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鎌倉幕府は源頼朝が第上の幕府ですよね?

北条氏が代表の幕府はないのですか?

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  • fumkum
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回答No.8

NO6で回答した者です。再追記をします。長くなり、申し訳ありません。 流人時代の頼朝の女性関係ですが、北条政子は有名ですが、『曽我物語』によるとそれ以前に伊東祐親の三女の千鶴御前とする女性がおり、祐親が上京中に懇ろとなり、子息をもうけたとあります。祐親は京から帰り、そのことを知ると激怒し、若君は殺し、三女は郎党に縁付け、頼朝を殺そうとしたとあります。 『吾妻鑑』の養和2年(寿永元年)2月15日の条には、「去る安元元年九月の比、祐親法師武衛を誅し奉らんと欲す。九郎この事を聞き、潛かに告げ申すの間、武衛走湯山に逃れ給う。」とあり、伊東祐親と頼朝の重大なトラブルがあり、祐親の次男の伊東祐清の密告で頼朝は難を逃れたとしています。翌年の安元2年には、祐親の嫡男で、曽我兄弟の実父の河津祐泰が工藤祐経により暗殺されるなど、伊東・工藤氏の内部の争いも関係するものと考えられますが、詳細は不明です。 このように、頼朝の流人時代を乏しい資料で見ていくと、頼朝の周囲には比企尼を中心とする扶助する人々が見られ、南関東・伊豆を中心とする豪族との交流がうかがえます。その中で北条氏の存在は薄く、頼朝の姻族の枠を大きく外れるものでなく、勢力も小さかったようです。鎌倉時代を通じて、勢力を拡大し、実質的に幕府を支配するようになったものの、出自から将軍にはなれなかったことになるようです。しかし、将軍にはなれなかったとしても、鎌倉幕府の実質的な代表は北条氏であったことは間違いのないことだと思います。

  • fumkum
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回答No.7

NO6で回答した者です。追記をします。 では、初代将軍の源頼朝はどのような存在だったのでしょうか。九条兼実の書いた日記の『玉葉』の文治元年12月27日の記事に、頼朝の書礼(書状-日付は12月6日)に、「天下草創」と書かれています。この書状の「天下草創」は、直接的には義経擁護派の解任と、親頼朝派の公卿の登用、10人の議奏公卿による朝議の主導の体制を言っています。しかし、この時期は義経の追捕と、守護地頭の設置をめぐる朝廷と鎌倉側(上洛した北条時政)の折衝と、認可の後でもあり、頼朝の事績全体を「天下草創」と認識されています。 その頼朝ですが、源義朝を父とし、熱田大宮司の藤原季範の女(むすめ)の由良御前との間にうまれ、母が中級貴族の娘であったために、三男でありながら任官後は兄二人を官職の面で凌駕し、義朝の嫡男とみなされたとされています。平治の乱の敗戦後に捕縛され、清盛の継母の池禅尼などの命乞いで助命され、伊豆国の蛭島に流されます。蛭島は一般に蛭ケ小島と呼称されますが、『吾妻鑑』では蛭島とのみ書かれています。場所は、隣接地に伊豆国府あったとされる三島大社から南に5km程、狩野川と伊豆山脈の間の平坦地。東1.5kmには山木、西2km程には北条館という地勢です。 この流人時代の頼朝については、史料が少なく、主要な資料は『吾妻鑑』『曽我物語』で、それに『玉葉』『愚管抄』などの断片的な記述になります。この内『曽我物語』は物語ですので、正確性に欠ける面が当然あります。例えば有名な政子の頼朝の待つ伊豆山神社への逃避行ですが、この話は『曽我物語』にある話で、北条時政が恋仲の頼朝と政子の間を引き裂き、政子を山木兼隆に嫁入らせた夜に政子は山木館を抜け出し、頼朝の待つ伊豆山神社へ逃げ出すという話です。現在この話は否定されており、Wikiでも何件かの項目でこの話を記述した後に、わざわざ史実ではないと注釈しています。理由は、頼朝と政子の間の第一子の大姫の生年が治承2年(1178)であるのに対し、山木兼隆が伊豆に流されたのが翌年の治承3年(1179)の11月以降であることが第一の理由です。第二の理由は、『吾妻鑑』の当該記述を見ると、「君流人として豆州に坐し給うの比、吾に於いて芳契有りと雖も、北條殿時宣を怖れ、潜かにこれを引き籠めらる。而るに猶君に和順し、暗夜に迷い深雨を凌ぎ君の所に到る。また石橋の戦場に出で給うの時、独り伊豆山に残留す。君の存亡を知らず、日夜消魂す。」と記述され、政子が伊豆山にいたのは石橋山の合戦時であり、逃避行の時は、「潜かにこれを引き籠めらる」とあるので北条館から逃れ、頼朝の元へ逃れたとしています。「君の所に到る。」として、この部分で一旦文を終了しているので、次の文末の「独り伊豆山に残留す。」には直接つながらず、逃避行の目的地が文意・文脈から伊豆山とは読めないことです。以上の2つの理由から、現在では伊豆山神社への逃避行の話は否定されています。ただ、頼朝と山木兼隆の間には、『吾妻鑑』の治承4年(1180)の8月4日の条に、兼隆について「且つは国敵として、且つは私の意趣を挿ましめ給うが故」と、討伐の理由を頼朝が話しており、何らかの「私の意趣」が存在したとしています。 流人時代の頼朝の生活ですが、周辺の人物を中心としてみていくと次のようになります。 知行国主・国守=平治の乱の恩賞で、摂津源氏の源頼政が知行国司で、本人及び子息が国守に任命されており、以仁王の乱に源頼政が敗死するまで知行国司でした。そのため、頼朝の配流地が伊豆になったのも、そのような関係によるとの説もあります。また、以仁王の挙兵にあたり、『吾妻鑑』の5月10日の条に、「下河邊庄司行平使者を武衛に進し、入道三品用意の事を告げ申す」とあり、源頼政が下河邊行平の使者を通じて謀反の計画を事前に頼朝に告げたことがわかります。以仁王―八条女院―源行家―頼朝のルートの他に、以仁王―頼政―下河辺行平―頼朝のルートがあったことになります。 乳母、特に比企尼関係者=頼朝の流人時代を支えた最大の寄与者は、頼朝の乳母で、特に比企尼です。乳母として知られる女性は小山政光の妻の寒河尼と、山内首藤俊経の母の山内尼もいますが、流人時代の20年間を比企尼は支え続けます。『吾妻鑑』の寿永元年2月15日の条に、「能員が姨母(比企の尼と号す)当初武衛の乳母たり。而るに永暦元年豆州に御遠行の時、忠節を存ずる余り、武蔵の国比企郡を以て請け所と為し、夫掃部の允を相具す。掃部の允下向し、治承四年秋に至るまで、二十年の間、御世途を訪い奉る。」とあり、流人時代の頼朝のために夫の比企掃部丞と共に京から武蔵国の比企郡に下り、そこから頼朝を扶養したことが記述されています。比企尼の援助はそれだけではなく、流人時代の側近NO1の安達盛長が、比企尼の長女である丹後内侍の夫であることです。さらに、流人時代の最後の治承年間に、安達盛長の推挙により大和判官代藤原邦道が加わります。邦道は山木襲撃前に、山木館の見取図を作成したとされます。 比企一族は2代頼家の乳母を出し、また頼家側室のなった比企能員の女が頼家の嫡子を産むなど、頼家を取り込んで権勢を誇りますが、比企の乱で一族族滅の運命をたどり、本来の事績も消されている事柄が多いとされています。それでも消せない功績があったということになります。 さらに、頼朝の乳母の甥の三善康信がいます。康信の叔母の乳母が誰なのかはわかっていませんが、『吾妻鑑』の治承4年(1180)6月19日の条に、以仁王の挙兵と敗死、その後の情勢を知らせたことに関して、「山河を凌ぎ、毎月三箇度使者を進し、洛中の子細を申す。而るに今源氏を追討せらるべき由の事、殊なる重事たるに依って、弟康清を相語らい、着進する所なりと。」とし、に三度京都の情報を伝えていたことがわかると共に、事が重大なため弟の康清を直接の使者としたことが記述されています。月に三度の使者を個人的に京から伊豆へ派遣することは、当時の交通事情、費用などを考えると、よほどのことだと思います。 母の実家の熱田大宮司家では、頼朝が流罪として伊豆に下る時に従者を付けただけでなく、母の弟の祐範が毎月使者を派遣しています。 側近の武士としては、近江源氏(宇田源氏)の佐々木秀義の子息の定綱ら四兄弟です。佐々木秀義は平治の乱に義朝方で参戦したために所領を没収されます。そのために関東に流れ、その子息の四兄弟は頼朝の側近として使え、山木館襲撃時に、主要戦力として奮戦します。 身近に仕えたのは以上のような人々ですが、『曽我物語』には伊豆の伊東氏のもとに頼朝が出向き、伊豆・相模を中心とする武士が集まり、狩や宴に興じた姿が描写されています。『吾妻鑑』の治承4年(1180)6月27日の条には、「三浦の次郎義澄・千葉の六郎大夫胤頼(常胤六男)等北條に参向す。日来京都に祇侯す。去る月中旬の比、下向せんと欲するの刻、宇治合戦等の事に依って、官兵の為抑留せらるの間、今に遅引す。数月の恐鬱を散ぜんが為参入するの由これを申す。日来番役に依って在京する所なり。武衛件の両人に対面し給う。御閑談刻を移す。他人これを聞かず。」とあり、南関東の大豪族の三浦・千葉氏との交流と、北条氏をも排除して密談しており、両氏との交流の深さがうかがえます。話は前後しますが、挙兵の前に安達盛長を相模の豪族に使いに出しています。『吾妻鑑』の記述は次の2点です。 「6月24日 乙巳 入道源三位敗北の後、国々の源氏を追討せらるべきの條、康信が申状、浮言に処せられべからざるの間、遮って平氏追討の壽策を廻さんと欲す。仍って御書を遣わし、累代の御家人等を招かる。籐九郎盛長御使いたり。また小中太光家を相副えらると。」 「7月10日 庚申 籐九郎盛長申して云く、厳命に従うの趣、先ず相模の国内進奉の輩これ多し。而るに 波多野右馬の允義常・山内首藤瀧口の三郎経俊等は、曽って以て恩喚に応ぜず。剰え條々の過言を吐くと。」 中には誘いに応じない者も頼朝の乳母子の山内首藤経俊のように多かったようですが、石橋山の合戦に頼朝方として参加した者は『吾妻鑑』では次のようになります。 「扈従の輩 北條四郎 子息三郎 同四郎 平六時定 籐九郎盛長 工藤介茂光 子息五郎親光 宇佐美三郎助茂 土肥次郎實平 同彌太郎遠平 土屋三郎宗遠 次郎義清 同彌次郎忠光 岡崎四郎義實 同余一義忠 佐々木太郎定綱 同次郎経高 同三郎盛綱 同四郎高綱 天野籐内遠景 同六郎政景   宇佐美平太政光 同平次實政 大庭平太景義 豊田五郎景俊 新田四郎忠常 加藤五郎景員 同籐太光員 同籐次郎景廉 堀籐次親宗 同平四郎助政 天野平内光家 中村太郎景平 同次郎盛平 鮫島四郎宗家 七郎武者宣親 大見平二家秀 近藤七国平 平佐古太郎為重 那古谷橘次頼時 澤六郎宗家   義勝房成尋 中四郎惟重 中八惟平 新藤次俊長 小中太光家」 北条氏は筆頭に書かれますが、一族は4名にとどまり、主要な勢力とはとても言える状態ではないことがわかります。

  • fumkum
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回答No.6

講談社発行『日本の歴史 第09巻 『頼朝の天下草創』』(山本幸司著)の、「第二章 頼朝の構想」の「4 組織としての鎌倉幕府」の中の、「人間関係の体系」の中に、北条氏が征夷大将軍となりえなかった理由が書かれています。 「この(*鎌倉幕府の)簡素な機構の根底は、鎌倉殿が御家人を支配し、御家人はまたその家人・所従を支配しという、人間から人間への連鎖が支えていたわけであり、いうなれば人間関係の体系が鎌倉幕府体制であった。鎌倉幕府の支配領域が、承久の乱から蒙古襲来の時期を経て、当初の東国から全国政権へという拡大を見せるに至って、さすがにその支配機構も複雑化せざるを得ない。だが、根底にあるのが将軍―御家人関係であるという点は動かない。 したがって頼朝が死んだ後、要としての頼朝の欠如をどうやって埋めるかが幕府の最大の課題とならざるを得なかったのは当然である。幕府の本質が人間関係の体系にある以上、将軍の地位を空白にはできない。頼朝の系譜に連なる人間が将軍の地位にある間はまだしも、その系譜が途絶えてしまえば。執権・連署という地位を独占していた北条氏の権力が突出し、いやでも幕府が実質的には北条氏の政権であることが目に付くが、かといって北条氏が将軍の地位を埋めることはできない。なぜなら摂関家や源氏といった貴種ではなく、東国のそれも一小豪族に過ぎない北条氏では、正当性を主張することはおろか、周囲の武士たちの同輩意識を否定することさえ容易ではなかったからである。北条氏は鎌倉時代も下るにつれて、守護・地頭といった地域支配に関わる所職を次第に一門で集積し、その点では最高権力に成り上がったが、人間的な結合の中心とはなりえないのである。 そのため鎌倉幕府が実質的に北条政権であったという否定しがたい事実にもかかわらず、北条氏は表面には清和源氏・九条流藤原氏・親王という正当性の象徴を掲げて、一貫して自ら歴史の表舞台に立とうとはしなかった。このような北条氏の観念上の地位を間接的に示しているのは、鎌倉幕府滅亡後、江戸幕府倒壊までの武士社会の中で政権を執ったものはもちろん、政権の奪取を企てた者の中にも、自己の正当性を鎌倉北条氏の末裔であると仮称して基礎づけようとしたものはいなかったという事実である。後北条氏のみは例外といえるかもしれないが、この場合は全国の主権者ではなく、武蔵・相模の支配者としての正当性の基礎づけに用いたのであって、意味が違う。」 以上が、北条氏が将軍になれない(ならなかった)理由ですが、これは著者一人の考え方だけではなく、今の中世史研究者の最大公約数的な考え方でもあります。特に、「北条氏が将軍の地位を埋めることはできない。なぜなら摂関家や源氏といった貴種ではなく、東国のそれも一小豪族に過ぎない北条氏では、正当性を主張することはおろか、周囲の武士たちの同輩意識を否定することさえ容易ではなかったからである。」の部分が本質的な部分です。 Wikiでもこのような考え方を受けて「征夷大将軍」の項目内で、「北条氏が幕府内では将軍を遥かに凌駕する権力を握り、また朝廷に対しては将軍職任命を容易に強要できるだけの実力を持ちながら自らは将軍にならなかったのは、もとは伊豆の一介の小豪族に過ぎない出自の低さのため、仮に将軍職に就いても、有力御家人たちの心服を得ることは難しかったためとされる。」 としています。 これらに付言し、まとめると次の2点に集約されます。 1、北条氏は家柄が悪く(低く)、貴種ではなかった。 2、鎌倉幕府成立以前の勢力が小さく、小豪族に過ぎなかった。三浦・千葉・上総・秩父(畠山・河越)・藤姓足利氏(藤原秀郷系)などの関東の武士団に到底及ばず、伊豆国内でも伊東(工藤)・狩野などにも及ばない勢力であった。 逆に言うと、将軍は貴種であること、多くの武士団の上に存在し、その勢力をまとめ、より大きな全国規模の勢力の上に存在することになります。 さて、征夷大将軍に関することで近年の発見は、『山槐記』の研究3年(1192)7月9日、12日の条で、これによると頼朝の征夷大将軍任官に至る交渉で、鎌倉側は当初「大将軍」の任官を望んでも、それが必ずしも「征夷大将軍」ではなく、朝廷側と折衝の結果「征東大将軍」・「総管」などの候補から、消去法で「征夷大将軍」号に落ち着いたことがはっきりしたことです。従来は、鎌倉側の要求は「征夷」に重点があるとの説が主流でしたが、学会の一部では「鎮守府将軍」号を意識して、それ以上の「征夷大将軍」号を望んだとの説があったのです。この鎮守府将軍は、奈良時代に設置された鎮守将軍を最初とする令外官で、陸奥国の多賀城(後に胆沢城)に置かれた蝦夷対応のための軍府の将軍です。平安時代に入ると徐々に名目化するものの、ほぼ常設の武門の最高栄誉職とみなされました。頼朝の属する河内源氏では、始祖の源経基-満仲-頼信-頼義-義家と5代にわたり鎮守府将軍に任じられ、武家の棟梁の地位を確立したとされます。河内源氏以外では、摂津源氏、藤原秀郷、平貞盛、出羽の清原氏など多くは将門の乱の鎮定者の子孫が任じられています。これに関連するのが「武家の棟梁(武門の棟梁・武士の長者などとも)」で、軍事貴族出身で「鎮守府将軍」任官経験者(他の要因・成立もあり)が、武家の棟梁のひとりとみられるようになります。平家のように鎮守府将軍を経ずに源義家の嫡男の義親を討伐したり、海賊討伐などで武家の棟梁とみられる者も出てきます。また同時代でも武家の棟梁とみられる者は、一人ではなかったとされます。例えば、寿永3年段階では、「(前?)総管」の平宗盛、「征東大将軍」の木曽義仲、「(前)鎮守府将軍」の藤原秀衡(奥州藤原氏)、「(前)右兵衛佐」の源頼朝が並立し、それぞれが武家の棟梁としての認められるだけの実力を持っていたとみなされます。それを頼朝は、木曽、平家と滅ぼし、最後に残った鎮守府将軍の家奥州藤原氏を滅ぼし、単独の武家の棟梁として残り、征夷大将軍に任官し、後継者が襲職を繰り返すことにより、征夷大将軍=武家の棟梁の図式が定着するようになります。さらに注目されるのは、頼朝の征夷大将軍任官以降、鎌倉時代を通じて鎮守府将軍の任官が絶えますが、建武政権下の元弘3年(1333)に足利尊氏が任官し、以降村上源氏(上級公家)の北畠氏も任官します。さらに南北朝の混乱期には、尊氏が鎮守府将軍から任官(転官)した「征東将軍」、南朝の皇子による「征西将軍」「征夷大将軍(一部征東将軍か?)」などの「将軍」号が乱立します。しかし、これらの将軍号も、足利氏による征夷大将軍の確立により消えていきます。室町以降は贈官を除き、鎮守府将軍の任命はなくなります。このように見ると、武家の棟梁として征夷大将軍に対抗できる官職として鎮守府将軍があったこと。さらに、令制国単位やより広域で見ると、「押領使」「追捕使」などの国の棟梁とされる武士も存在し、これらの大小の棟梁を頼朝は、武家の棟梁として自分に対抗する者は滅ぼし、国の棟梁クラスの中でも藤姓足利氏のように滅ぼしたり、逆に御家人・守護(諸国追捕使)として取り込むなどしながら、唯一の武家の棟梁としての地位を築きます。頼朝が「天下草創」「幕府政治の創業者」として、偉大な征夷大将軍であったことは論を待ちません。 字数がオーバーしたので追記します。

  • stss08n
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回答No.5

誠に、”残念ながら、有り得ませんでしょう。

回答No.4

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 鎌倉幕府=源頼朝としか言われないのが通例ですが、 考えてみてください。源頼朝は本来「流人」として伊豆へ流されました。 流人ですから、当然、資金力も無ければ、知名度もない。まあ、源氏の御曹司ぐらいは知れていたでしょうが・・・。 では、どうやって鎌倉幕府が成立したのか? そこには、北条政子が大きな役割を果たしたのです。 頼朝は流罪とは言っても、決して土牢などに閉じ込められるのではなく、流罪地の豪族などに預けられ、その豪族の所有地(一族の所有地、とする意見もある)から出なければ、結構自由に徘徊することができました。 そして、頼朝が預けられたのは「北条時政」の屋敷でした。 やがて頼朝と北条時政の娘・政子(注・参照)が恋に落ちました。 当然と言えば当然ですが、政子の父・時政は罪人である頼朝との仲には大反対だったと言われています。(「吾妻鏡」より) しかし、治承元年(1177年)頃、伊豆山神社で待つ頼朝の元へ家人の追手を振り切って政子が駆け込みました。 なぜ、頼朝は伊豆山神社で政子を待ったのか? なぜ、時政の家人たちは伊豆山神社まで乗り込んで行って政子を連れ戻すことができなかったのか? 当時は、神社仏閣には「僧兵」がおり、伊豆山神社にも多数の僧兵がいました。時政の家人たちは、神社の下までは行ったが、追手の数だけでは僧兵にはかなわない、と、判断をしてスゴスゴと引き揚げたのです。 また、家人からの話を聞いた時政も僧兵が相手となると「勝ち目」がないと判断をしました。 なぜなら、伊豆山神社の僧兵を相手としたとすると、それこそ関東一円の神社仏閣の僧兵が団結を組んで相手になってくるからでした。 時政の家人たちの数は、当時の文献から見ると、およそ150~200人位、関東一円の神社仏閣の僧兵が手を組んだとすると数千人とも言われており、当然のことながら勝ち目はありません。 こうして、頼朝と政子は伊豆山神社にしばらくは匿われ、時政もついには二人を許すこととしました。 これにより、頼朝は北条時政・義時の支援を受け、時政等の呼びかけにより坂東武者たちが結集しました。 従って、頼朝の力だけではなく時政・義時等も合議の上で「鎌倉幕府」の成立に 向かっていったのです。 そして、棟梁は源頼朝と決めました。 北条時政等は「平氏」の流れを汲んではいるものの、やはり、家格では頼朝の「源氏」の嫡流にはかなわなかったのです。 まず、治承4年(1180)に鎌倉の大倉郷に頼朝の邸となる「大倉御所」が置かれました。続いて幕府の統治機構の原型ともいうべき「侍所」も設置されて武家政権の実態ができていきました。 やがて、時政などの働きかけにより、朝廷は寿永2年(1183)10月の宣旨で頼朝に対し、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認したのです。 寿永4年(1185)壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、同年、文治の勅許により、頼朝へ与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した。 近年は、この「文治の勅許」が下された1185年をもって「鎌倉幕府」が開かれた、と言う説が多くなってきています。 (これまでは、1192年・いい国つくろう鎌倉幕府、でしたね) こうして、頼朝→頼家→実朝、と「鎌倉殿」と呼ばれる将軍が代替わりをしていきますが、特に、頼朝の死後の3代目実朝の代からは北条時政は「執権」という役職名で、実朝を「補佐」するという名目でしたが、実際にはこの時すでに「北条氏」が実権を握ってしまっていたのです。 また、実朝が暗殺されると、頼朝の遠縁であったる摂関家の幼児藤原頼経が新将軍=鎌倉殿として迎え入れたりしましたが、やはり、実権は北条政子・義時姉弟が握っていました。 結論としては、平氏単独の幕府はない。しかし、鎌倉幕府を見るかぎり、まさに「平氏の幕府」と呼んでも良いのではないかと私は考えます。 注・北条政子についての検証 皆さんは、源頼朝の妻であるのに、源政子でなく、なぜ北条政子と呼ばれるのか疑問に思ったことはありませんか? 多くのメディアでは、最初から「北条政子」と書き出していますが、それは大きな間違いなのです。 実は、政子の幼少の頃および頼朝と添い遂げてからも正確な名前は判っていないのです。 建保6年(1218)4月14日(すでに頼朝と頼家は死亡している)に朝廷より、従三位に叙された際に、父北条時政から「政」の一字をもらって名乗り、父が時政「ときまさ」と呼ばれていたことから、政子も「せいこ」ではなく「まさこ」と呼ばれたのではないかとする説が有力なのです。 さらに、同年10月12日には従二位に昇叙し、4年後に剃髪をし「二位尼」(にいのあま)と呼ばれた。 また、尼将軍と呼ばれながらも「政子」という署名などは、現在、全く見つかっていない。ましてや、「政子」にルビ(ふりがな)を付けた史料も一切見つかっていない。 鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」(あづまかがみ)には「平政子」として出てくるが、より多いのは「二品禅尼」(にほんのぜんに)と書かれている。 「二品」という呼び方は、「二位」(従二位)を中国の唐名に置き換えれば「二品」になり、吾妻鑑は政子をより際立たせるために、唐風の記載を採用したものと考える。 「品」(ほん)は、中国(唐)の律令制での「一品」(いっぽん)から「四品」(よんほん)まである親王(または、それに準ずる者)の位階。 吾妻鑑の成立は正安元年(1300)頃と言われており、さらには、治承4年(1180)から文久3年(1266)までの鎌倉幕府の事柄が記されている。 従って、吾妻鏡から推測すると、「尼将軍」、「二位尼」、「二品禅尼」、「北条政子」、「平政子」等は共に、夫である頼朝や実子である頼家、実朝なども死亡してしまい「源」の姓を名乗る必要性がなくなり、婚家(源氏)から実家(北条=平氏)への帰属を強めたものと思われる。

回答No.3

鎌倉幕府は,初代から,第三代将軍(代表者)までは,清和源氏の武家の河内源氏の一族でしたが,第三代将軍,源実朝氏が,暗殺されてからは,尼将軍と呼ばれた,初代将軍,源頼朝氏の妻の北条政子氏の一族の,伊豆北条氏が,鎌倉幕府の執権として,事実上,鎌倉幕府のトップとして,政務に就きましたので,将軍自体は,京の都の公家の方などを選んで,就任させていましたが,鎌倉幕府の御家人や,各地の地頭などの武士達などを,まとめていたのは,伊豆北条氏でした..

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2168/4802)
回答No.2

>北条氏が代表の幕府はないのですか? 原則論的な「幕府の代表」とするなら、北条氏の幕府は存在しませんね。 鎌倉幕府は、3代以降も形式上は源将軍家が代表です。 ※江戸時代でも、徳川家でなく「源朝臣徳川・・・」で「あくまえ、源氏」としての将軍就任でした。 北条氏は、形式的には「鎌倉幕府の、執権」に過ぎません。 執権は、将軍の命に従って政治を担当する部署です。 まぁ、現実的には執権=将軍代理でしたがね。^^;

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9578)
回答No.1

gjeuuipyさん、こんばんは。 幕府の代表は将軍です。鎌倉幕府はもちろん源頼朝が開きました。しかし、源氏の将軍は3代で絶えてしまい、摂家の九条家から迎えた将軍も2代で取り止めになりました。その後は皇族が将軍となる宮将軍が4代続きました。 北条氏は執権として頼朝の没後に次第に勢力を伸ばし、源頼家以降は実力のある御家人たちを排除し、他の御家人たちを凌駕する力を得ていきました。 だから、実権は執権である北条氏が持っているといっても過言ではありませんが、幕府の代表ではありません。 詳細は下記のURLを参照してください。 鎌倉将軍一覧 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7 鎌倉幕府の経過 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C#%E6%88%90%E7%AB%8B

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    鎌倉って昔、なんかすごかったのですか? 鎌倉幕府って言うくらいだから、幕府があって、一体どんなところだったのでしょうか・? 詳しく知りたい・・・

  • 頼朝は鎌倉のどこに?

    源頼朝は幕府を開いて、鎌倉のどこに住んでいたのですか。跡は今でも残っていますか。 鎌倉時代は城ではなかったのですか。 よろしくお願いします。

  • 鎌倉幕府の成立理由

    テレビ「義経」を見ていてふと思ったのですが 頼朝はなぜそれまでの朝廷政治を否定して 武家政権を設立できたのでしょうか? 朝廷の反対・反感もものすごいものがあったはず ですし それまでの平安時代では朝廷任命の国司などが各地方を 治めていたはずなのですが。。。 しかし頼朝の幕府設立の時期には、北条、畠山、足利 ・・・など各地方豪族が統治していてそれが 鎌倉幕府の基礎となって幕府政権設立が可能と なったようなのですが・・・ そのへんのところと、そもそもいつ頃から、どのように 朝廷任命の国司が有名無実となり、武士が 地方の統治実権を持つようになっていったのか (いわゆる武士の勃興の理由と背景) を教えてください

  • 鎌倉幕府

    いとこの子供(幼稚園)に、 鎌倉幕府ってなに?と訊かれ、返答に窮しました。笑 結局お茶を濁してしまったのですが、 もうちょっとましな答えようがあったのではないか?と悔やまれます。 鎌倉幕府の特徴を幼稚園生にもわかりやすく 教えるとしたら、なんて説明しますか?