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マインドフルネスとは宗教?

マインドフルネスは座禅に似てますが、禅宗や臨済宗から来ているのでしょうか? よく、マインドフルネスをやっている人から、 「自分を許すとか許さない」と言った言葉が多く聞かれますが、 「己」や「自我」といった規模の瞑想なのでしょうか? どうも自己中的な小さな自己満に思えてなりません。 何事も、「自己の確立から」と言われれば、そうかもしれませんが、 それ以上なことも特段、何も発想してない様にも思います。 自己の充実の他に、後は何を思って毎日マインドフルネスをやっているのか? 興味あります。 「自己の充実=家族の充実」の様な、単純な回答ではなく、もっと詳しいご説明が欲しいのです。 マインドフルネスに詳しい方からのアドバイスをお願いします。

みんなの回答

  • hue2011
  • ベストアンサー率38% (2801/7249)
回答No.1

只管打坐といって、頭の中にとどこっているいろいろなものをいったんリリースして静かにしていれば何かが得られる「こともある」というのが禅です。 臨済宗だけじゃなく曹洞宗も入れてください。 これらの宗教は、ある時点を「切れ目」としてその前と後が違うという考え方をするのが特徴です。だから、切れ目が作れなければ足がいたいのにただ座っていただけ、ということになります。漱石の「門」です。 マインドフルネスというのは、何も切れ目がつくれない状態の人間のほうが多いんじゃないかという発想で、べつの切り口を探そうとするものでしょう。禅とかかわりがあるかどうかは知りません。ヨガかもしれませんよ。 視点を変えるというのがポイントですね。自分がうじうじ考えている状況は、アリとします。それを自分でない目で観察してみるのです。 視点が自分自身だと、自分は無能力だとか卑劣だとか自分なんてこの世からいなくなったほうがいいんだ、みたいな考え方をしています。 それを、仮に自分が神の立場に立っているとしてみてみます。 そうすると、ああ、悩みやがって可愛いもんだ、と見える可能性があります。ばっかだな。そんなことを言っている暇にこれをしたらいいんじゃないか、まで気がつけば立派なものですが、たいがいはばっかだな、までは行けます。 そうすると哀れな愚か者ですから、存在は許せます。これが自分を許すということです。明快に言えば、自分の存在を許すのであって、自分の行動とか考え方を許しているわけじゃありません。 そういう切り口の考えかたなんです。 だけど、いろいろ偏見や何かあるでしょうから、これらの宗教とか方法名を一切つかわないで思想の本質をご説明します。 たとえばあなたが、無職でお金も持っておらず、家もなく、いわゆるホームレス状態で新宿の地下道とか公園をうろうろしている存在だとしましょうか。仮に。 家でぬくぬく温まり飯を食い生活している学生なんかかからツバをかけられたり出ていけゴミ、死ね、という罵声を浴びせられることがあるとします。 あるとき、家出してきた子供とであい、あなたは自分よりもその子のほうが惨めで哀れだと思う。で、さっき拾って楽しみにしていた菓子パン(袋にははいったまま)をその子に渡し、その子の話を聞いてやろうとします。子供は家庭の事情の嫌なことやなにかをぽつぽつと話しだします。何を聞こうともあなたはそれにたいして何もしてやることができません。ただ聴くだけです。 言うだけ言うと、子供は気持ちが楽になる、というかさっぱりします。誰にも相談できない家の恥もふくめたことをこのおじさんに話したので、王様の耳はロバの耳ということを吐き出せたのです。 ちょっと明るい顔をして子供は「ぼく家に帰る」と帰っていきます。 次の日、あなたの前をその子がとおり、こちらを発見したらぱっと顔が輝き、手をふってきました。 さて、あなたはどう考えますか。昨日までお前なんか死んじまえゴミといわれていたんだけど、自分が存在する意味はあったんだと思いますね。 自分はこの世の中に存在していいんだ、と感じますね。この子がうれしそうに手をふってくれるなら居てもいいはずです。 これが「自分を許せる状態になった」ということです。 ここまで極端な話にしなくてもいいのですけど、大体、袋小路に閉じ込められた人間は、自分のことなんか放っておいて誰かの悩みを聴く、それだけをすれば救われるのです。 自分の問題というのは自分にしか解決できないものです。 愚痴をいいながら相手は事態を整理します。こいつに説明して悩みの共感をもらうためにはこういう順でこれとこれを言わなければいけない、あ、あれもだ、というように。 いままでは頭の中に悩みが相互の連携もないままにゴミ溜めのように淀んでいたんですが、説明のためにそれを拾って岸に並べることをしていると、ハッと気づくことがある。あ、これが悪かったんだ。これをこうすればいいんじゃないか、というような解決策が自動的に沸いてくるのです。 そして、自分で問題を解決し出します。あなたはただ単に聴いているだけです。 ただ、鬱陶しそうに嫌そうに聞くのではなく、共感できるように熱心に聴く、それだけをしているのです。 相手ははなしおわったときハレバレとした顔になっているはずです。 で、必ずしも解決策は得られなったかもしれない。でもそれをあなたが魂をこめて聴いてくれたのです。それだけでうれしくて、あなたに聴いてもらえたというのは自分も捨てたもんじゃない、この世に居てもいいんだ、と思ったはずです。 強い感謝の念をもってあなたと別れます。 あなたのほうは、本質的な解決がなされたかどうかはべつとして相手に満足感を与えたというだけで、自分が居ても良かったのだと実感できたはずです。 ここでふたりの人間が救われたのです。どちらも自分の存在をゆるす、と神から言われたことになります。 今後また再開すると、相手はあなたを恩人だとおもっていますからあなたの危急の際は絶対助けよう、と思っているはずです。 相手に、助ける相手というのを与えたのですから、あなたの存在理由はまたひとつくわえられました。 こういうことがごくごく普通のことでないとおかしいと思いませんか。 宗教だとかそんなことはどうでもいいのです。マインドフルネスでもエゴノミクスでもなんでもいいけど、そんな、理屈になっちゃったものは捨てましょう。 人を助ける、というのは人の言うことを聴くことであり、それは視点を変えて事態を見るということにすぎません。それが人を救うことになり、人が救えたら自分も救われているのです。それだけのことです。

dmawdmaw
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 曹洞宗は禅宗のひとつなので、総称で禅宗と書きました。 ご回答に、 >さて、あなたはどう考えますか。昨日までお前なんか死んじまえゴミといわれていたんだけど、自分が存在する意味はあったんだと思いますね。 自分はこの世の中に存在していいんだ、と感じますね。この子がうれしそうに手をふってくれるなら居てもいいはずです。 ・・・と、ありますが、 パンをあげて その子から手を振られても、 食べ物が微塵も無く 飢え死にしそうな状態では、果たして単純に喜べるでしょうか? パンをあげてしまった事すらも 後悔すると思います。 飢えはそこまで容易い精神状態ではないのです。 また「許す」という言葉は、自分自身というよりは 第三者から許されるという様なイメージを持ってしまい、「他人事」の印象を強く受けます。 よって、客観的になるのはいいですが、益々「マインド瞑想」により 他人事のキャラになってしまうような気概があります。 許すというよりは、 「境地」という表現の方がいいように思います。 それとも「己」に焦点を当てた、 小乗経の域なのでしょうか?!

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