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あぐら禅

椅子禅というのがあるのは知っていますが、 座禅はあぐらでやってもいいんですか?

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回答No.5

私が説明した一連の過去記憶の説明と理解手法は「起源回帰性」という概念化で私個人は定義している。 死にまつわる多くの命題の集約だ。 起源を存続し常に更新し続ける能動的意思が未来に向かう意思そのもので、これは私に命名権があり、柔らかい言葉、「ときわたり」だ。 まあ、変人から親切にされて、君だどの程度くみ取れているかは定かではない。 私はそんな研究をしているよ。

kirakiraaruku
質問者

補足

そういう趣旨なら、 過去生退行催眠というのがあるんですが、 参考になると思いますよ。

回答No.4

仏教系の瞑想は死との一体ともいえる面白みがないが、この手の事柄に疎い初心者には興味深く難易度も低い術だ。 これらは過去記憶の追想で、どんどんさかのぼると釈迦にも行きつく。 仏教系はこのように釈迦への到達で満足するだけの目標を設定するだろう。 いや、 釈迦は大したことが無い。 歴史上の一里塚だよ。 より深い瞑想は、過去の探求の場合は釈迦以前までさかのぼり、神の発祥と人間の自覚までたどり着き、インドの文明の歴史を神話時代にさかのぼり開放することだ。 この私の提示する瞑想術の目標も仏教から逸脱しているだろう。 釈迦からも仏教からも逸脱した疑念はそもそも日本の大乗仏教にはつきものだ。 それは、それでまんざらでもない。 問題視しなくていいだろう。

回答No.3

ところでね、試しに仏教の教本を読んで座禅での到達は私にとってあっけなく一回で成功した。 私は過去記憶と未来記憶を横断する「ときわたり」という個人的な独自性のある常態に到達している。 それは仏教の圏外だ。 いろいろとそんな自己を研究していて、今回はその成果の一つとして仏教における瞑想術を説明したんだ。

kirakiraaruku
質問者

お礼

過去記憶と未来記憶ですか、それはすごいですね。 ありがとうございます。

回答No.2

仏教の瞑想を定義すると、自らの身体の範疇を離れて先人と一体化しつつ、それが先人の記憶の追想であるという点だ。 ただ反動として無我が必定である故、自らの精神状態が即身成仏したミイラみたいになるんだ。死者の記憶と言っていい特徴もある。 これらは過去記憶の追想で、どんどんさかのぼると釈迦にも行きつく。 瞑想術さえ体得すれば、師匠に認められなくても突然変異的に伝説的高層に比類しうるだろう。 これはね、例えば釈迦の記憶や先人の記憶と一体になっても、それは西洋から持ち込まれた真理という概念と一致しない。 絶対性のある究極ではなく、世代を横断して継承する僧侶としての瞑想術なんだ。ただ体得し受け継いでいくのみで、神を理解したとかの話とは違う。 ここで過去記憶という言い方をしたけど、未来記憶という概念も対比として仮定出来るだろ。それは西洋で予言者と言われたタイプの聖職者だ。 おおむね人間自身を理解しようとした東洋の神学や哲学。 神の存在への理解に努めた西洋の神学や哲学。 大きく分けるとそんな傾向だ。

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます。

回答No.1

仏教の瞑想術は型自体が術の一部で決められた型を守ればそれでいいんだ。 確かあぐらと言っていい座り方もあったね。 瞑想状態は、自分自身の体験からはねれて、過去にそうして座禅を組んだ先人の記憶という経験と一体化する、自らのカラの範疇を超えた追想の一種だ。 いにしえからの先人の記憶との一体だ。 ただあまり期待しないように言っておくと、 大して面白くない。 生きている自己の自覚が喪失して、ミイラかゾンビみたいな精神状態になるんだ。

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます。

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