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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:朝廷(天皇)の権限と幕府との関係)

朝廷(天皇)の権限と幕府との関係

このQ&Aのポイント
  • 幕府と朝廷(天皇)の関係について疑問があります。
  • 幕末史の年表を見る中で、日米修好通商条約に関する疑問が生じました。
  • また、鎌倉時代の元寇の際にも幕府と朝廷の関係について記憶があるのですが、これは真実でしょうか?

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回答No.7

>日米修好通商条約を締結するのに「天皇の許可」が必要だったのでしょうか??? 許可が必用というよりも外交権は朝廷にあるとされていましたので、幕府がアメリカと修好通商条約を締結したのは越権行為ということになります。 >江戸時代には、幕府が絶対的な権力を持っており、天皇の力というのはまったくなかったと理解していたのですが??? 当時の国家としての中央政府はあくまでも京都朝廷でした。 当時の日本は大名領に分割されていてそれぞれが治外法権を持っていました。 現在のアメリカの州に極めてよく似た政治形態でした。 この大名の中で最大の領地を持ち最大の軍事力を持っていたのが徳川家でした。 この徳川家が朝廷の委託を受けて全国の大名を統括していました。 江戸幕府というのは元々は徳川家内部の統制機関でした。 朝廷の委託を受けて全国の大名を統制する際にこの徳川家内部の統制機関を流用しました。 江戸時代を通じてこの統制機関内の組織は度々編成替えされて必用な役職を追加するなど補強されていました。 幕末に大政奉還という儀式が行われたのはこの委託されていた大名を統治する権限を朝廷に返上するという意志を宣言したものです。 幕府と言う言葉は元々は戦場に設けられた参謀本部の周囲を幕で囲っていたことに由来する言葉です。 平時にこの参謀本部を設置するには朝廷の許可が必用でした。 関ヶ原の戦が終わった後で徳川家康は征夷大将軍という称号を下賜されて大名を統括するのに必用な参謀本部を江戸に設置することがみとめられました。 大名を統治するのに当たり絶対的な権限を持っていた訳ではありませんでした。 徳川家も大名の一人に過ぎませんので大名がお互いに持っていた治外法権を尊重する必用がありました。 一方江戸に設けられた幕府も元々徳川家の内部機関であったことから徳川家の家臣であった譜代大名のみが参画できました。 関ヶ原の戦以降に忠誠を誓った外様大名は参画することができませんでした。 享保の改革とか寛政の改革などと言われる改革が行われましたがこの改革を受け入れるかどうかは大名の判断次第でした。 改革を実施した場合でも内容は各大名で違っていました。 平和な江戸時代は形式や格付けということが重要視されていた時代です。。 武士の間では収入である石高の大小が格付けの基本でしたがこれよりも朝廷から下賜される従四位とか従五位などと呼ばれる官位が尊重されていました。 徳川家をはじめ各大名はこの官位を下賜されるように度々朝廷に願い出ていました。 朝廷の最高権力者であった天皇にまったく力がなかったわけではなく誰に官位を下賜するかを決める権限があったことから尊重されていました。 幕府はこの願い出の窓口になることで権威を確保していました。 明治維新の際に江戸の庶民に将軍よりも天皇の方が偉いということを納得させるために、お稲荷さんがもちだされました。 お稲荷さんの正一位というのは天皇から頂戴したものだつまり天皇は神様であるお稲荷さんよりも偉いのだぞ、という論法です。 >単に記憶違いでしょうか??? 記憶違いではありません。 元寇の当時に幕府を司っていた北条氏は天皇の家臣である征夷大将軍ではなくそれを補佐する執権でした。 征夷大将軍は京都から藤原氏の末裔などを呼んできて着任させて実権は一切持たせませんでした。 当時は征夷大将軍とは言え御神輿のお飾りの鳳凰のようなものでした。 このような状態でしたので北条氏が元と交渉する法的な権限がなかったということです。 >日米修好通商条約締結時の「幕府と朝廷の関係」と背景は同じなのですか??? まったくではありませんが同じような背景です。 >日本史を勉強する場合、「朝廷=天皇」と考えても良いのでしょうか??? 朝廷というのは大宝律令などで定められた官僚組織です。 その官僚組織の頂点が天皇です。 この朝廷の官僚が公家と呼ばれる人達です。 江戸時代で言えば武士に対抗できる身分階級の人達でした。 幕末に下級武士の集団であった薩長軍が公家の三条実美を引き入れたことで官軍を名乗れるようになりました。 江戸の征夷大将軍であった慶喜に大政奉還を促したのも三条実美でした。 外様大名だった島津家の下級武士であった西郷隆盛にせよ大久保利通にせよ将軍慶喜に直談判などはできませんでした。 京都朝廷というのは1200年以上もの間日本の中央政府でしたが中央政府であるにも関わらず軍隊というものを持たない世界史上希有な中央政府でした。 制度上は近衛などという武装組織は持っていましたが現在の儀仗兵程度の役割しか果たしていませんでした。 明治政府が天皇直轄の軍隊を設けたのは約1200年ぶりということになります。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 外交権は朝廷にあるとされていました……かすかに、そんな記憶はあるのですが、それじゃ、最初から朝廷に丸投げしておけば良かったではないか、という気がしましたが、この辺が歴史の面白いところですかねぇ。 現在のアメリカの州~~~徳川家が朝廷の委託を受けて全国の大名を統括していました。……この認識をついつい見失ってしまいます。 幕末に大政奉還という儀式が行われたのはこの委託されていた大名を統治する権限を朝廷に返上するという意志を宣言したものです。……「大政奉還」というのは慶喜公が追い詰められた末の思いつきということではなく、元々「幕府」というのはそういうものなのだということですね。 大名を統治するのに当たり絶対的な権限を持っていた訳ではありませんでした。~~~改革を実施した場合でも内容は各大名で違っていました。~~~決める権限があったことから尊重されていました。……江戸時代と江戸幕府、それから朝廷というものの認識を新たにしました。私の頭の中の拙い日本史がひっくり返りそうです。 お稲荷さんの正一位というのは天皇から頂戴したものだつまり天皇は神様であるお稲荷さんよりも偉いのだぞ、という論法です。……なるほど。「私は神だから、必要ない」と断れば良かったのに。自ら権威を落としたようなものですね。(*^_^*) 記憶違いではありません。……ご回答で再確認できました。 京都朝廷というのは1200年以上もの間日本の中央政府でしたが中央政府であるにも関わらず軍隊というものを持たない世界史上希有な中央政府でした。……個人的な印象ですが、京都人には、特有のプライドみたいなものがあるような気がします。私は好きになれませんが……。ただ、なぜか???ゆっくりと京都の史跡を訪ねてみたいという気持ちだけはあります。叶わないと思いますが。 本質問とは関係ありませんが、前回のご回答で紹介された本を手に入れました。(*^_^*) 生きていくあなたへ105歳どうしても遺したかった言葉……一気に読み終えましたが、日野原重明氏があまりにも聖人君子でありすぎて、私のような凡人・俗人・愚人には、理解の及ばない遠すぎる存在でした。(T_T)(T_T)(T_T)それに、「そして地上での時間が終わったとき、神様が天秤を持って待っているのです。生きてきた時間のうち、人のために使った時間が多いか、自分のために使った時間が多いかをはかって、人のために使った方が多い人が天国に行けるんだよ。」というくだりは……なんとも。(T_T)(T_T)(T_T) 死をみつめる心 ガンとたたかった十年間……古い本なので半分諦めていたのですが、出版社に在庫がありました。それに古いから安かったです。(*^_^*)まだ途中ですが、私の知性と感性にビンビンと響いてきます。私の「枕頭の書」になると確信しています。素晴らしい本を紹介していただき本当にありがとうございました。ただ、古い本なので、文字か小さくて……(T_T)(T_T)かみしめながら、少しずつ読み進めていきます。

その他の回答 (6)

  • jkpawapuro
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回答No.6

>幕府が絶対的な権力を持っており、天皇の力というのはまったくなかったと理解していたのですが??? 江戸時代の途中まではそうです。 3代家光の時代は幕府が圧倒的な力を持って武断政治を推し進めていました。 5代綱吉の時代に文治政治に大きく舵を切り、その後貨幣経済が進むとともにどんどん武士の力が落ち、それと同様に幕府の力も落ちていきます。 幕末になると商業の得意ないくつかの藩が相対的に力を持ち、幕府権威の失墜とそれらに担がれる形で朝廷の権威が相対的にあがっていきました。 >日米修好通商条約を締結するのに「天皇の許可」が必要だったのでしょうか??? 鎌倉時代の場合、外交権は朝廷に属するとみなされていました。江戸時代は明示的なものはありませんが、朱印船貿易等で武家政権が独占的に貿易を取り仕切った歴史から、幕府にあると見られてはいます。 ではなぜ勅許を必要としたか。 まず幕府は将軍の家政組織で全国の大名に軍事的命令権を持ちます。 幕府は譜代と呼ばれる幕政を担う一部大名、親藩などの将軍の一族の大名、そして幕政には参加できない外様大名で構成されます。 実際に幕政を担う譜代は開国を主張しますが、将軍の一族である親藩(特に水戸)と外様の一部が反対します。幕府の中で主張がまとまらなくなってしまったんですね。こうなると権威の失墜した幕政を運営する老中たちは自分の力で強行は無理と思い、朝廷の権威を利用しようとします。 ですが孝明帝は大の異国嫌い、勅許がえられず大老井伊直弼が幕府のみで強行し桜田門外の変で暗殺されます。 >それは明確な根拠に基づいた「拒否」だったのでしょうか??? 根拠などなにもありません、孝明帝が大の異国嫌いで異国が怖いんです。そして幕府を困らせたいいくつかの藩も攘夷すべしと孝明帝をあおったんです。 >そういえば、鎌倉時代の元寇の時にも、幕府と朝廷との間で、これと似たようないきさつというか、やりとりのようなものがあったようにかすかな記憶が頭の中で浮遊しているのですが、単に記憶違いでしょうか??? 鎌倉時代は朝廷に外交権があると認識されてますので、元からの国書は朝廷に回送されそこで拒否が決定されています。 >「朝廷=天皇」 今回の話ではおおむねあっています。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 幕末期における幕府と朝廷の関係が良く分かりました。 そして幕府を困らせたいいくつかの藩も攘夷すべしと孝明帝をあおったんです。……もう少し勉強しないと、この辺の事情は分かりません。 今回の話ではおおむねあっています。……(*^_^*)と言うことは、事案によりけりということなのですね。ありがとうございました。

  • notnot
  • ベストアンサー率47% (4900/10359)
回答No.5

>というのは日米修好通商条約について、「大老井伊直弼は、天皇の勅許を得ずに通商条約を結び、これがきっかけで、尊攘運動、討幕運動が発生。」と解説されていました。「勅許」って、文字からして許可のことだと思うのですが、日米修好通商条約を締結するのに「天皇の許可」が必要だったのでしょうか??? 「朝鮮以外と国交を持たず、中国・オランダ以外とは民間の通商も行わない」というのは、幕府が決めたことなので、それを撤廃するのに天皇の許可は要りません。 しかし、幕府内というか一部大名が撤廃に反対して(攘夷派)、調整が付かなかったために、老中堀田正睦がこれを打開しようと天皇に許可を求めに行ったわけです。その前提があるため、「大老井伊直弼は、天皇の勅許を得ずに通商条約を結び、」ということになっています。 「専務に決裁権のある事案を、社長に許可を求めて、拒否されたけど、専務が決済した」ということで、社規にはあってるんだろうけど、社長派と専務派がもめます。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 それを撤廃するのに天皇の許可は要りません。……明解なご説明です。 調整が付かなかったために、老中堀田正睦がこれを打開しようと天皇に許可を求めに行ったわけです。……いきさつを理解する上での重要なポイントですね。ただ、そもそも「調整」が必要だったのか???という疑問も湧いてきます。それだけ弱体化していたということですかねぇ。 「専務に決裁権のある事案を、社長に許可を求めて、拒否されたけど、専務が決済した」ということで、社規にはあってるんだろうけど、社長派と専務派がもめます。……(*^_^*)全く余計なことをしたもんだ、と思いますが、弱体化した専務派の最後一手だったのですかねぇ。その一手が、その後の日本史にどのような影響・効果をもたらしたのか???面白そうなテーマですね。

  • ddtddtddt
  • ベストアンサー率56% (180/320)
回答No.4

 権限というのは一種の職能みたいなもので、この役職はこういう事をやれる権限(決定権)があるという組織上の決まり事です。なので質問の意は、天皇の権威・権力と幕府の権威・権力の関係と言った方が適当だと思います。  権威とは権力の根拠です。その多くは伝統的・慣習的・因習的なものであったり、人為的なものであったり、ひどい時には捏造になります。要するにそれは、ある人物や集団が権力を行使しても良い理由です。かなりルーズですけど、いつの時代も権威付けされてない権力は、野党や泥棒やヤクザの同類とみなされ、反社会的勢力という事であんまり長続きした事はありません。  一方権力とは、端的には人々を強制する暴力装置を持つか持たないかです。天皇(朝廷)は少なくとも古代において、日本の最高権威であり最高権力でした。なので時代が下っても、その時に権力を持った個人なり集団は必ず天皇の許しを得るという「権威による形式的手続き」を踏む訳です。  その「権威による形式的手続き」を不味った事が原因で起こった歴史の節目は、実際に日本史の中にも2,3個はあるはずです。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 ご指摘のこと、心に受け止めます。

  • maiko0333
  • ベストアンサー率19% (839/4401)
回答No.3

奈良時代、平安時代の頃から天皇のお助けをする役目がありました。 (役職名は忘れました)鎌倉時代から将軍が出てきますがあれは「征夷大将軍」 といって軍隊の長のような役目であって常に天皇の下でお助けするという 名目で動いていました。 なので天皇年鑑2500年の間すべて天皇の世だったわけです。 実質実権のない時代も多くありましたが天皇を潰そうとか、天皇の上になるぞ という人はいなかったのです。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 天皇を潰そうとか、天皇の上になるぞという人はいなかったのです。……「本当にいなかった」のか???日本史には全く素人ですが、少し興味のあるテーマが生まれました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11122/34625)
回答No.2

実は現代でも、内閣が正式に発足するのは天皇から内閣総理大臣を任命する詔勅が渡された瞬間なんですよ。だから時々今上天皇におかれては真夜中にそれを手渡すことがあります。ご高齢なのにお疲れ様ですとしかいいようがないのですが。 となると、自然な疑問が湧きますよね。「じゃ、天皇が『アイツはなんだか気に食わない』といって詔勅を渡すのを拒否したら内閣が発足しないのでは?」って。その通りです。しかしその一方、憲法で天皇は「日本の象徴」とされているので実権はありません。つまり、拒否できないのです。拒否したら成立しないのに、拒否権はない。権限があるんだかないんだか分かりません。 実はこれらは江戸幕府から大日本帝国を経て現代に至るまで一貫してそうなんですね。天皇からの命令が出て日本国家としては正式に決まるのですが、その最終的な裁可者である天皇には裁可の権限がないのです。出されたものに黙ってサインするしかないのです。 この奇妙な権力構造は、実は日本ではあちこちに存在します。プロ野球がストやら何やらスキャンダルが起きたりするとプロ野球コミッショナーに注目が集まることがありますが、このコミッショナーは何も決める権限がなく、実権は各チームのオーナー、とりわけナベツネの爺さんが持っています。実際に「私には権限がないから」と明言したコミッショナーもいましたよね。プロ野球コミッショナーは、立場上頂点にいますが、単なるお飾りです。 歴史ある大企業では、株主最大手であるオーナー一族が名目上の経営者になっているけれど実際は番頭たちが回して、経営者は単なるお飾りということも珍しくないですね。会長がカジノで100億円スッたと話題になった大王製紙が典型例ですね。実は大王製紙には反社会勢力との絡みの使途不明金が存在したと噂されていますが、それは全部会長のカジノで使った分に組み込まれたという話もありますね。 名目上、幕府は天皇から「幕府を開いても良いぞよ」という許可を貰っている体裁になるので、立場上は天皇のほうが偉いということになります。 これね、混乱するかもしれないですが、「首相は鳩山由紀夫だったけど、権力を握っていたのは小沢一郎」とか思うとあー割とよくある話じゃん?と思いますよね。 分かりやすく理解するなら、小沢一郎がアメリカと交渉して決めたことを、鳩山由紀夫がキングメーカーの意に逆らって嫌だとゴネだしたみたいなものだと思えばいいです。そう思うと、ああそういうことかと色々納得できると思います。天下りの社長に一切権限がない会社なんて、いくらでもあるじゃないですか。それでたまにその天下り社長が妙にやる気になって社内改革をやろうとして番頭たちとケンカになって、新しい天下りにすげ替えられるっていうのもある話じゃないですか。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 その最終的な裁可者である天皇には裁可の権限がないのです。……ご回答をいただいて、初めて認識しましたが、確かにおっしゃるとおりですね。大日本帝国憲法における「天皇」の位置づけというのは、知識が無いので分かりませんが、このことが、「天皇が戦争責任を負わされなかった」要因のひとつになっているのですかねぇ。いずれにしても、天皇制に限らず、会社のあり方や社会や組織の仕組みといった観点からも興味深い体制ですね。

  • Nouble
  • ベストアンサー率18% (330/1783)
回答No.1

家康氏の事だけ、 武家は あくまで、守護役、 家康氏が、正一位と、 冠位、最高クラスでも、 其れは 官吏とか、臣下とか、 其の中の、最高 と、いう話しで、 危険な程、適当に 現代風に、ざっくり言えば、 社長曰く、 「ちょーと、此処最近 蹴鞠とか、歌会とか、 立て込んでるんだよねー ほら、 機嫌とか、損ねたら 大変だし、 昼寝も、重要じゃん、 しかも、 万が一、 都が、又荒れたら 困るでしょ だからさー、 他のへんぴな所は、どうでも良くて 任すけど、宜しくね、 あぁ、でも 重要案件は、回してよね、 頼むね、庶務部長」 的な、指令を 出したと、いうか 出さしたと、いうか 確か、 違いましたでしょうか?

noname#238475
質問者

お礼

違いましたでしょうか?……さぁ、どうでしたでしょうか???

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