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オランダはスペインの植民地だったのですか?
スペインが何でそんな離れた地にどういった事情で植民地になったのでしょうか? その前後のいきさつを教えてください。
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武力で奪ったとかではなく、政略結婚の結果としてそうなったという感じです。 1477年、ネーデルラント(現在のオランダ、ベルギーなどを含む地域)は、領主のブルゴーニュ公家が当主シャルルの戦死により断絶し、当主の一人娘マリーと神聖ローマ帝国皇帝でハプスブルク家のマクシミリアンの結婚により、ハプスブルク家の領地になりました。神聖ローマ帝国の本拠はオーストリアですから、この時点ではオーストリアの領地だったといえるでしょう。 その後、マクシミリアンとマリーの息子フィリップがスペイン王女ファナと結婚。そして、1516年フィリップとファナの息子カルロス1世がスペインの王位を継承したことで、ネーデルラントはスペインの領地になりました。
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- あずき なな(@azuki-7)
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スペインは当時世界中を植民地にしてたので… むしろオランダは近いぐらいですよ
- staratras
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高校の世界史(現在は必修のはず)の教科書に出ています。(以下「詳説世界史」(山川出版社)から引用) 「スペインの強盛」 中世末にネーデルラントを政略結婚で獲得していたオーストリアのハプスブルク家は、スペイン王位も継承し、カルロス1世のときスペイン=ハプスブルク家がはじまった。このカルロスが神聖ローマ皇帝(カール5世)に選出され、キリスト教世界の政治的統一を夢みるようになると、フランス王家との対立はぬきさしならぬものとなった。… 「オランダの独立」 商業の発達したネーデルランドには、カルヴァン派の新教徒が多かった。カール5世の退位後、この地がスペインのフェリペ2世の統治下におかれると、熱心なカトリック教徒であるフェリペは厳しい旧教化政策をとり、さらにこれまで大幅に認められてきた自治権を奪おうとしたため、諸州の激しい反乱を招いた(1568年)。南部の10州(フランドル地方)はやがてスペインに屈服したが、北部7州はユトレヒト同盟を結んで、オラニエ(オレンジ)公ウィレム(ウィリアム)のもとに抗戦を続け、1581年、ネーデルラント連邦共和国の独立を宣言した。(欄外の注:連邦の中心ホラント州の名をとって、この新しい連邦国家はオランダともよばれる) この反乱によりヨーロッパでの通商・金融活動に致命的な打撃を受けたスペインの国力は、もともと国内産業の基盤が弱かったこともあって、急速に衰えていった。(引用終わり)
- SPS700
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1。オランダはスペインの植民地だったのですか? いいえ。 2。フランス領だったことはあります。下記などをご覧ください。ただし、オランダとフランスは電車でも数時間、飛行機なら数十分の距離です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80