• 締切済み

フッサールについて教えてください

今フッサールについて勉強してるんですけど、私はもともと哲学を勉強してる者ではないので、フッサールについての文献を読んでも全然理解できません。何か初心者でもわかるようなサイトや本ってないですか?6月28日にフッサールについて簡単な発表をしなくてはならないので急いでます、お願いします!

みんなの回答

  • rx78
  • ベストアンサー率38% (10/26)
回答No.2

下記の「フッサールデータベース」が最適でしょう。 他は「日本現象学会ホームページ」 http://wwwsoc.nacsis.ac.jp/paj2/ 解説はそのものはないですが、リンクやリファランスに便利です。 あと、社会学なんで現象学派社会学以外は本来関係ないですが、 やっぱすごいんで「ソキウス」 http://www.honya.co.jp/contents/knomura/reading/goo.html#0 ちなみにNo1はフットサルのページですね。ちょっとウケました。

参考URL:
http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~jsshama/j/HUA-home.html
  • KIMV
  • ベストアンサー率15% (82/544)
回答No.1

私も、最近お客に誘われ調べたので、次のHPを紹介します。 ルールとかは調べることができると思います。

参考URL:
http://futsal.jfa.or.jp/

関連するQ&A

  • フッサールの現象学について理解するには

    学生の時に心理学を専攻し、ロジャースの来談者中心療法からジェンドリンのフォーカシングなど、経験も少しかじっていました。卒業後、現象学という言葉から、フッサールに興味を持ちました。イデーンを読んでみましたが、哲学の基礎知識が足りなく、理解できませんでした。ロジャースのいう現象学とフッサールの現象学では異なるものなのだと思いますが、フッサールの哲学に対する姿勢に感銘し、少しでも理解したいと思うのですが、もうだいぶ昔の話で、理解するのに哲学用語などのスキーマーを会得しないといけないとう現状なんですが、哲学全般には明るくないので、どこらへんから手をつけたら良いのでしょうか?よろしくお願い致します。

  • デリダはフッサールをどう脱構築したのでしょうか?

    デリダは、「声と現象」という本で、フッサールのいう超越論的主観性と時間性との根源に「生き生きとした現在」があるという考えを「脱構築」した。「根源」などなく、そこには「差異の戯れ」しかないんだということを明らかにした。それによってフッサールの近代哲学の前提を、その「現前の形而上学」を暴くことで、近代哲学を葬ったのだ。… というデリダの解説を読んだのですが、これはよく分かりませんでした。フッサールの言う超越論的主観性と時間性の根源に「生き生きとした現在」があるという考え、とはそもそもどういう考えなのでしょうか? そしてそこには差異の戯れしかない、とはどういうことでしょうか?

  • フッサールは《純粋意識》に もののあはれを知ったか

     《あは!》という思いを感じるときに到るキッカケを フッサールというドイツ人は 《エポケー》と称しました。わたしは 判断中断と訳すとよいと思います。  ▲ (ヰキぺ:エポケー) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC  エポケー(古代ギリシア語: ἐποχή  epokhế)は、原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。  ▲ フッサールおよび現象学においては、  エポケーは 世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。  すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。  ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。  世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かったような分からないような感じですが ひとつにギリシャ語を引っ張り出して来ているので 古代人に関係あるかも分かりません。  もうひとつに 基本的なこととして このエポケーのあとに得られる結果が 《もののあはれ》だということだと解釈します。  これをフッサールとしては 《純粋意識( reines Bewußtsein )》が得られると言っているようです。  ▲ (ヰキぺ:現象) ~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1  フッサールは、  哲学や諸々の学問に確実な基礎を与えることをもくろみ、  意識に直接的に現れている現象を直観し、その本質を記述する方法を追及した。  そのために彼は、外界の実在性について判断を中止し(=エポケー)、それでもそのあとに残る純粋意識を分析し記述する、という方法を採用した。  この場合、フッサールは現象について、本体などの背後にあるものとの相関については想定しない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あるいは 《本質直観 / 本質観取 / 本質看取 ( Wesensschau )》と言うのだそうです。  《もののあはれを知る》のほうが 理屈づけではなく全人的であると思われ その点 推奨されます。  《 Wesensschau 》は英語では Being's show と言っているのですから さしづめ《もののあらはれ》でしょうか。日本語とは 一字違いですね。  フッサールのほうは――わたし自身もおそるおそる言っているところがありますが―― 純粋意識を得て ようやく《生活世界( Lebenswelt )》に戻って来るという恰好にもなっているようです。くわしくは たとえば次のサイトをご覧ください。  ▼ (フッサールの方法とその諸問題)   http://mrmts.com/jp/docs/husserl.html  この現実に帰って来たときにも・そしてエポケーの状態であはれを感じたそのときにも 《おそれ》をひとは覚えるのでしょうね。《きよらかなおそれ》。  しかもこれは ものごころが着く前の幼児のときの《聖なるあまえ》と同じ筋の状態だと確認できるのではないでしょうか。  おそらくこのことを 《ハカラヒ》を《義》と言いかえて 親鸞は 《義無きをもって義とす》と言った。  一般にヨーロッパ人は ものごとを分析しすぎます。要素に還元しようとします。もっと全体論として捉える視点をも推し進めるのがよいと思われます。それには 日本人は――《ふつうの人》が――生活としてすでに実践している現実があるはずなのであり その生活の歴史の中からさらに哲学のあたらしい展開のために 見直すのがよい。歴史を洗い直すのがよいと考えます。  俳句や短歌は それだけでは 文学としてもまだ練れていないと考えますが その生活感覚の中に 哲学の鍵語が得られるかも分かりません。  当否を問います。

  • フッサール現象学とヘーゲル現象学の違いについて

    現象学という言葉をカントの同時代のランベルトが言い始めたことは中島義道がすでに言っていますが、その現象学というのをヘーゲルが用い、フッサールが用いたからといって、どちらの現象学も同じでないのは、蝦夷富士や伯耆富士があるからといって同じ富士山といえないのと同じ、またカント哲学とヘーゲル哲学といって、同じ哲学と称するから同じではないように、同じ現象学でないのは、いわば当然で、質問するまでもありません。 ヘーゲルにとって現象学とは、意識の経験の学、とみずから言っているように精神が自覚的に感覚できる個別的なものから、その対立を克服して概念の階段を上昇し、最後に絶対知に至り、その絶対知にすべてを包括し、世界を絶対精神の発出として理解するもの。 これは古代ギリシャのプラトンの「実在論・リアリズム」の近代の復刻版であり、プラトンは天に永遠の「イデア」があり、それこそが真の実在であり、地上の諸々の存在、個物は真の実在ではなく、仮象だと言いましたが、ヘーゲルにとって個物だとか個人は実在ではなく抽象的なものであり、真の実在であり、具体的なものといったら、全体的なもの、精神でした。 ヘーゲルは言います、 「理性的なものこそ現実的なものであり、現実的なものは理性的なものである」と。 つまり概念こそが真の実在であり、現実的なものであり、感覚されるものは仮象であり、抽象的なものであるということ。 こうしてヘーゲルは私たちのいう具体的なものと抽象的なものの関係をひっくり返しました。 ヘーゲルにとって個人よりも国家の方が実在で、個人はその国家のための、国家を導くための否定的媒介に過ぎない。 これがヘーゲルのいう現象学です。 それに対してフッサールは意識を自然的意識と現象学的意識に分け、現象学をやるためにはその自然的意識を棚上げにして現象学的意識に転換しなければならないという。 それが「現象学的還元」で、現象学は外的世界の存在に「カッコ」を施し、それが存在するという判断を停止します。 つまり、外的世界が存在するという私たちの信念を「宙づり」にします。 もしかしたら外的世界なんて存在しないかもしれない。 また、同じく「現象学的還元」で、私の存在についても「カッコ」を施します。 もしかしたら、私なんて存在しないかもしれない。 フッサールはデカルトと同じように普遍的懐疑で、世界の存在、そして私の存在に対する私たちの信念を停止します。 これをフッサールは「中和性変様」といっています。 何を中和するかといえば、私たちの世界が存在する、という信念、また私が私が存在するという信念、それをプラスの信念とすれば、それにマイナスの信念を対抗させて、中和することです。 マイナスの信念というのは世界が存在しない、私が存在しないという信念。 こうして、フッサールに言わせれば、純粋意識が最後に残るという。 これはデカルトの「コギト」です。 意識といっても、普通の意識ではなく、いわば作用だけの意識。 そしてフッサールに言わせれば意識の本質は「志向性」にあり、意識は何ものかの意識であると言われる。 現象学とは、この純粋意識の「志向性」によって、世界を再構成しようというもののこと。 ヘーゲルにとって意識とは自然的意識でしたが、フッサールにとって同じ意識という言葉でも、中身がまったく異なり、現象学的還元を経た現象学的な意識でした。 ヘーゲルにとって意識とは人間が有するものでしたが、フッサールにとって、人間以前にあるもの、むしろ人間はその意識によって構成されるものでした。 ヘーゲルにとって現象とはカントと同じ意味で、時間・空間の中にある物の現象であり、現われでしたが、フッサールにとって現象とは物に限らず、霊でも魂でも、神でもいい、単に私の意識に現われるものならば、時間空間の中にあっても無くてもいい、すべてを含みました。 ヘーゲルにとって精神を除くものが意識の対象である現象で、精神そのものは現象ではありませんでしたが、フッサールにとっては精神だろうと神だろうと、私の意識に与えられるもの、現われるものはすべて現象でした。 ヘーゲルは世界と私の存在を疑いませんでしたが、フッサールはデカルトと同じようにすべてを疑いました。 「コギト」という、世界がそこから開けてくる視点の存在しか認めませんでした。 ところが初期のフッサールは純粋意識による世界の構成ということを唱えていましたが、後期になると、その初期のデカルトの道を放棄するようになります。 例えばゲシュタルト心理学で、地と図ということが言われますが、大きな地図があったとして意識というのはその地図の小さな点でしかないのを知り、地図というもっと広大な世界があることを発見しました。 つまり意識は氷山のほんの一角に過ぎない、その下には意識されたない広大な世界があることに気が付いたのです。 それをフッサールは「生活世界」といいました。 私たちは意識的に世界を構成する前に、その広大な「生活世界」があり、それを受動的に受容し、その上で、自発的に考えたり、行動しているのに気が付いたのです。 この世界の存在に気が付いたこと、このことは古代ギリシャ以来、中世を経て忘れ去られていたコスモスとしての世界を2500年ぶりに再発見したことを意味します。 フッサールの現象学の最大の功績は、世界の存在、「生活世界」が私たちの人生の根底にあって、私たちがそれに生かされていることを発見したことにあります。 フッサールは「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の付録として付け加えられた「幾何学の起源」において、17世紀の科学革命のガリレオによって数学的自然科学が創始されて以来、世界は数学の「理念の衣」によって、おおわれてしまい、人生を、物事を数学によって考えるようになり、その人生の基盤にある「生活世界」が見えなくなってしまったと言います。 フッサールに言わせれば、ガリレオは発見の天才かもしれないが、同時に隠蔽の天才でもある、といいます。 こうしてフッサールの現象学は最終的に私たちの目から見えなくなってしまった「生活世界」を現象学によって再発見し、存在の、生の、生き生きとした活力を再び取り戻すことに目標が、テロスが据えられました。 フッサールはデカルトからカントを経て、ヘーゲルまでの近代哲学の自我中心・意識中心・主体性を中心とする世界観を転換し、戦後フランスのポスト・モダンとハイデガーの存在論にいたる道を切り開いた哲学者だということができます。 どうですか、同じ現象学でも、フッサールのいう現象学と、ヘーゲルのいう現象学が、月とすっぽんのように違うのが分かると思います。 皆さんの感想と忌憚のない批判を募ります。

  • 現代哲学の問題意識、関心事がよく掴めません…

    こんにちは。 いわゆる伝統的哲学、例えばカントやヒュームや古代~中世の著作を読んでみると、確かに書かれている内容は難しいものの、少なくとも彼らが問題としていること、著作の意図などは理解できます。 しかしながら私は、現代哲学の話を人から聞いてみても、彼ら(特にフッサール系の哲学者たち)がいったい何について論究しようとしているのか、何を解き明かそうとしているのかがつかめません…。 哲学にはニーチェの死の前後で大きな隔たりがあるように思われます。 どなたか現代哲学の関心事がどのようなものであるのか、またその伝統的哲学からの転換の契機となったのはどのようなことであったのかを、教えていただけませんでしょうか? また現代哲学の議論に仲間入りするために、現代哲学への興味をそそられるような著作があれば、よろしくお願いします。 できれば、一時文献が良いです。 お願いします!!

  • はじめまして、私はこれから哲学や社会科学などを勉強したいと思っている者

    はじめまして、私はこれから哲学や社会科学などを勉強したいと思っている者です。 勉強するための本を探していると「構築主義」が流行っているようにみえました(合ってますでしょうか?)。これより新しい?考え方にはどんなものがあるのでしょうか? また、構築主義は万能なように記されているように見えますが問題点にはどのようなものがあるのでしょうか? こういった学問の領域に関して全くの初心者で、大学も経済学部だったので、本をたくさん購入したものの意味がなかなか理解できず困っています。初心者におススメの本なども教えていただけると助かります。 どうか、ご教授お願いいたします。

  • 人生についての深い洞察を高める為に

    人生について深い洞察力のある人間になる為には、哲学書、ヴィトゲンシュタインの本や、フッサールの本や、ハイデカーの本など、難解な哲学の名著を読まなければならないと思いますか?それとも、難解な哲学書は全く読まずとも幅広い学問の、良質な本を幅広く読書を積み重ねる事で深い洞察を備えた人間に近づけると思いますか?

  • 初心者なんですが・・・

    私は哲学に興味があり、勉強してみたいなと思っているんですが、なにぶん全くの初心者で何から手をつけていいのかわかりません。素人にも理解しやすいような入門書的な本はないでしょうか?

  • 現象学、構造主義、ポスト構造主義

    趣味で哲学の勉強をしています。 フッサールの現象学まできて、その後の構造主義、ポスト構造主義の理解が今ひとつです。 現象学まではとりあえず理解できていると思います。 構造主義とポスト構造主義、 そして、現象学とポスト構造主義の違いについて わかりやすい説明をしてくださる方いらっしゃいませんか?

  • 哲学用語を知る手段

    哲学を勉強している者なのですが、哲学用語が難しくてなかなか進みません。 知らない哲学用語は、大体インターネットや哲学辞典を使って調べるのですが、サイトや辞典によって正確な意味にばらつきがあり、また抽象的過ぎるのにもかかわらず分かりやすい具体例がほとんどありません。 でも、哲学も学問なんだから専門家の間だと一致した意味、確固たる定義があるはずです。 そこで、そのような哲学の用語を分かりやすく、著者の主観を排除して知ることのできる本、サイト、また専門家に質問できるサイトなどを探しています。 どなたかそのようなサイト、本を知っている方、教えてください。お願いします