駕籠はいつ頃から姿を消したのですか。

明治時代になっても近距離の移動には駕籠が便利だったと思いますが、東京の街から駕籠が見られなくなったのは、いつ頃からですか...

Why-J-people さんからの 回答

  • 2016-12-01 15:08:31
  • 回答No.12
Why-J-people

ベストアンサー率 85% (12/14)

>この記事から、病人や倹約の葬式、旧弊の嫁入には駕籠が使われていたと
>いうことですから、営業用の駕籠もあったと推定できます。

記事(明治8年12月30日付)は駕籠の激減期(明治3-4年頃)から4-5年程度と間
もない時期(国税課税対象期間2年間を含みますが)でもありますし、
人力車激増、即、駕籠全部廃棄でもないでしょうから、
少しは生き延びたのでしょう。

ただ、例えば「倹約の葬式」の場合、果たして駕籠本来の交通手段の一つと
言えるのかとか、また営業形態などには疑問も残ります。
下記は参考事例とまでは言えませんが、関連事項として書きとめます。

[2/15](10頁20-27行目)
明治初期、葬儀を請負うのは、駕諸人請負業者であった。当時、葬祭業者を
“駕屋”と称していたが、これは霊柩車の役割を駕が果たしていたことに由
来している。 ─(中略)─ 明治三十六年ころには、大阪市内の葬儀業者は
三千人を数えたが、その半数以上は薪炭商、運搬業、煙草店、八百屋、水屋、
人力車帳場等を副業または本業としていた。
[公益社社史『葬祭五十年,S57.12』p.485]
葬祭請負一本に商ができるようになるのは明治二十年前後からである。
[公益社社史『葬祭五十年,S57.12』p.501]
[3/15](11頁4-7行目)
同(明治四十)年春 ─(中略)─ その中で葬儀に使われる駕籠は「富貴の家
の葬儀に用いる贅沢品」ではなく、「貧民喪家の大礼に供するものの具」で
あり、駕籠税は結局、葬儀費用の高騰を生み、貧家の葬儀の対面をそこなっ
たり衛生性の問題を生じたりすることになると主張 ─(後略)─
<村上興匡「都市葬祭業の展開と葬儀意識の変化」
『東京大学宗教学年報.XXIII,2006.3.31』(p.9-22)>
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/25984

葬儀慣習の全国的な変化の一つとして、葬列から告別式への中心儀式の移り
変わりがある。東京の場合この変化は明治末に、主に上流階級から始まって、
大正末期には庶民も葬列は完全に行われなくなる。
<村上興匡「明治期葬儀慣習の変化と風俗改良運動:
宗教結婚式との比較」『宗教研究 77(4),2004.3.30』p.1177-1178>
http://ci.nii.ac.jp/naid/110002826510

東京の葬儀習慣は大きく変化してきた。 ─(中略)─ 明治以前の葬儀屋に
あたる職業は早物屋と呼ばれていた。早物とは葬具一般のことで、死者が出
てから急いで作って売った。明治になると、葬具賃貸業としての葬儀屋が成
立する。明治十九年神田鎌倉町に開設された東京葬儀社がはじめて「葬儀社」
として紹介された。輿屋とか棺屋とか呼ばれていた明治期東京の葬祭業者の
主たる業務は、棺や祭壇、葬列を飾る提灯や紙花など通夜や葬列に使う葬具
の調達貸し出し業務のほか、火葬場や葬儀人足の親方などへの手配業務だっ
た。大正の初め頃から、主に交通事情により葬列の葬儀は徐々に数が減りは
じめ、関東大震災以後には葬列を組むこと自体が不可能になった。─(後略)─
<村上興匡「近代葬祭業の成立と葬儀慣習の変遷[論文要旨]
『国立歴史民俗博物館研究報告 91,2001.3』>
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun4/index.html

あと、人力車数に関しましては、色々数字が有り過ぎて真に悩ましいです。
東京都人口約1300万人に対しタクシー約5万台、
明治5年東京府人口約86万人に対し人力車仮に約4万、
各種交通機関の創成期前の明治初期と現在とを単純比較は出来ませんが、
約4万は大いに疑問が残るところです。江戸期駕籠の場合は火急の時か吉原
などに利用する程度で無縁の人々も多かったとか。

また、<東京一覧.上/井上道甫編/須原屋茂兵衛/明8.2>
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779929/42
[42/49](三十六丁オモテ)
人力車 ○一万七百九十七
自転車 ○四
棺車  ○四十六
などあれど、駕籠数はもはや計上されず。
ますます、駕籠の数又は占有率が気になります。

アチコチあたりましたが東京府関連情報は見出せず、
明治6年8月1ヵ月間の東海道興津川橋(静岡市清水区)の交通量表(下り)では、

<淺香幸雄「明治六年八月東海道興津川橋の交通量」
『地学雑誌Vol.46(1934)No.6』(p.292-295)>
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/46/6/46_6_292a/_article/-char/ja/
[3/4]

人力車「1793」に対し垂・山駕籠「36」、
この数字をそのまま東京府に当て嵌めることは出来ませんが、
明治6年8月静岡界隈ですら「49.8対1」≒50対1、
この比率からある程度は東京府下も推して量れるのではないでしょうか。

以上
お礼コメント
kouki-koureisya

お礼率 94% (1373/1449)

度々のご回答ありがとうございます。

「東京中にて病人のほか駕籠に乗る者なし、尤も倹約の葬式か、旧幣の嫁入には駕籠を用ゆるも有ると云へり」の記事ですが、仰るように葬式や嫁入で用いられる駕籠は、質問本来の“近距離の移動”ではありませんね。
病人を運ぶために用いられる駕籠は、“近距離の移動”と言えますね。
子どもなら寝かせることもできますから駕籠の依頼もあったのでしょう。
わざわざ高い料金を払って駕籠に乗ることを“粋”だと思った人もいたかも知れません。

「近頃、(東京の街から)とんと駕籠を見なくなったね」「でも、○町で一度見かけたよ」というような話は、明治10年ごろ(いや、もっと前かも)から出始めたということでお開きにしたいと思います。
投稿日時 - 2016-12-02 19:53:12
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