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慶長伏見地震が起こらなければ 秀吉は…

1596年の慶長伏見地震が起こらなければ豊臣秀吉は徳川家康の討伐を考えていたそうですが 本当でしょうか? 地震のせいで断念したそうですが

  • 歴史
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • oska2
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回答No.2

>1596年の慶長伏見地震が起こらなければ豊臣秀吉は徳川家康の討伐を考えていたそうですが 本当でしょうか? そういう説も、ありますね。 ただ、史実では「有り得ない」事です。 本当に家康排除を計画していれば、関白就任時の「大阪城でも家康対面」時に手を打っています。 が、(家康が上洛しない事に対して)妹の朝日姫を家康の正室(人質)として送り込み+実母も人質として送り込んでいますよね。 この時点で、家康も「秀吉は、命を望んでいない」と考えた事でしようね。 >地震のせいで断念したそうです 歴史は、勝者が作ります。 安土桃山・江戸時代は、勝者である徳川家が歴史を作ります。 徳川家に都合が悪い事実は、排除・改悪しますよ。 「太閤記」も、徳川家に配慮して多くの事が史実と異なりますよね。 秀吉の念持仏は、「三面大黒天」となっています。 が、本当は「随求菩薩」なのです。 太閤記が世に出た時は、徳川家の天下。 出版元の京都では、南禅寺が寺院統括。 秀吉⇒ネネ⇒高台寺ですから、先ず南禅寺の了解を得てから京都所司代に出版許可を求める必要があります。 「三面大黒天は、南禅寺が祀っている。参拝者が増えまっせ!」 南禅寺の了承を得た事で、実質的に太閤記の出版が許可されました。 以後、全ての〇〇太閤記は「三面大黒天」と記述。 結果、今でも「秀吉の念持仏は、三面大黒天」が常識になったのです。 今回の質問も、数ある説・逸話の一種と考えた方がいいかも?

azuki-7
質問者

お礼

秀吉は卑怯な手は使わない人物と言われてましたので家康を討つつもりなら 戦いの場で堂々とやったと思います 関白就任で呼んだときも暗殺は考えてなかったと思います (襲撃を画策した近習らを手打ちにもしてますし)

その他の回答 (1)

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (811/3029)
回答No.1

地震で集積した兵糧が焼け断念というのが定説だと思いますが、何か疑念があるのでしょうか?

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

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