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自分自身の目で見

 ふとアインシュタインの格言が目に止まったんですが、  「自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人はとても少ない」  みんなそうしているようにも思えるんですが、実際とても少ない、とても難しいことなのでしょうか?自分で考えることにも通じるのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.3

よく私たちは、目を通して物を見ている、あるいは耳を使って聞いている、と考えていますが、このことを17世紀の英国のロックやヒュームは、私たちは観念を通して外の世界を認識しているといいました。 アインシュタインが「自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人はとても少ない」と言っている通りです。 また、私たちは、常識とか、偏見とか、思い込みとか、そういう「色眼鏡」を通して外の世界を眺めていると言われます。 「みんなそうしているように思えるんですが」、私たちは目で見るわけでもないし、耳で聞くわけでもないし、また「色眼鏡」を通して外の世界を眺めているわけではなく、直接的に、じかに物事を眺めているのです。 観念を介さず、じかに物事が「立ち現われる」という場に私たちは立ち合っているのです。 最近、国分功一郎が「中動態の世界」というベストセラーでいうように、私たちは能動態「見る」ではなく、受動態「見られる」でもなく、中動態「見えている」という在り方で、外の世界を認識しているのです。 ところが「実際(そのように考える人は)とても少ない」。 たぶん、「とても難しいこと」「自分で考えることにも通じる」はずですが、そう考える人は少ないです。 故・大森荘蔵はそれを「立ち現われ一元論」と言っていますが、主体があって、客体を認識しているのではなくて、主体も客体もなく、そのものが「立ち現われる」と言っています。 それと同じことを西田幾多郎は「物が来たって我を照らす」と言っています。 つまり私という主体があって物を見るのでなく、物が向こうからやってきて、認識の場に「立ち現われる」ということです。 目を使うのでもなく、耳を使うのでもなく、感覚器官を通して見るのでもなく、 観念を通して見るのでもなく、「色眼鏡」を通して外の世界を眺めているのでもない、ということ。 このように、直接、じかに、何ものも介さず、物事を見るということは至難です。 同じことは「考える」ということにも言えます。 私たちは、考えるというと、言葉を使って考えるとか、あるいは脳を使って考えるとか、脳が考えるという人がいますが、私たちは何かを使って考えるのではなく、直接、じかに、単に考えるんです。 でもそう考える人は「実際、とても少ない」です。 「とても難しい」んでしょうねえ(笑)?

nobound
質問者

お礼

 観念を介さず、もの自体を見ろということでしょうか?アインシュタインの「とても少ない」がどれ程の深い内容なのかは、はかり知れませんが、この回答を読んだだけでも、「目で見る」難しさを痛感いたしました。「的確に捉える」ことかなとも思いました。  ありがとうございました。

nobound
質問者

補足

 「中動態」が興味深いので、BAに

その他の回答 (4)

回答No.5

#4の者です。 >自分自身の目で見ることは、自己中だということでしょうか? 「目で見ている」のは、木ですか?光子ですか? 目が捉えているのは光子で、木を見ているのは脳です。 脳は、目からのインパルスを脳に蓄積された五感の記憶 と相関させて、想像しているのです(自己チューに)。

nobound
質問者

お礼

 ですからここでは、目を通して脳がどう動くかの話ですね。とにかく「目」でものを見るとは、そう簡単ではないことが何となくわかりました。  自己中は、視点が自分から出ていない気がします。ありがとうございました。

回答No.4

本当に自分の目で捉えているのは、目の前の木ではなく、 網膜上に当たる光子の相互作用パターンに過ぎない。 その作用パターンの向こうに、『そこまで到達すれば どんな作用があるか』を予測する事が空間の広がりに 他ならない。 過去の記憶(経験=過去の認識可能性の時系列化)を 元に、未来を予測(空間的広がり)している。 そうした経緯が時空のホログラム性、そこにおける 不確定性原理の時空的相補性となって、偽りの世界を 感じさせているという自覚のない、自己チューな意識。 自己=宇宙から、自己=肉体への低認識ゆえの萎縮。

nobound
質問者

お礼

 ありがとうございます。よくわかりませんが、自分自身の目で見ることは、自己中だということでしょうか?自己中な見方もありますね。

noname#232424
noname#232424
回答No.2

「行列ができるラーメン屋」とかは,他人の言説に流されているんじゃないでしょうかね。 オーディオ評論家が絶賛すると,みんなそれを買う。しかし,目隠しをして試聴すると,区別がつかないなんてこともあります。 自然科学では,定説とされてきたことを,向こう見ずで非常識なやつが「ちがうんじゃないかい?」と疑い,いつか覆されるという例はあると思います。

nobound
質問者

お礼

 確かに、行列は庶民の舌を信じ、評論はプロの感覚を信じてしまうんですね。  自分の舌や感覚を信じるとは、行列や評論家との闘いでしょうか?好きな音楽もそうですね。

  • meido2010
  • ベストアンサー率15% (68/448)
回答No.1

アインシュタインの時代でも、あらゆる書物による科学の経緯や 積み重ねがあったわけで、それらに縛られて新しい発見や発明に 足枷が掛かってはいけない。と言ってるようにも思えますね。 現在はネット文化が最盛期を迎えていますから、情報は山のよう にありますし、引き出しも凄い数になります。 結局、そういうものに振り回されて「何が真実か」を見誤ってし まう人も多いですね。 これは、ある程度仕方ないかなとも思えます。

nobound
質問者

お礼

 そうですね。書物や情報を信じてしまうことも、こういうネットのガセネタに振り回されることもよくあります。というか、そちらがほとんどかもしれません。  ありがとうございました。

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