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「「神」の意のまま」

こんばんは。 「「神」の意のまま」とは、具体的には、どういうことなのでしょう。 【訊きたいポイント】・・・「「神」の意のまま」とは、具体的には、どういうことなのでしょう。 宜しくお願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

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  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.1

 「「神」の意のまま」とは、具体的には、どういうことなのでしょう。  寅さんのおいちゃんの言葉に直せば「知らねえよ」でしょうね。

kurinal
質問者

お礼

SPS700様、ご回答ありがとうございます。 さらに、翻訳して下さい。

その他の回答 (10)

  • nukukuro
  • ベストアンサー率11% (1/9)
回答No.11

そうですか。」←そうですよ・・ 人間の親だって 子供を意のままに操る為に産むのでは無く 愛する為に産む・・ 愛する為に創造した人間・・そして 神は居る・・と信じてくれてるあなたに「神の意のまま」なんて言われれば 悲しむのは当然・・

kurinal
質問者

お礼

nukukuro様、こんばんは。 >「人間の親だって 子供を意のままに操る為に産むのでは無く 愛する為に産む・・ 愛する為に創造した人間・・そして 神は居る・・と信じてくれてるあなたに「神の意のまま」なんて言われれば 悲しむのは当然・・」 そうじゃなくて、ですね。 「神の意のまま」とは、どういうことなのか?という、ご質問です。

  • nukukuro
  • ベストアンサー率11% (1/9)
回答No.10

神は現在 目を腫らして泣いている・・ 神」の意のまま」・・なんて 二の次で良いと思ってる

kurinal
質問者

お礼

nukukuro様、ご回答ありがとうございます。 >「神は現在 目を腫らして泣いている・・ 神」の意のまま」・・なんて 二の次で良いと思ってる」 そうですか。

回答No.9

> 思考を一切排除して、下半身のままの行動が君にとって神の意のままであることだ。 これが愛に忠実であるという事だ。

kurinal
質問者

お礼

> 思考を一切排除して、下半身のままの行動が君にとって神の意のままであることだ。 これが愛に忠実であるという事だ。 あ。 世の中には「不倫も辞さず」という人も、居るんですね。 でも「不倫」が愛かどうか、難しいですね。

回答No.8

君は考えても無駄だ。 そういう意味だ。 思考を一切排除して、下半身のままの行動が君にとって神の意のままであることだ。

kurinal
質問者

お礼

F様、こんばんは。 >「君は考えても無駄だ。 そういう意味だ。 思考を一切排除して、下半身のままの行動が君にとって神の意のままであることだ。」 ・・・そういう、抑制の利かない人たちが、「社会」によって淘汰されてきた、 というのは、聞いたことがありますよ。

kurinal
質問者

補足

>「君は考えても無駄だ。 そういう意味だ。」 これ、テーマにしましょか

回答No.7

そうさな、質問以前に問題点がある。 神の意のままにと、 どこのどいつが君に刷り込んだんだ。 そいつが神か? 私の意のままになるのなら、V字開脚の上放尿したまえ。

kurinal
質問者

お礼

Flareon様、ご回答ありがとうございます。 「大乗仏教」にあっても、「妻帯を認める」というのがあってですね。 信徒は「先例」を引いて、「このような関係ならアリだ」というので、 ・・・そういうのが全部が全部、宜しくないとは言わないですが。

回答No.6

人は、なぜ存在しているか、何のために生きているか分から なくても、生きない訳にはいきません。 そこで無知なまま生きる上で、安心を得る=世界の起源や 死後の世界を知ったつもりになるため、一番手っ取り早い、 「全知全能の神」を考案したのだ。 つまり「神の意のまま」ではなく、正しくは「神は意のまま」。

kurinal
質問者

お礼

psytex様、ご回答ありがとうございます。 >「人は、なぜ存在しているか、何のために生きているか分から なくても、生きない訳にはいきません。」 それは、そうですね。 >「そこで無知なまま生きる上で、安心を得る=世界の起源や 死後の世界を知ったつもりになるため、一番手っ取り早い、 「全知全能の神」を考案したのだ。 つまり「神の意のまま」ではなく、正しくは「神は意のまま」。」 ・・・なんで、ウソまで付く必要があったのか、と思ってしまいます。 (おそらく、教わる側が、とんでもなく無知だったのでしょう)

  • g27xxxxx
  • ベストアンサー率28% (124/441)
回答No.5

仏教なら、お釈迦様の手の中…かな。 人には持って生まれた「宿命」というものがあり、 定められた流れの中でも、足掻きや努力で「運命」を変えることは可能だし、 過ちを犯して「運命」が変わることもある。 それでも思いがけない事で人生が変わる時もあれば、誰もが死ぬ時が来たら死ぬ(宿命)。 それもこれも、全ては「神の思し召し」(神の意のまま)。 …そういう事ではないでしょうか。

kurinal
質問者

お礼

g27xxxxx様、ご回答ありがとうございます。 >「仏教なら、お釈迦様の手の中…かな。」 一口に「仏教」たって、いろいろですから。 小乗と大乗の違いとか。 「大乗仏教」の中の人たちなら「お釈迦様の手の中」で、納得するかもしれません。 でも、歴史的には「小乗」が先に有って、変則的に発展してきたものです。 >「人には持って生まれた「宿命」というものがあり、 定められた流れの中でも、足掻きや努力で「運命」を変えることは可能だし、 過ちを犯して「運命」が変わることもある。 それでも思いがけない事で人生が変わる時もあれば、誰もが死ぬ時が来たら死ぬ(宿命)。 それもこれも、全ては「神の思し召し」(神の意のまま)。 …そういう事ではないでしょうか。」 ほほう。 全ては「神の意のまま」とすると、 そこに「モラル・ハザード」は、発生しないのでしょうか?

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.4

「「神」の意のまま」とは、具体的には、どういうことなのでしょう。     ↑ キリスト教なら、聖書に書いてある通り、 牧師や神父の言う通りに人生をやっていけ ということです。 要するに、自分の頭で考えるな。 人間など卑小な存在なんだから、自分で考えるな、 宗教指導者の言うがママに生きろ、 という意味です。 これに反発したのがルネッサンスであり、 実存主義です。

kurinal
質問者

お礼

hekiyu様、こんにちは。ご回答ありがとうございます。 >「キリスト教なら、聖書に書いてある通り、 牧師や神父の言う通りに人生をやっていけ ということです。 要するに、自分の頭で考えるな。 人間など卑小な存在なんだから、自分で考えるな、 宗教指導者の言うがママに生きろ、 という意味です。 これに反発したのがルネッサンスであり、 実存主義です。」 「これが、「理想の女性」だ!」で、そうなら・・・

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.3

「「神」の意のまま(に) と言っている人がいた場合、その人は 「自分も含めて全ての人間は神から与えられた運命に従って生きている」 という考え方から、 「自分の身に起きる良い事であろうと悪い事であろうと、それが起きたのは全て神が定めた運命によるものである以上、それが自分の身に起きたのも神の御意向によるものであり、矮小な存在であり、神の僕でもある人間の自分には神の御意向に逆らうなどとんでもない話なので、良い事であれ悪い事であれ自分の身に何が起きようともその全てを甘んじて受け入れます」 という意味合いの事を言っているのです。

kurinal
質問者

お礼

kagakusuki様、ご回答ありがとうございます。 >「その人は 「自分も含めて全ての人間は神から与えられた運命に従って生きている」 という考え方から、 「自分の身に起きる良い事であろうと悪い事であろうと、それが起きたのは全て神が定めた運命によるものである以上、それが自分の身に起きたのも神の御意向によるものであり、矮小な存在であり、神の僕でもある人間の自分には神の御意向に逆らうなどとんでもない話なので、良い事であれ悪い事であれ自分の身に何が起きようともその全てを甘んじて受け入れます」 という意味合いの事を言っているのです。」 ・・・その人は、ですね。

  • 177019
  • ベストアンサー率30% (1039/3443)
回答No.2

この言葉を言った方が「神」を信じているという事が前提です。そうしますと事が起こると、「神様がこうしてくれたんだ、神様がこのように仕向けてくれたんだ。」と成り行きがすべて神様のせいだとする考え方、実際には事が起こる事は一方ではその人の運命、宿命なのですが、この方はあたかも神と言う存在がいつも自分と一緒にいるような考え方を持つ、これは「人間の幸不幸の原因を自分自身以外のものに転嫁している。」物事には必ず原因があって結果がある訳ですから、何でもかんでも神様?というのは如何なものでしょうか。

kurinal
質問者

お礼

177019様、ご回答ありがとうございます。 >「この言葉を言った方が「神」を信じているという事が前提です。」 「この言葉」とは? >「そうしますと事が起こると、「神様がこうしてくれたんだ、神様がこのように仕向けてくれたんだ。」と成り行きがすべて神様のせいだとする考え方、実際には事が起こる事は一方ではその人の運命、宿命なのですが、この方はあたかも神と言う存在がいつも自分と一緒にいるような考え方を持つ、これは「人間の幸不幸の原因を自分自身以外のものに転嫁している。」物事には必ず原因があって結果がある訳ですから、何でもかんでも神様?というのは如何なものでしょうか。」 そうですね。「何でもかんでも神様」というのは、如何なものでしょう。 >「物事には必ず原因があって結果がある訳です」 そうですね。

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