• 締切済み

坂本龍馬

実はフリーメンソンで暗殺されたのは龍馬の影武者で龍馬はグラバーらの働きにより、外国に逃げていた。 確かに中岡慎太郎は両腕を斬られて3日喋り続けたと言うのも本当なのか疑問です。 グラバー邸にはフリーメンソンのマークも刻まれてます。 この龍馬は暗殺されてなかったと言う話の真実はどうなのですか?

みんなの回答

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11128/34636)
回答No.3

仮に龍馬が暗殺されていなかったとしてですよ、じゃあなぜ彼はその暗殺事件とされる以降に一切その姿をどこにも現さなかったのでしょうか。あれほどの目立ちたがり屋が。 いやね、これが平賀源内のような獄中の人とかなら分かります。平賀源内は人を殺めて獄中の人となったのですが、彼の交友関係には伝馬町に顔がきく人が結構いましてね、彼らの手引きで密かに脱出して余生を静岡かどこかで過ごしたという話があります。その旧家には「平賀源内をかくまった部屋」と伝わっている部屋があります。源内は外を堂々と歩いていたらマズい(獄中死したことになっている)ので生きていても表舞台から姿を消したというのは分かります。 しかし龍馬であるなら、その後にも彼が登場すべき場面というのは山ほどありました。龍馬暗殺事件の後に鳥羽伏見の戦いがあり、江戸城無血開城があり、東北から五稜郭の戦いに連なる一連の戦い(戊辰戦争)があり、明治政府の発足でもああだこうだと揉め事が絶えることがありませんでした。そのクライマックスは西南戦争でしょう。 龍馬暗殺事件より前に暗殺未遂事件は何度もあって、だからといって龍馬はその活動をやめることはありませんでした。 もしどこかで生き残っていたら、どこかで「ジャーン!俺は生きていたぜえ!」と登場して何か行動したはずです。どこか外国でかくまわれたとしても、そこで「俺ァもう何も思い残すことはない」と静かに余生を過ごすようなタマじゃありません。木戸孝允(桂小五郎)だってずーっと命を狙われていて何度も行方不明になって、その都度「たぶんどこかで死んだ」といわれたのですからね。 「もし仮に生き残っていたとしたら、なぜその後どこにも姿を現さなかったのか」の納得できる理由が提示できない限りは、荒唐無稽な都市伝説としかいわれないでしょうね。まあ「西郷隆盛や大久保利通に命を狙われたことに感づいたから」というのかもしれませんが、仮にそうだとしたら、「西郷や大久保が俺の命を狙っていた。もう俺は怖いから二度と日本には帰らないし、誰とも連絡はとらないよ。もう金輪際政治には関わりたくない」って思うようなクチだとは、私には思えないのだけどな。

access-free
質問者

お礼

ロスリン礼拝堂に岩倉使節団 明治4年、討幕から4年後、そこに”岩倉使節団”として岩倉具視と伊藤博文がロスリン礼拝堂に訪れます。 そこの場所になぜこの視察団が来たのでしょうか? 実はこの場所で亡命させた坂本龍馬と岩倉具視と伊藤博文が会うことが出来できました。 ロスリン礼拝堂での記録ではちゃんと残っています。 と言う話のネット掲示を見たので、その記録に写真が有れば公開してもらいたいですね。 西郷隆盛、大久保利通が命を狙ったなら、薩長同盟結ぶ前後に暗殺未遂が薩摩藩柄みで何度か有っても可笑しくないかと。 そして、中岡慎太郎が両腕を斬られて、3日喋り続けたと言うのも本当に出来たか気になってます。龍馬暗殺は谷干城こそが一番怪しいかと。

回答No.2

竜馬はメイソンでも下っ端でしょうから、彼ら外国勢力のために武器を売りさばくなどして貢献してもらった後、用済みになったら彼らの秘密を守りたいという意志のほうが強く働いてきますよね。そこまでして竜馬程度の人間を守るメリットはないのではないのでしょうか。 ただ、竜馬はメイソンでもあるでしょうが、ある意味それも隠れ蓑であり、麻薬や武器で世界中で莫大な富を築いてきたユダヤ系マフィアが行動主体だと思いますよ。そうやって、外国に逃したというようなディスインフォメーションを流して、彼らの存在や行為を眉唾ものに仕立て上げるのは常套手段です。ですので、後から湧いて出た情報はかなりの注意が必要なのです。

access-free
質問者

お礼

因みに此れを読んで質問しました。 討幕という大きな政治革命に関与していた坂本龍馬は実際長州藩のメンバーに暗殺標的にされていたのは事実です。 ただ暗殺の動きを事前に知ることはできたんです。 そこで当時の伊藤博文が坂本龍馬暗殺の情報を聞き、「これはヤバイ」と思い板垣退助にどうやって坂本龍馬を助けようか?という相談を持ちかけます。 そこでグラバーを通して軍資金を調達し薩摩の藩士を京都に送り出し(そこに紛れ込ませ)、実際殺されたのは坂本龍馬の影武者で当の本人(龍馬)は岩倉具視にかくまわれてイギリス(スコットランド)に渡ったとされています。 <事件の真相が旧紙幣に描かれている> 坂本龍馬は日本を新しい時代へ導いた英雄にも関わらずなぜ?紙幣の肖像画にならないのか?って事に尽きますが、そもそも坂本龍馬の肖像画が存在しないからなんです。 この記事で見かけるおなじみの肖像画は影武者の肖像画なので坂本龍馬の肖像画が存在しないのです。 当時の旧紙幣の肖像画 ・100円札は板垣退助 ・500円札は岩倉具視 ・1000円札は伊藤博文 上記の人物は龍馬と討幕に深く関わった人物であることは違いありませんが、なぜか旧紙幣には時代違いの聖徳太子が5千札と1万札として肖像画になってますが、この肖像画は坂本龍馬を指すと関は語ります。 そもそも聖徳太子は天駆ける天馬に乗ってやってきたとい言われていて聖徳太子の肖像画の奥に「龍馬」という人物を残したとされます。 ※天馬には龍と馬の文字が隠されています。 天馬とは上半身は龍の姿をしていて、下半身は馬の姿をしている空想上の動物。 ロスリン礼拝堂に岩倉使節団 明治4年、討幕から4年後、そこに”岩倉使節団”として岩倉具視と伊藤博文がロスリン礼拝堂に訪れます。 そこの場所になぜこの視察団が来たのでしょうか? 実はこの場所で亡命させた坂本龍馬と岩倉具視と伊藤博文が会うことが出来できました。 ロスリン礼拝堂での記録ではちゃんと残っていますので、調べてみる一見の価値ありですね。

回答No.1

龍馬がフリーメンソン(メイソン?)のメンバーだったのは事実らしいですが 彼は組織の秘密を探ろうとして消されたって言うのが本当のところだと思いますよ? 信長もJ・Fケネディもみんなかの組織の秘密を探ろうとして(或いは秘密を知って)消されました

access-free
質問者

お礼

討幕という大きな政治革命に関与していた坂本龍馬は実際長州藩のメンバーに暗殺標的にされていたのは事実です ただ暗殺の動きを事前に知ることはできたんです そこで当時の伊藤博文が坂本龍馬暗殺の情報を聞き、「これはヤバイ」と思い板垣退助にどうやって坂本龍馬を助けようか?という相談を持ちかけます そこでグラバーを通して軍資金を調達し薩摩の藩士を京都に送り出し(そこに紛れ込ませ) 実際殺されたのは坂本龍馬の影武者で当の本人(龍馬)は岩倉具視にかくまわれてイギリス(スコットランド)に渡ったとされています 事件の真相が旧紙幣に描かれている 坂本龍馬は日本を新しい時代へ導いた英雄にも関わらずなぜ?紙幣の肖像画にならないのか?って事に尽きますが そもそも坂本龍馬の肖像画が存在しないからなんです この記事で見かけるおなじみの肖像画は影武者の肖像画なので坂本龍馬の肖像画が存在しないのです 当時の旧紙幣の肖像画 ・100円札は板垣退助 ・500円札は岩倉具視 ・1000円札は伊藤博文 上記の人物は龍馬と討幕に深く関わった人物であることは違いありませんが なぜか旧紙幣には時代違いの聖徳太子が5千札と1万札として肖像画になってますが この肖像画は坂本龍馬を指すと関は語ります そもそも聖徳太子は天駆ける天馬に乗ってやってきたとい言われていて聖徳太子の肖像画の奥に「龍馬」という人物を残したとされます ※天馬には龍と馬の文字が隠されています 天馬とは 上半身は龍の姿をしていて 下半身は馬の姿をしている空想上の動物 ロスリン礼拝堂に岩倉使節団 明治4年、討幕から4年後、そこに”岩倉使節団”として岩倉具視と伊藤博文がロスリン礼拝堂に訪れます。 そこの場所になぜこの視察団が来たのでしょうか? 実はこの場所で亡命させた坂本龍馬と岩倉具視と伊藤博文が会うことが出来できました。 ロスリン礼拝堂での記録ではちゃんと残っていますので 調べてみる一見の価値ありですね。 此れを読んで質問しました。

関連するQ&A