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あなたは 自由を持て余しているか

noboundの回答

  • nobound
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回答No.1

 人間は自由だからといって、渋谷のスクランブル交差点に車で突っ込んでいいのかどうか。論ずべきは個人の自由と周りとの人間関係ではないのだろうか。  ここに関しては、孤独でいいとか、炎上もいいとか、いろいろな論理の本が出ています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 人間は自由だからといって、渋谷のスクランブル交差点に車で突っ込んでいいのかどうか。  ☆ むろん《自由》というのは――みづからの意志で自由に選択した思想や行動を表現するのですから―― その自由には なぜおまえはそのことを選んだかについての説明責任が 無条件に・絶対的に ついて来ます。  自由というのは そういうものです。  と同時に 《自由度》という点では あらゆることが自由です。  現にあちらの国では 学校で銃をぶっ放すことが 現象としては《自由に》おこなわれています。  人びとの自由な自己表現に対して 《検閲》が 堂々とおこなわれているところもあります。  ★ いいのかどうか  ☆ というのは 実際の・現実の行動や表現を省みるように促すちからがありますが ただし 倫理規範としては その恥づかしさを思い知らせるはたらきのほかは その行動を思いとどまらせるちからはありません。    ★ 論ずべきは個人の自由と周りとの人間関係ではないのだろうか。  ☆ 歴史的な事例を 聖書での話に採って来ていますが それらは まさに個人の自己表現とそこにおける自由やあるいはその自由や自己表現をとおしての人間どうしの関係について 物語っているものと考えます。  たとえば 《普遍神》 これを持ち出すなら いかなる宗教のオシヘがとうとばれるとしても・そしてそのオシヘの伝える神が多くの人によって崇められているとしても その神は 唯一絶対であるとは言い切れないのですし 宗教のオシヘは 人間の表現したものであるからには みなで考えるための相対的な内容を持つ思想であると捉えられます。  これが 自由の問題でしょう。    ★ ここに関しては、孤独でいいとか、炎上もいいとか、いろいろな論理の本が出ています。  ☆ ん? 《自由》ってことですか?

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     極端な仮説を提出して 再考をのぞみます。  まづやはり先に そのくだりをかかげます。  ▲(創世記 4:1-16) ~~~~~~~  1: さて、アダムは妻エバを知った。   彼女は身ごもってカインを産み、    「わたしは主によって男子を得た」   と言った。  2: 彼女はまたその弟アベルを産んだ。   アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。  3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。  4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。   主はアベルとその献げ物に目を留められたが、  5: カインとその献げ物には目を留められなかった。   カインは激しく怒って顔を伏せた。  6: 主はカインに言われた。      「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。  7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。      正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。      お前はそれを支配せねばならない。」  8: カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、    カインは弟アベルを襲って殺した。  9: 主はカインに言われた。      「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」     カインは答えた。      「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」  10: 主は言われた。      「何ということをしたのか。      お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。  11:  今、お前は呪われる者となった。      お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも      なお、呪われる。  12:  土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出す      ことはない。       お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」  13: カインは主に言った。       「わたしの罪は重すぎて負いきれません。  14:   今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたし       が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となって       しまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺す       でしょう。」  15: 主はカインに言われた。        「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」     主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。  16: カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《4:6 どうして顔を伏せるのか》は 内面の暗い重い闇に落ち入った感じをつたえそうな表現であり じっさい原文は 《どうして顔が落ちているのか》という言葉で表わしているのだそうです。    →【Q:カインは なぜ・どこが わるかったのか?】No.36お礼欄    http://okwave.jp/qa/q7308621.html  ですが 今回は 形式的なこと・表現技法にかんすることがからんでいるのではないかという・ちょっと人を食ったようなとさえ見られる見方を提出します。  (あ) このカインの物語は カインがどうだアベルがこうだという問題では必ずしもなく そうではなく ひとえに《ひとごろし》という主題を アダムとエワの物語のあとに提示してみせたのだという解釈です。  (い) すなわち聖書記者は 天地創造が終えられたあとの初めに 《善と悪とを知る木から採って食べた》という・おそらく人間の自由意志の主題をあつかった。そのあと ただちに――エワとアダムとは その自由意志を おのれの心にさからったかたちにおいても 発揮することがあると物語ったからにはそのあと ただちに―― 人が人をころすという主題を取り上げた。  (う) だから アベルが遊牧民でカインは農耕民だという違いを要因として取り上げたり あるいは一にも二にも 信仰の問題であってそれは なかなかオモテには出て来ないのだと信仰論で済ませようとしたり さらにあるいは けっきょくカインは 神がアベルの供え物を喜んだが 自分のそれには目を留めなかったところから アベルに嫉妬したのだと説明したりする議論は 解釈に失敗するか もしくは タメにする議論に落ち入るのではないか。  (え) すなわちつまり エワとアダムの事件では 《自由意志には すなおな心とへそ曲がりの心とがある》と理論づけたのだし ここカインの事件では 《その自由意志が みづからのであれ・他人のであれ同じ自由意志を・つまりは自由意志の主体として人間という存在そのものを抹殺することがある》と論じすすもうとしている。  (お) エワとアダムとは へそ曲がりの報いとして エデンの園を追われた。カインは  ▲4:12 お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」  ▲4:15 ~~~~~~~~~~~~~~   主はカインに言われた。        「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といったように捌かれた。この結果をもって ひとが人をころすことがないようにとされた。      *  ブレインストーミングのごとく 思いっきり自由なご見解をどうぞ。  言わなくてもよいと思われますが フルボッコのご批判をどうぞ。

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     次のように表現しては 間違いでしょうか?  神はアダムとエワに じぶん(つまり神自身)に背くというへそ曲がりを起こさせたその罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。    こう表現しては 間違いでしょうか? という問いです。    *  以下に 原罪についての考え方をも述べます。  1. 光は 曲がります。光も 曲がります。われわれ人間の心も かなしいかな 曲がります。  2. しかも じつは じつに わたしが曲げるのです。  3. うそをつかなかった人間は いません。本心を曲げて いつわりの証言をしたりします。  4. 本心とは何か この問いも 必ずしも容易には 分かるものではないところがあるようですが うそをつくときには やましさを感じるものです。気持ちよいものではありません。  5. 要するに このへそ曲がり・始原的にして普遍的なへその曲げ これを 原罪と言ったのだと考えます。  6. 言いかえると へそを曲げる自由も 曲げない自由も どちらも備えた意志の自由を われわれ人間は 与えられている。これが 生まれつきの自然本性だと言う。  7. へそを曲げるとき たしかに わたしたちは いわゆる良心の責めを感じます。ですが この世は 似たりよったりの人間が おもしろおかしく生きていくだけだ 寿命が尽きればあの世行き という考えを持つようになる人びとも出て来ます。  8. こうなるとまた 一生のうちの《へそ曲がり》の積み重ねについて 死ぬときには すべてを清算して逝くのだというおとぎ話も紡がれ得ます。あまりにも無責任ではいけないという見方が現われるのでしょう。  9. 良心は良心ですし 自由意志は自由意志として 大事なものです。これはおそらく存在の基本ないし生きることの基礎というものであって とうといものだと思われます。そうでないと 社会における人びとの振る舞いは 判断の決まらないのっぺらぼうの交通(まじわり)関係となって収拾がつかないことになります。  10. したがって へそ曲がりの清算をめぐって何らかの交通整理が必要になるという一面も 社会に現われます。最後の審判といった大いなる物語にまで 発展しうるというわけのようです。    11. へそ曲がりの清算とは言うものの 原罪をあがなったというイエスの物語は いくらか 毛色を異にしています。  12. イエスというひとは ナザレ出身のふつうの人間でした。それでも人間にも 互いに 交通整理をする意志があれば その能力もある。そしてこの人間の能力をも超えるチカラのハタラキが問われました。  13. 光は たとえ曲がっても 光である。腐っても鯛と言ったかどうか知りませんが さらに 光を超えた光もあると――もともと いわゆる旧約聖書の伝えるような人びとをつうじて 言われて来ましたし そのことを―― 明らかにする仕儀に かれは 到りました。  14. へそ曲がりを 曲がったへそのまま 何ものかが包み(あるいは 覆い) 心も体も 何ものかによってわたしたちは それぞれ 掬われると言いました。人をすなどるとも言いましたからね。魚のごとく たも(網)で掬うというわけです。  15. 原罪というとげが われわれの良心には刺さったままになっていたのを この棘は引き抜かれたと言い この言葉のままを 生きました。生き切りました。そのように伝えられました。  16. 棘の刺さっていた患部は まだわれわれの存在に 残されているかも分かりません。すでに癒えていても あざや ほくろや 蒙古斑のごとく 残っているかも分かりません。原罪というのは つまり原初のへそ曲がりというのは 現在つまりイエスのあとの歴史においては そういう状態にあると考えられます。

  • 神はみづからを揚棄しちゃった:クリスチャン批判

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は   みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  けっきょくイエスによって  そしてそれがルカおよびパウロをつうじて  成就したと語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ▲ (ルカによる福音書 22:17-20) ~~~~~~~~  そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。  ・・・       「この杯は〔十字架じょうのはりつけにおいて〕     あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシヘ〔を人間のチカラのみによって守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシヘ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシヘは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシヘは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神はそれぞれの名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  (δ) ならば 宗教という宗教 オシヘという〔それを守るべきという意味での〕オシヘ そしてその組織・教会・聖職者 これらはみな・すべて・いっさい 要らない。  なぜ存続しているのか? おしえて欲しい。

  • 原罪がいまだに その贖罪とともにだが 言われるのは

     ・・・どうしてか?  原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。  キリストによるそれの贖いもともに言われるのですが それでも なおまだ原罪がなくなったとは必ずしも聞けない場合があります。なぜでしょう?  それは もし文献の問題とすれば エレミヤ書31:31以降に《罪は覚えられることはない》であったり《主を知れと言っておしえることはない》であったりと書かれており しかもそれらは ヘブル書にも取り上げられています。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  原罪は 悪魔とともに 方便であり もともと無い。ということではないのですか?  ということで もう少したたき台をつづります。  1. 原罪は 無い。方便として説明したのみ。悪魔としてのヘビが 方便として表現じょう用いられたのと同じだ。  2. 無明(≒煩悩)が 乗り越えられないものとしてあるのではないのと同じように--なぜなら ブッダター(仏性)ないし神の霊がやどる存在である-- 原罪が 不治の病いであるということはあり得ない。  3. スサノヲ市民たる人間の《自治 また 共同自治》が なかなか思うようにならないこと(=《苦》)の説明に 悪魔なるヘビとこの原罪なる観念が引っ張り出されたのみ。  4. 悪魔は 一般に人びとのあいだで想像されていたもので そのような社会通念を ヘビにかこつけて用いたのみ。分かりやすい。  5. 原罪という観念は 悪魔のしつこさに当てはめたのみ。ただ ひとの自由意志は ヘソを曲げることがある――それすらも 自由――と認識したのみ。  6. 世界の初めに じんるいの始祖たちのマ(間)のチガイを方便として引き合いに出したものだから このあやまちとそれを世代を経つつシガラミとして引きずるさまを 白紙に戻す意味で イエスが十字架にかかって《原罪の贖い》という物語として説明した。のみ。  7. 人間の知恵や努力だけでは すべてを乗り越えることはむつかしいであろうが 人びとはすでにそれぞれ心の内にそのシガラミのシツコサから自由なチカラの湧き出るのをおぼえているのではないだろうか。    8. あとは 外なるシガラミのチカラ つまり社会力学上のクウキのようなチカラ これを屁の河童と見るという課題が残るのみ。それらは 人間の意志を踏みにじるという無効の意志に発した行為であり 初めからなかったことにひとしい。原状復帰させるべきことであるのみ。(盗んだものは 所有者に戻される)。  9. 外なるクウキのチカラに巻き込まれて行くことと 内から出る理性のワル知恵に誘われることとは 別である。  10. 悪魔は方便であり 無明も原罪もともに屁の河童であるなら 靄は晴れて行くはず。――これが 内なる心の問題だ。  すでに問うたことがありますが なお問う必要を感じます。よろしくご教授ください。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • アブラハムとイサクの父子関係は 神とイエスとの父子関係について何かを言うか

     アブラハムは 神の告げるがままに 神のためにその子イサクをいけにえにささげようとしました。  神はその独り子をイエスにつくり 人びとの〔罪のあがないの〕ためにいけにえとしたと言われます。  ちなみにイサクは アブラハムがそのいけにえを神によって止められ生きて世にありつづけました。  イエスは 知られるように はりつけにされて去って行き そのように神に見捨てられたことにおいて生きた・つまりよみがえったと言われます。  質問です。わたしは 原罪とその贖いという物語をもはや不必要と見なし そのように常識としたいと考えており(*)    * 【Q:われわれは原罪を犯せしや?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5059303.html  したがって 神とイエスの父子関係と アブラハムとイサクの父子関係とのあいだに 特別の意味のあるかかわりがないほうに見方を寄せようとしています。  この見方をめぐって いろんな立ち場や角度からご見解がありますでしょうか? ありましたらおしえてください。  このひとつの視点は ふと思いついたものですので どこから手をつけていけばよいのか分かりません。生煮えのままご教示を乞います。