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テーブルを囲んで椅子に座っての会議。

fumkumの回答

  • fumkum
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回答No.2

椅子の定義にもよりますが、中国式の物は大分古く、古墳時代には日本に入っており、埴輪にあるということですが、はっきりするのは奈良時代で、律令の運用に関する「式」に「椅子」の語が見られ、平安時代には肖像画にも描かれるようになります。ただし、天皇が使う椅子は、「御椅子」と書いて「ごいし」と振りがあり、また、平安末の辞書の『伊呂波字類抄』にも「いし」として、「胡床足類也」としており、当時は天皇用に限らず、椅子を「いし」と読んだようです。 なお、「胡床」は「あごら・あぐら・こしょう」と言いますが、これも中国式の椅子です。これを「あぐら」とよむのは、脚(足)のある椅子ではあっても、あぐらをかいて座る使用法があって、そのために「あぐら」の言い方になったのではと思います。このような使用法は、次に述べる曲録にもあります。ただ、上記のようなわけで「あぐら」が、胡坐と胡床のどちらを言っているのか記録上はっきりしないことがあります。 曲録(きょくろく)は寺院で多く用いられたこれも中国式の椅子で、高僧の画像に多く描かれています。どの時代からの物かは調べていませんが、鎌倉時代には禅宗系の高僧の画像にあります。 天皇の椅子使用例(桓武天皇) http://livedoor.blogimg.jp/ks_dee_kyoto/imgs/0/0/004b89d5.jpg 曲録 画像(現代) https://www.jiin.co.jp/products/list.php?category_id=34 栄西 http://www.hiroshi-t.com/eisai11.jpg https://www.kenninji.jp/yousai/img/img01.jpg 道元 http://www.zenkouji.net/tera/soutou/dougen03.jpg 次は床几で、折りたたみ式の物が良く知られますが、縁台を「床几」とよむ例があり、腰掛上の物も床几とされます。折りたたみの床几は古く、古墳時代の埴輪にあるとされますが、戦国時代の軍陣で用いられたのは知られています。*着剣の場合、背もたれがあると起座に邪魔になるためと、草摺りの邪魔になりづらく、持ち運びに便利なためとされます。この場合、盾をテーブル替りに用いることがあります。 なお、テーブルは、「卓子(たくし)」、「卓」と言いますが、明治前後には両語ともに用いられます。 錦絵には、西南戦争に関する物に、イス・テーブルを用いた戦陣を描いたと思われる物がありますが、実景なのか否かは不明です。また、完全なる形での西洋式のテーブルと椅子の使用でもないようです。 「いつ頃からテーブルと椅子を使うようになった」かということですが、最初に書いたように、椅子(とテーブル)の定義によると思います。床几と盾の机をどの様に考えるかということだと思います。 戦陣での床几用例 https://sengoku-g.net/img/00043_l.jpg 幕末・維新の軍陣(テーブル・イス使用錦絵‐実際に用いたか否かは不明) http://livedoor.blogimg.jp/vipper_6320/imgs/3/8/385e73a7.jpg https://i.pinimg.com/736x/05/6d/3b/056d3b6da903af88ac39e9a8845a7dcc.jpg *着剣の場合=西洋では椅子に背もたれがあるため、椅子の左手から座り、立つ時もたった後に左手に動くようにします。これは日本でも同様で、現代の礼儀作法でもこれを踏襲しています。 「入部」も「入府」も、意味的にはほとんど変わらないときと、変わる時があるようです。「入洛」「入府」「入部」と並べると、「入洛」は天子の都に入ること。「入府」は覇者の治府・覇府=武家政権の政庁、組織としての幕府の地に入ること。「入部」は領地・領国・治国へ入ることを示すことがあります。特に「入府」は「入部」と同じような意味から出発して、覇府・幕府の地に入ることを示すようになっていったものと思われます。 ところで、「部」は、丸くふっくらした丘と、二つに分ける・区分するが原義で、それが、区分けされた軍隊、役所を表すようになります。(関連する意味のみ記述。府も同じ) 日本では、「べ」と読み、古代の豪族に支配された世襲的な集団をも表します。さらに、律令体制下では、「凡国郡司須(下)向2所部1検挍(上)者」(『令義解』)、「凡太宰及国司、巡2-行部内1者」(『延喜式』)とあるように、管轄の役所、領域を表します。そこから、国司が管轄国に入ることも「入部」とする用例が出てきます。さらに、「鎌倉遺文」「室町遺文」などの用例を見ると、荘官・地頭などが自己の管轄下にある荘園や、国衙領に入ることを、同じように「入部」と表記しています。平安・鎌倉・室町時代の用例には「入部」が圧倒的だと言えます。 「府」の漢字には関連するものとして大きく分けて3(4)つの意味があります。もともとは、「府」は、マダレと「付」が合わさったもので、マダレは屋根のある家・建物を表し、「付」は音符としての役割もありますが、ものがびっしりとくっついてことも表します。これが合わさって、物がびっしりとつまった家・建物=「蔵」を意味します。この本来の意味が拡大され、(1)役所。(2)みやこ・政府・地方行政府のある都市。(3)行政区画・領域の意味も持つようになります。また、日本においては下記のような(4)軍府を表すとされます。 各分類の用例としては次の通りです。 蔵=府庫・内府令(内蔵頭の唐名) 役所=*国府・幕府・大宰府・政府 みやこ・政府・地方行政府のある町=国府 行政区画・領域=大阪府 *国府=日本では令制国の国司(守・介・掾・目の四等官)の執務を執る役所である、国庁または国衙のことを言いますが、拡大して、国庁・国衙のある都市も言うようになります。なお、守護については、一般にその治所は守護所ですが、甲府については武田信虎が甲斐府中の意味で特に甲府と命名したので、例外と言えます。 また、武蔵国の国府は、現在の府中市(発掘調査されています)で、その北方に国分寺市が存在します。古代の武蔵国の南部―特に古利根川流域の下流部は海だったとされます。武蔵国は古くは東山道に区分され、その後、奈良時代の宝亀2年(771)に東海道に移されます。そのため、古代の東海道の官道は、相模国から海上の路を通り、安房‐上総‐下総-常陸と続きます。ヤマトタケルの道です。 この武蔵国府の府中については、江戸「御府内」を「府中」とする用例があるので、紛らわしいのですが、別のものです。 幕府という用語以外で、軍府の意味で「府」を用いたものは、「鎌倉府」「征西(大)将軍府」「鎌倉将軍府」「陸奥将軍府」とあるとされますが、鎌倉時代の公家の日記に、鎌倉を「覇府」とした記録があり、武家政権の政権・政庁・組織・所在地を指し示す言葉としては、幕府より先に登場します。当時の公家の意識の中には、六波羅が「武家」で、鎌倉が「覇府」と考えられていた上でのことですが。 さて、家康が江戸に入った8月1日は、旧来から「八朔(田の実の節句)」として秋の収穫を祝って贈物を贈る習慣があり、江戸時代にはその上に家康が江戸に入った日として、実質幕府成立の端緒の日と意識され、正月に次ぐ祝日として扱われます。 天正18年(1590年)時点では、当然のことながら家康は将軍ではないので、武家政権の政庁、組織としての幕府・覇府の意味は持ちません。また、武家政権の政権・政庁・組織を幕府と呼ぶようになるのも江戸時代中期からと言われているので、この時点及び1603年の将軍任官時では幕府とは呼びません。ですから、天正18年時点で「入府」の語が使われても「府」には「幕府・覇府」の意味は持たないはずですが、江戸時代に入り、八朔の日と同じように実質幕府成立の端緒の日と意識され、中には「入部」から「入府」に換えられた記述もあるのではと想像されます。 さて、「幕府」「幕下」については、『吾妻鑑』では、頼朝の呼称として用いられており、さらに公家で近衛大将となった者の呼称として、史料の例も見られます。 それは、「幕府」「幕下」さらに加えれば「柳営」も、「近衛府」もしくは「近衛大将」の唐名で、天正16年(1588)まで家康は左近衛大将だったので、家康が「(左)幕府」・「(左)幕下」と呼ばれてもおかしくはないのです。 そもそも、「幕府」は中国古代に軍旅中の将軍の宿舎、と言ってもテントのようなものを示し、それが将軍をも指し示すようになり、さらに拡大して、近衛軍などの中央軍の将軍・軍府を示すようになります。日本に入ると、将軍・大将軍(大使)その軍府だけでなく、鎮守府将軍・近衛大将をも表すようになります。ただ、武家政権の政権・政庁・組織としての「幕府」の語の使用は、遅いということです。 ところで、家康の将軍就任後のことになりますが、「在府」という言葉がありますが、参勤交代で大名が領地にいることを「在国」というのに対応して、江戸にいる時を「在府」と言います。また、「定府」という言葉も存在し、早くから江戸を「府」と考えられていたことがうかがえます。 戦車ですが、終戦時に日本国内に存在した戦車は、記録上1000台前後あったことは確認できるのですが、それ以外にも旧型が存在するでしょうから1500台ほどはあったのかとは思います。『昭和史の天皇』には戦車を埋めた話があったように思います。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 テーブルを囲んで椅子に座って会議する様子を想定して質問しました。 曖昧な質問になってしまって真に申し訳ございません。 最近観たNHK「歴史ヒストリア」の「鳥羽・伏見の戦い」での大坂城内の場面です。 慶喜が城を脱出する前日と、脱出後の場面ですが、立派なテーブルと椅子6脚がありました。 脱出前の慶喜の場面では、無人のテーブルとは少し離れた一段高い所にある机の前の椅子に、慶喜は洋式軍装で座っていました。 こんな立派なテーブルと椅子が大坂城に常備されていたのか、あるいはこんな緊急時であっても二条城から持ち込んだのか、つまらぬ想像をして、つい安易に質問してしまいました。 新政府軍側の場面では、軍装の人物数人が床几に座って、粗末なテーブルを囲んでいました。 軍装とテーブル・椅子は何か関連性がありそうだと、疑問に思って質問しました。 椅子の歴史については、お陰様でよく分かりました。 また、テーブルは、「卓子(たくし)」とか「卓」と言っていたのですね。 今でも、食卓や雀卓と言いますね。分かりました。 入府と入部については、「家康江戸入府」「家康江戸入部」で検索すると、どちらも甲乙つけがたい感じなので質問しました。 どちらを使っても間違いではない、という結論にしました。

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