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徳川家康の短所は?

戦略も布陣も人選も神通力も表も裏も采配も統治も外交も軍事も 学問も健康も子作りも御家継承も遺言も遺訓もお見事です。 しいて短所をあげるとすれば、何ですか?

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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (817/3046)
回答No.5

短所って表現はいきすぎですが、秀吉信長と比較していうと、貨幣経済流通経済に明るくなさそうですよね。 信長秀吉はとにかく水運の拠点物流の拠点を抑え、そこから税を集めることにこだわっています。 金の使いっぷりからして徴税の機構もかなりうまくいっていたでしょう。 それに比べると家康は開墾は大好きですし金山の直轄化は進めていますが、あまり商業からの徴税はうまくない印象ですよね。株仲間を認め毎年わずかな冥加金を納めさせるといったすごく古臭いやり方、江戸幕府はずっと農業を基盤とし大商人が肥え太る一方武士は素寒貧という時代が多いですよね。家康存命の時代は物流拠点を領有していなかったという事情もまあありますが、徳川家全体としてそのへんが苦手そうです。

heriotoro-pu
質問者

お礼

徳川時代は、黄金のうえに築かれていましたからね。 ありがとうございます。

heriotoro-pu
質問者

補足

節約と工事はうまかったけど、経済政策は・・・・・

その他の回答 (6)

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (422/1312)
回答No.7

「鳴くまで待とう時鳥」とは、逆の性格で瞬間湯沸かし器だった様です。 でも、聴く耳を持っていたと情け深ったので、三河武士団の結束と 領民から慕われたのでしょう。 信長、信玄、謙信にくらべると、戦は決して家康自身は上手くなかったと思いますよ。 武田勝頼にじわじわと駿河の国を削り取られてますから・・・ 戦は家臣に任せて、大局を眺めて、進む方向を決め、最後にニンマリ すれば宜しいので、その意味では戦上手なんでしょう。 没後、400年以上に、なるのに未だに大きな足跡が有り、その影響 たるや誠に大きいですね。

heriotoro-pu
質問者

お礼

万事、抜かりがないんですよ~ 徳川家康と伊能忠敬は完璧です。 松本清張は、編集部から依頼されても「伊能忠敬は面白みがないから、書かない」と 言ってたそうです。 伊能忠敬は実直そのもので、偉業を成しました。 徳川家康は人いじり(政治手腕)が堪能なので、人間像があります。

回答No.6

城攻めが下手すぎな所 秀吉が生前「もし内府(家康の事)と戦になったら城に籠れ」と頻繁に家臣に言ってたぐらいです

heriotoro-pu
質問者

お礼

西を見張りながら眠っていますから、秀吉を恐れていたのだと思います。 スッカリ見抜かれていたのですね。 ありがとうございます。

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2309/5140)
回答No.4

>しいて短所をあげるとすれば、何ですか? 全て、部下・家臣・ブレーンの考えを優先・尊重した事でしようね。 家臣の進言を元に、行動を起こしています。 「君臨すれども、統治せず」 既に、家康が実行していました。^^; この事があるので、「本当の家康は、本能寺の変時の伊賀超えで死んだ」など「偽物説」が多々存在するのです。 DIC大〇家具・ジャ〇ーズ事務所・出〇石油など、企業を私物化するオーナーに見習って欲しいものです。 規模が小さい時(三河の小領主・人質時代)は、オーナーとしての独裁も可能です。 が、規模が大きくなると「オーナー一族の利益よりも、国益・組織(会社・従業員・取引先)を考慮する必要があるのです。

heriotoro-pu
質問者

お礼

懐の深さを感じます。 ありがとうございます。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9602)
回答No.3

heriotoro-pu さん、こんばんは。 そうですね。若いころは信長、秀吉、信玄など学ぶべき人物がたくさんいました。でも、秀吉の死後にはもう彼以上に戦争、軍事、外交に経験を持つ人物がいなくなったことでしょうか? だから、彼の決め事が天下の仕置きのもとになったと思います。気が短くなったのはもう自分にはあまり寿命がないという事の現れではないでしょうか?

heriotoro-pu
質問者

お礼

人望はどうだったのでしょうか。 天下は思いのままとはいっても、疑り深くなりますよね。 ありがとうございます。

  • meido2010
  • ベストアンサー率15% (68/448)
回答No.2

それは、晩年の徳川家康です。 若い頃の家康は頭に血が上りやすく、血気にはやって失敗することが多々 ありました。 家康、三回の死ぬかと思った出来事をご存知ですか。 一回目は武田信玄の軍勢が浜松城を通り過ぎ、自分を無視したと思った 家康が城を出て野戦に臨んだことです。これを「三方が原の戦い」と 言います。待ち受けていた武田軍に散々にやられてたった一人で城に 帰った家康はウンコを漏らした。と言います。それだけ恐怖を感じたの でしょう。 二回目は本能寺の変で織田信長が討ち取られて、その時、堺にいた家康は 三河に帰るため伊賀越えを余儀なくされました。明智の兵に追われて何度 も死ぬことを考えたと言います。 三回目は大坂夏の陣でのことです。友軍優勢の報で前線にいた家康は、 一気に攻め上った真田幸村(信繁)の槍の矛先を目の前で見た。と言われて います。それが三度と言われていて、その度に腹を切ろうとしたそうです。 家康の寝所には武田軍に追われて逃げ帰った姿を絵師に描かせた「しかみ絵」 が飾ってあった。と言います。 もう、こんな過ちは起こさない。という思いからだったのでしょう。

heriotoro-pu
質問者

お礼

「運がある」「同じ過ちを繰り返さない自己制御能力がある」 ありがとうございます。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11124/34627)
回答No.1

「華がない」「ネクラ」ってとこでしょうね。 若いときの家康は自分の馬印に「厭離穢土欣求浄土」と掲げた旗を立てていました。その意味は「この穢れた世の中を捨てて清らかな場所に行きたい」というものですから、ま、どんだけネクラ男子だったんだって話ですわね。

heriotoro-pu
質問者

お礼

カッコイイ戦国武将はけっこういますからね~ ありがとうございます。

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