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関ヶ原の合戦。敵・味方の判別。

どんな工夫をしていたのでしょうか。 元々、豊臣家に仕えていた多くの武将たちが、それぞれ数百・数千の兵を引き連れて、徳川方か石田方に分かれて参戦しています。 敵味方入り乱れての大混乱に陥ることは必至と予測して、個々の兵に、何か識別できる工夫をしていたのでしょうか。 よろしくお願いします。

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  • eroero4649
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回答No.1

現代の軍隊も国旗を掲げてどこの国の軍隊なのか明らかにしています。そうじゃないとみんな同じような迷彩服だから敵味方の判別が困難です。 戦国時代は家紋というやつがありますから、その家紋やトレードマークの旗を掲げて自分たちはどこの軍勢であるということを明らかにしたのです。風林火山の旗とかご存知でしょ?あの旗を見れば、現代の我々もあれは武田軍だと分かるわけです。 それに当時の軍隊は集団戦法ですから、味方はみんな塊になっています。そこから勝手に離れたらそりゃ逃亡兵あるいは敵兵だと思われて殺されることもありますから、むしろ味方のそばから離れないのがよろしいとなります。 足軽のような雑兵だと元々バイト感覚で兵隊をやっているので、なんか強そうな武将がやってきたら当然逃げますし、どうも味方が負けそうだとなるとこれまた可及的速やかに逃げ始めます。 兵士それぞれが逃げないで一生懸命戦うようになるのは、ナショナリズム(民族主義)という感覚が出てくるフランス革命(厳密にはアメリカ独立戦争)以降となります。それまでは兵隊は集めて塊にしておかないとみんなすぐ逃げ出しちゃうのです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど、塊にして戦わせる、集団戦法ですか。 そんな視点で合戦図を見てみます。

その他の回答 (5)

回答No.6

既に出揃っている御様子なので重複しますが、 「東照宮御實紀附錄卷十」によれば、 (「落穂集」の真偽を問われても困りますが…) 合詞は「山は山、麓は麓」、 合印は「総軍の左の肩に角取紙」。 〇「東照宮御實紀附錄卷十」 『徳川實紀 第壹編/經濟雜誌社/1904.2.20』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917811/120 <120/520>(223頁上段10-13行目) 戰の前日諸軍の合詞をあらため給ひ。かねては山か麓か麓か山かといふを。 山は山麓は麓といふべしと仰出され。又總軍の左の肩に角取紙を付られ。 味方打なき様にすべしと命ぜられしとぞ。(落穂集。) あとは、小ネタです。 〇「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈 -なぜ大谷吉継だけが戦死したのか-/白峰旬」 『史学論叢 No.46(2016.03)/別府大学史学研究会』(151-163頁) http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg04610 <2-3/13>(152頁最終行-153頁13行目) ■某覚書 No.1340(643頁) …島津義弘の御意として「敗軍の軍勢がこの方の備に崩れかかったならば、 味方の軍勢であっても打ち捨てるべし」とのことだったので、各自が兜を傾け、 鑓を膝に乗せていたため、(こちらに来ずに)この陣(島津義弘の陣)と池との間 に逃げていった。… 〇「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載  についての考察(その2)  ─関ヶ原の戦いに至る政治的状況と関ヶ原の戦い当日の実戦の状況─/  白峰旬」 『史学論叢 No.45(2015.03)/別府大学史学研究会』(55-73頁) http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg04510 <8-9/19>(62-63頁) 〔史料12〕(I─3、335-336頁) 明石掃部は…。…彼はこの決意をもって徒歩のまま一心不乱に戦っていた時、 内府様側についていた己が友人の甲斐守(引用者注:黒田長政)に出会った。 彼(引用者注:明石掃部)は着ていた衣服と武具によって、ただちに見分けられ、 友人としての挨拶を受け、生命のことは構わずに勇気を振るうよう鼓舞された。 …そして(甲斐守)は馬から下りると、明石掃部がそれを使うことを望み自分は 従臣の馬に乗った。… 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やはり、家康率いる東軍では、合詞と合印があったのですね。 よく考えてみれば、あって当たり前で、当時の戦では常識だったのかもしれません。 そうであれば西軍にもあったはずと思います。 何万という兵全員に「左の肩に角取紙」を付けたというのは、手っ取り早い方法で、むべなるかなの感じです。 「紙」だからすぐ剥がれますね。 戦う前の陣営に、よそ者を紛れ込ませぬ工夫だった気がします。 手元の合戦図では、角取紙を付けた兵が見当たりません。 関ヶ原以外の合戦図を調べてみます。 やはり、本命は合詞ですね。 夜間でも物陰でも使えますから。 御蔭さまで納得できました。

回答No.5

こんにちは。 一般的な答えですみませんが、当時の合戦における格好といえば甲冑を身に纏っているのが普通です。基本的に士分のものなら自前の具足(甲冑)を身に纏っておりますのでそれぞれ格好は色々です。たとえば石田軍だからといって、各武将の具足については統一性はさほどありません。特にこの時代名のある武将ならなおさら他人と違う一際目立つ格好や仕草(蒲生氏郷の銀の鯰尾の兜、前田慶次郎の奇抜な甲冑、あるいは討ち取った首に笹の葉を含ませる為に笹を小旗の様に背に指していたという可児才蔵のように)をしたがりましたから。古典の戦記物を読むと彼らは所属する大名家ごとに袖章や背につける小旗、袰などに統一色や紋様を入れることで区別されていたようです。また、さらに格の高い武将になると、その隣りをその武将の《馬印》を持った小者が併走しどこに誰が居るか判るようになってたようです。(余談ですが、国会議員や大臣などが臨席する立席パーティーでは今だにこの馬印が使われていて、これが林立していたパーティーを見たことがあります)また、槍先を重ね合う乱戦になれば名のある武将ほど名乗りをあげてから槍を合わせるという古典的な“儀式”を尊重していたようですし、これも敵味方の区別に繋がった事でしょう。 名乗る前に鉄砲でズドンっていうのは両軍がぶつかる前までで、この段階では前から向かってくるのが味方ってことはまず有り得ませんからo(^-^)o しかし、戦場における兵員の大半を占める一般の足軽など小者の者は具足自体私有出来ているわけではなく雇用主たる大名から『御貸具足』というものを貸してもらって身に纏っていました。これらは統一性のある仕様になっていて、現存している物を観ると胴の部分に所属する大名家の家紋が入っていたりしていて一目で識別出来るようになっていたことが判ります。御貸具足については下記の方のホームページに判りやすく書かれています。 http://paomaru.dousetsu.com/file/03_buki_005.html 統一性のある具足、小旗、袖章、馬印、名乗り合い、敵味方はこんな感じで区別されていたのだと思われます。一般的な答えですみません。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 小者たちは、統一性のある具足、小旗、袖章などで区別されていた、ということですね。 私は、陣笠なら前後左右から見て区別し易いと思っていましたが、最古とされる合戦図(徳川家康が作らせたという「津軽屏風」)ではほとんどの雑兵は陣笠を被っていません。 確かに何かで区別されていたのでしょうが、今のところ、関ヶ原の合戦では、東西両軍とも寄せ集めの連合軍なので、個々の雑兵までは識別できる何かを着用していなかったのでは、と思うようになりました。

  • tak7171
  • ベストアンサー率40% (77/192)
回答No.4

他の回答者様のおっしゃるとおり、旗指物や合言葉もありますが、更に、合印と言って甲冑や着物に部隊共通の目印になるものを付け、識別していたそうです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 前後左右からでも分かる、大きな合印をしていたのでしょうか。 「井伊の赤備え」が見本ですね。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (811/3029)
回答No.3

基本は旗指物ですが、、、あんなでかいものいつも装備してるわけではないですね。 乱戦になったときに備えて合言葉用意したらしいですね。 山・川とか進め・進めとか。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かに、乱戦では動きにくいでしょうね。 合言葉があったという記録を探しています。 寝返り組は両方知っていないと大変です。

  • qdo0obp
  • ベストアンサー率20% (92/453)
回答No.2

そのために旗指物というものがあります。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 合戦図屏風を見ましたが、乱戦になると雑兵の旗指物は取れてしまってますね。

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