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ヘビはエジプトアジアの広葉樹林文化シメ縄の起源?

ヘビが、シメ縄(七五三縄)や三つ巴の起源で、ヘビはエジプト東南アジアの広葉樹林文化の象徴と言っている環境考古学者の安田先生の説は、本当でしょうか? http://bit.ly/1lEYew4 http://www011.upp.so-net.ne.jp/web/cam.htm ヘビは森林(広葉樹林文化)の象徴で、 ヘビの王冠のクレオパトラの時代に、 エジプトは、 安田喜憲先生の花粉分析の結果、 森林が豊かであったと言います。 レバノン杉を伐採しすぎて、 ノアの洪水や砂漠化が起こりました。 なぜ、植物の花粉 と 人類の古代文化が、 関係があるかと申しますと、 次の様な理由です。 ・・・・・・・・ 人類は、古代ローマ以前から 地層の自然の花粉の堆積物に現れるほどの 自然破壊をしていたためです。 ・・・・・・・・・・・・・ そのために安田喜憲先生の 中東エジプト・レバノン地域の 地中深くの地層の花粉分析の結果、 大昔に、中東でレバノン杉が大量に伐採され ピラミッド建設に使われたかどうか、 大きなピラミッドの石の移動のコロの材木に使われたかどうかは わかりませんが 人類の自然破壊の様子が 中東の地層の花粉分析で判明しています。 砂漠や草原の騎馬民族の象徴の イスラム教やキリスト教は、 神と人のみで、自然が欠落しいた。と安田喜憲先生は説明しています。 森林を切ってハゲ山にすると 洪水になることを知らない方もいるかもしれません。 森に雨水が貯められるので、普通は 洪水のように大量に海に流れ出ることはありません。

みんなの回答

回答No.1

>本当でしょうか? 本当かどうかと言うよりもこのような考え方もあるということです。 へびとしめ縄が結び付いたのは後からのことかとおもいます。 しめ縄というのは神域(結界)と俗域とを区分するものとして生まれたものです。 立ち入り禁止の標識のようなものでした。 一方へびはその姿形から霊力のある生き物という考え方が世界中にありました。 詳しくは下記の関西大学にサイトに論文があります。 参考 Title 文学作品からみる蛇に対するイメージの変化 他宗教からの影響 ... kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/8390/10/KU-110... 抜粋 頭から尾に至るまでが一本棒になっている蛇は、神聖な神のそれとして受け取られ、蛇から性 への連想が行われ、性に対する憧れ、崇拝、畏怖、歓喜、それらが凝集して神与のものと考えら れ、その象徴が蛇として捉えられた。一方で、毒蛇、ことに蝮がもつ強い生命力、及びその繁殖 力も信仰の対象となったと述べている 中略 まず古代エジプトについてである。小島(1991)によると、古代エジプト人は多くの動物神を 崇拝しており、このなかに蛇類もはいっているという。蛇類のなかでも最も恐るべきコブラの姿 はファラオのシンボルの一つとなり、また「女神」を表す限定符(ヒエログリフ体系での表意文 字)として使われていると述べている アニミズムの強固な世界では、鳥と蛇が王のシンボルとなり、エジプトではハゲワシとコ ブラが王のシンボルであった。下エジプトのシンボルであったハゲワシと上エジプトのコ ブラを王冠につけるその意味は、上エジプトと下エジプトの統一を示すものであった。そ れは中国の鳳凰と龍に比定されるものである。 中略 西欧諸国においてはキリスト教によって龍蛇を悪魔邪神の表徴とするが、これはエデンの 園で蛇がアダムとイヴを誘惑して禁断の木の実を食わしたことによる物語が『創世記』に あるからである。 しかし古いキリスト教のグノーシス派の神話には人類の祖が蛇であった ことが窺われ、したがって蛇を崇拝していた痕跡が歴然と見られる 神域を護るものとしてヘビの霊力を起用したことがしめ縄と結びついたものでしょう。 現在も千葉県などに辻切として地域の入口にへびを模った藁人形を飾る習慣がある所があります。 ご質問に多少誤解があるようですので書かせて下さい。 >ヘビは森林(広葉樹林文化)の象徴で、 へびを神聖化する考え方は広葉樹林帯に限らず世界中に見受けられます。 >ヘビの王冠のクレオパトラの時代に、エジプトは、安田喜憲先生の花粉分析の結果、森林が豊かであったと言います。 どのような樹木で構成されていた森林なのか分かりませんが、最近の地球観測衛星のデータからサハラ砂漠が湿潤な気候だったのは245,000年前とされています。 現在のナイル川と同様の大河川がサハラ砂漠を横切って西方に流れていた痕跡が観測されていますがこの川は少なくても5000年前には干上がっていたと考えられています。 つまりクレオパトラの時代に森林が豊かだったという考古学的な証拠はありません。 クレオパトラ時代ののエジプトはナイル川の河口付近のデルタ地帯に栄えていましたので森林と呼ばれるほど樹木が繁茂していたとは考えられていません。 >レバノン杉を伐採しすぎてノアの洪水や砂漠化が起こりました。 レバノン杉はマツ科ヒマラヤスギ属の針葉樹です。広葉樹ではありませんのでご質問に書かれているへびは広葉樹林文化の象徴という点と合致しません。 メソポタミアから地中海沿岸一帯にかけてレバノン杉が繁茂していてそれがエジプトで舟や建物に使われていたことは知られています。 これを伐採し過ぎて洪水を招いたという考古学的な証明がされたことはありません。 聖書にあるノアの洪水の痕跡を調査していますがチグリス・ユーフラテス川やヨルダン川の流域で度々洪水があった痕跡は確認されていますが、聖書にあるような大規模な痕跡は現時点では見当たっていません。 >大昔に、中東でレバノン杉が大量に伐採されピラミッド建設に使われたかどうか、大きなピラミッドの石の移動のコロの材木に使われたかどうかはわかりませんが ピラミッドの石を運ぶのにコロとして使われた用材はたかが知れています。 柔らかい砂地ではコロは役立ちません。 ナイル川から陸揚げされた石を運搬する様子が壁画として残っています。 砂に水を含ませると起こるダイラタンシーという現象を使っていたと思しき絵が残されています。 注)ダイラタンシー:海岸の波打ち際であれば車が走行できる現象のことです。 レバノン杉はむしろエジプトからエーゲ海一帯にかけて行われていた交易に使われた商船や軍船に大量に使われていました。 ピラミッドには建材としては木材は使われていません。 王家の墓などの棺に使われいるだけです。副葬品の家具や調度品には使われていました。 >人類の自然破壊の様子が中東の地層の花粉分析で判明しています。 農耕文化を自然破壊と考えるか否かは考え方次第です。 針葉樹であるレバノン杉を伐採したことが中東地帯を砂漠化したという考古学的な証拠はありません。 前記しましたようにサハラ砂漠などが湿潤な環境だったのはエジプト文明が起きるはるか以前の時代です。 >砂漠や草原の騎馬民族の象徴のイスラム教やキリスト教は、神と人のみで、自然が欠落しいた。 別段森林だけが自然ではありません。 砂漠地帯では雨季の後で草が一斉に繁茂して短期間で枯れます。 コーランにもこの情景が屡々記載されています。 コーランや聖書にある最後の審判で死んだ人が全て蘇って神の審判を受けるという思想はこの雨季と乾季が明確に分かれている砂漠地帯の環境下にあったことで生まれた思想です。 つまりイスラム教でもキリスト教でも自然は欠落していません。 尚、常時樹木が繁茂して実がなったり若木が生えるインドでは輪廻転生と言う思想が生まれました。 >森林を切ってハゲ山にすると洪水になることを知らない方もいるかもしれません。 山には樹木が必ず生えているというのは地球上でも外洋に面した温暖な地域の特徴です。 乾燥したユーラシア大陸の中央部では通用しません。 まして中近東のような乾燥地帯では山はもともとハゲ山です。 聖書で有名なシナイ山もい岩山です。 中東で年がら年中洪水が起きている訳ではありません。 >森に雨水が貯められるので、普通は洪水のように大量に海に流れ出ることはありません。 雨の降り方次第です。 昨年の夏のように線状降水帯による集中豪雨では森林に蓄積される間もなく雨が集中して降り続け河川が溢れました。

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