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親藩、譜代の家臣

江戸時代の親藩や譜代の藩の家臣って、元々は幕臣ですか?

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回答No.4

No.1です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 おれいに追加の御質問がありましたので説明させて下さい。 >例えば、水戸藩の支藩とかも幕府から送られた家臣ですか? 「幕府から送られた家臣」というのはあり得ません。 元々徳川家の家臣だった「家」の人物が徳川家を離れて他の大名の家臣となることはあり得ました。 嫡子相続が原則でしたので「家」を継ぐことができなかった人物は数多くいました。 これ等の人達が自分の「家」を離れて大名など他家の家臣として召し抱えられることはありました。 御付家老というのは幕府つまり江戸徳川家の家臣であって職務として御付家老を下命されていただけです。 禄高は2~3万石でへたな大名よりも上でした。 御付家老として着任しても独自に屋敷を構えていました。 御付家老を拝命しなければ行列を組むなど大名として振る舞うことが出来た人達でした。 水戸徳川家の私藩として扱われていたのは 高松松平家 守山松平家 府中松平家 宍戸松平家の四家でした。 この四家に御付家老が任命されていたか否かは寡聞にして知りません。 いずれの「家」もそれぞれの歴史がありますので一概には言えませんが、家臣団は新たに召し抱えていたと思われます。

その他の回答 (3)

  • oska2
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回答No.3

>江戸時代の親藩や譜代の藩の家臣って、元々は幕臣ですか? 親藩だろうが譜代だろうが、それぞれの家臣は幕臣ではありません。 幕臣は、その名の通り「幕府(将軍)の家臣」です。 1万石未満の旗本や御家人が、幕臣です。 各藩の藩主は、幕臣で無く臣下です。 臣下の家臣団は、あくまで藩主に対して忠誠を誓います。 決して徳川家に対して忠誠を誓う訳ではありません。

  • kuzuhan
  • ベストアンサー率57% (1586/2775)
回答No.2

親藩は徳川家康の直系(いわゆる一門衆)が治めた「藩」を指す言葉です。越前、会津、越智の松平家がこれにあたります。すぐに断絶してしまっている駿河、駿府、館林の徳川家や、忍藩の奥平松平家、伊予松山藩と桑名藩の久松松平家、吉井藩の鷹司松平家も指すことがあります。 御三家(尾張、紀伊、水戸)、御三卿(田安、一橋、清水)の徳川家は別格扱いでですが、親藩として数えられることもあります。 親藩といったときには、徳川一門衆の中でも認められた家が治めた藩を言うと考えてください。 譜代といったときには、通常は「譜代大名」などの「家」やその当主をいいます。譜代大名は任地の藩を治めます。 譜代大名は、関ケ原の合戦のときまでに徳川家康に臣従した大名、幕府の要職について加増されたことで旗本から大名になった、あるいは幕府が直接取り立てた(田沼意次で有名な田沼氏など)を指します。 「譜代の藩の家臣」となると、「譜代大名家に仕える家臣」という意味になりますので、雇用関係としては「譜代大名家」と「個人」となります。 幕臣というのは、江戸時代の江戸幕府の将軍に直接仕え、主に1万石に満たない禄を与えられていた御家人や旗本など「個人」を指す言葉です。 親藩を治める者については御家人や旗本ではありませんので「幕臣」であることはありません。 譜代大名については、「幕臣出身」はありえます。例としては大岡越前守として有名な大岡氏です。家康の子飼いといえる本多忠勝の本多家、酒井忠次の酒井家なども譜代になり、その子孫が旗本などになっていることはありますが元が「幕臣」であったわけではありません。

回答No.1

御三家は領国を持ち独自の家臣を抱えていました。 ただ御付家老と呼ばれる監視役のような人物が幕府から派遣されていました。 御附家老 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/御附家老 御三卿は領国も家臣も持っていませんでした。 領地がないので禄は幕府から支給されていました。 家臣も幕府からの派遣でした。 現在で言えば親会社の社員が子会社へ出向しているのと同じようなものでした。 屋敷も江戸城内にありましたのでごく僅かな家臣で充分でした。 譜代大名といえども独立した大名ですので独自に家臣を抱えていました。 執務で登城すれば将軍の家臣の一人に過ぎませんのでセッセと働いていました。 自分の家臣を連れていけませんでしたので業務の補佐は幕臣がやっていました。 補佐する幕臣も大名もお互いに幕府の組織の一員でした。 現在の公務員やサラリーマンと同じように組織内の上役と下役の関係でした。

sokoo0823
質問者

補足

ご回答ありがとうございます 例えば、水戸藩の支藩とかも幕府から送られた家臣ですか?

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