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20年前の歴史の教えについて
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>教師や本などは確証もない、でたらめを教えてたんでしょうか? これには、深い事情があるようです。 先ず、幕府を倒した明治政府は「江戸時代は、全て悪」とした教育を行っていますよね。 「鎖国」も、同様です。 江戸時代には「鎖国」という概念は、ありませんでした。 国際的な窓口を、「中国・オランダに限定」しただけの事。 オランダ商館では、決してオランダ人だけが駐在していた訳ではありませんよね。 1700年代でも、オランダ人以外の多くの外国人が長崎から江戸へ向かっています。 浦賀にペリー艦隊が来たのも、当時の浦賀住民・幕府高官は驚いていません。 ペリーが来日する事は、1年前にオランド国王の親書で幕府に伝わっています。 また、ペリー来航よりも10年以上早くイギリス艦隊が浦賀に来ています。 「徳川政権は間違っていて、天皇制国家が正しい」と、国民の思想を変える事が統治に重要だったのです。 苗字(名字)の件にしても、同様です。 「士農工商」制度で、国民は差別されていた。 徳川の治世は、武家だけが特権階級だった!とね。 そこで、如何に庶民が武士に対して差別されていたのか?を強調する政策だったのです。 もちろん、戦前まで存在した「日本政府が決めた正しい歴史概念」です。 1945年の敗戦後、教育の自由が認められましたよね。 国が都合よく決めた「正しい歴史」が、放棄された訳です。 が、未だ戦前・戦中の教育を受けた政治家・官僚・教育者が現役なんですね。 一番重要なのは、(大日本帝国憲法で)陸海軍の総帥+日本の統治者だった昭和天皇が存命だった事です。 左派系思想が広まり、左派系活動家が行動している状況は安全な国家が築けない。 そこで、旧教育思想を薄めた常態での教育が始まったのです。 ※徳川治世が悪くなかったと考えると、明治維新は「テロの結果」となります。 ところが、平成の時代になると大きな変化が起きます。 今上天皇(平成天皇)は「過去との決別」を、考えていた様です、 政治家・官僚・教育者も、戦後生まれが主流を占めますよね。 この波に乗って、歴史の再検討が行われた次第です。 今の時代、一部左派系報道機関・左派系活動家・教職員組合・自治労・政党を除いて「天皇正反対」を叫ぶ人は非常に少数になりました。 「是々非々」で、見直しが行われているのです。 今では、どこかの国と違って為政者が決めた「正しい歴史」は存在しません。 科学的な検証で、歴史を決めています。 余談ですが・・・。 お墓に苗字(名字)を彫らないのは、宗教的な理由もあります。 浄土宗・浄土真宗は、苗字でなく「南無阿弥陀仏」と彫るのが基本です。 最近では、「〇〇家の墓」「〇〇家代々の墓」と彫るのが増えていますがね。
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- D-Gabacho
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ネットでちょっと調べてみたら公共図書館のレファレンス事例のデータベースに「江戸時代の庶民が苗字を名乗っていたことに関する資料はあるか?」という質問への回答(http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000188816)が載っていました。それによると、名字を公称できない庶民が村落内や庶民どうしでは堂々と名字を名乗っていたことを最初に明らかにしたのは洞富雄の論文「江戸時代の一般庶民は果して苗字を持たなかったか」(1952年『日本歴史』)で、その説は豊田武『苗字の歴史』(1971年・中公新書)によって補強され決定づけられたらしいです。20年前というと1990年代後半ですから、そのころには江戸時代の庶民が苗字を使っていたことは、とっくに定説化していたはずですから、墓に苗字を彫ってはいけなかったといった記述が教科書にあったとは思えません。質問者さまが教わった教師が、勝手に思い込みで言っていたのだと思います。
補足
ご回答ありがとうございます 教科書ではなく、本屋で売られている歴史の本ですね
- g27anato
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「~いけなかった」…当時の決まり事だったので間違いではありません。 ただ、いつの時代にも決まり事を守らない人はいます。 そういう墓標も「今は見つかってる」ということです。 以前はそういう墓標が「有る」という事実のほうが確認されてなかった。 つまり「決まり事としての確証」はあったけど、 「(決め事が守られないという)逆の確証」がなかったという事です。
補足
ご回答、ありがとうございます 20年ほど前の教えは決して、いい加減ではなかったわけですね 最近の歴史の本でも、墓碑に名字を彫り込むことは名字を公称できる人以外、許可してたわけでもなく、ダメとも言ってなかったと書いているものもありますね 許可を出してない以上、よくはないですからね
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