- ベストアンサー
なぜ中国の歴史書の書かれた順番と国の順番が違うのか?それらの書はいつ頃発見され、日本人がその内容を知ったのはいつ?
- 小学6年生から歴史の学習をしている息子が、中国の歴史書で書かれた順番と国の順番が違うことに疑問を持っています。具体的には、【魏志倭人伝(三国志)】と【後漢書東夷伝】では、中国の歴史としては漢→魏(三国)の順番ですが、書かれた年代としては陳寿の書いた三国志の方が先のようです。また、【古事記】も江戸時代に発見されるまで表に出ていなかったとのことです。息子は、なぜこれらの書の順番が違うのか、いつ頃発見されて日本人がその内容を知ったのかを知りたいと質問しています。
- 息子の質問は、中国の歴史書の順番と国の順番の違いについてです。具体的な例として、【魏志倭人伝(三国志)】と【後漢書東夷伝】を挙げています。中国の歴史としては漢→魏(三国)の順番ですが、書かれた年代としては陳寿の書いた三国志の方が先のようです。また、【古事記】も江戸時代に発見されるまで表に出ていなかったそうです。息子は、なぜこれらの書の順番が違うのか、いつ頃発見されて日本人がその内容を知ったのかを知りたいと質問しています。
- 息子の質問は、中国の歴史書の順番と国の順番の違いについてです。具体的な例として、【魏志倭人伝(三国志)】と【後漢書東夷伝】を挙げています。中国の歴史としては漢→魏(三国)の順番ですが、書かれた年代としては陳寿の書いた三国志の方が先のようです。また、【古事記】も江戸時代に発見されるまで表に出ていなかったそうです。息子は、なぜこれらの書の順番が違うのか、いつ頃発見されて日本人がその内容を知ったのかを知りたいと質問しています。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
もともと後漢の歴史書として最も重んじられていたのは後漢末期に成立した「東漢観記」でした。しかしながら、この書物は記述が霊帝までで終わっており後漢の歴史すべてをカバーできていないうえ、史記や漢書に比べ文章がへたくそだったため評判が悪く、その欠点を正して決定版をつくろうと、後からたくさんの後漢の歴史書がつくられました。そして、なかでも最も後で書かれた范曄の「後漢書」が高い評価を得て、「東漢観記」にとってかわった、というのが、「三国志」よりずっと後に「後漢書」が書かれている理由です。 「後漢書」が「東漢観記」に代わる地位を確立したのは唐の時代に入ってからなので、古来、歴史書の模範として重んじられた「史記」「漢書」とちがって、日本への伝来は遅かったとみられています。ただ、奈良時代の769年には日本に存在していて学生の教科書として用いられていたことが確実です。
その他の回答 (2)
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9602)
tigerdragon さん、こんにちは。 どうやら、後漢書は中国の南北朝時代の北朝の宋(のちの統一王朝の宋とは違います)の時代に范曄という人が書いたようです。成立は後漢が滅びてから200年たっての成立なので、正史三国志の補助資料というマイナーな地位にあります。また、200年もたっているので、ほかにも後漢時代を現した文献があるようです。 後漢書 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E6%9B%B8
お礼
ご回答ありがとうございましたm(_ _)m。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
〇漢書地理志 倭についてはじめて書かれた正史は、後漢の初頭時代に班固が書いた『漢書』地理志であり、王充が著した『論衡』(ろんこう)である。ウィキより。 〇後漢書東夷伝 『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体。成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)ウィキより 〇魏志倭人伝 中国の正史中で、はじめて日本に関するまとまった記事が書かれている。『後漢書』東夷伝のほうが扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝のほうが先に書かれた。ウィキより。 下記がご参考になるかもしれません。 http://nihonshimatomenote.seesaa.net/article/438280400.html 1。書かれた順番が国の順番とはちがうのはなぜ? 書く時と書く対象とは違います。2017年に管原道眞(903年沒)について書くことができるのと同じです。 新しいものが詳しいのは自然で、三つのうち魏志がそうです。「朝鮮半島の南の方にある島」程度の記述は古くからあるが、使い物にならないということです。 2。その歴史書はいつ頃発見されて、日本人がその内容を知っていたのはいつ? これは、中国の正史がいつ日本人の目に、輸入された物を読んだのか、留学生(お経を読む方が先だったのでしょうが)が旅先で見たのかはわかりません。 奈良の都市計画は中国を模したものですから、仏教とは別の知識、例えば土木事業、がもう日本に八世紀には入っている訳で、正史もその頃かと思います。 詳しいことは、歴史の先生に聞けばいいと思います。
お礼
ご回答ありがとうございましたm(_ _)m。
お礼
ご回答ありがとうございました。 なるほど…以前に作った歴史書の出来がわるかったので 書き直したため…なのですね。 納得できました。ありがとうございましたm(_ _)m。