、暴力団員ということで排除されても、その根拠が当人に示されないので、間違って排除されても、救済の道がありません。 日本ほか先進諸国では、無罪推定の原則が採られています。犯罪はどんどん取り締まって欲しいです。しかし、有罪判決が確定するまで、いわんや犯罪を犯すまでは、当然不利益を与えられることがあってはならないのです。国から不利益を与えられなくても、社会から不利益を与えられたのでは無罪推定の原則が没却されてしまいます。 犯罪行為はどんどん検挙して欲しいですし、その結果崩壊する暴力団にくみするつもりは全くありません。しかし一定のカテゴリーの団体に所属しているらしいというだけで不利益を与えてしまうのは、もはや私刑(リンチ)に近いものがあると思います。 暴力団員を指定制にして指定した者のみの排除を命ずるならいざ知らず、現行の暴力団員排除は、間違えの可能性も含め、行き過ぎであると私は思うのですが皆さんはいかがお考えでしょうか?