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【北野天満宮って何の神様ですか?】
【北野天満宮って何の神様ですか?】 なぜ菅原道真は権力争いに敗れて殺されたのにそれがなんで学業の神様なのだろう? 学業優秀なら権力争い(受験戦争)に負けた人間を学業の神様って奉るのはおかしいと思う。
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まず、菅原道真が神として祭られるようになったのは、政争に敗れて亡くなった後、彼の政敵やその関係者が次々と不幸に見舞われたので、人々はこれを道真の祟りだと考え、その怒りを鎮めるために神として祭ったからです。日本では、憤死した人の怨念を鎮めるために神として祭る、というパターンがあります。 道真の有名な祟りの一つに「清涼殿落雷事件」があり、このことから、道真は雷神=天神として祭られました。この時点では、まだ「学問の神様」ではなく、災害関係の神です。 やがて時代が下って、災害の神としての性格が薄れてくると、道真が優れた学者であったことから、それにあやかって「学問の神」という性格が付与され、広まりました。 >学業優秀なら権力争い(受験戦争)に負けた人間 本来ならば右大臣にまで上り詰めることができないような中流貴族出身の彼が、学問の力で頭角を現し、右大臣にまで上り詰めたのですから、それだけでも十分に受験戦争での勝者と言えると、私は個人的に思いますけどね。 道真の晩年の失脚は、現代で言えば、普通のサラリーマン家庭の人が、東大に主席合格・首席卒業、エリート官僚として頭角を現し、政治家に転身、大臣を歴任して次期総理大臣に……というところでライバルに嘘のスキャンダルをばらまかれて失脚、という感じです。 現代の大学までの受験関係でいえば、彼の人生はむしろ「勝者」の部類だと思いますよ。 また、確かに道真は政治家としては最後に「負けた」かもしれませんが、学者としての評価に傷は付いておらず、学者としては敗者ではありません。政治家としての「敗北」も、政敵による讒言、つまり受験で言えば「採点ミス」による敗北であり、だからこそ政敵は相応の報いを受けた(と人々が受け止めた)とも考えられます。 道真の時代には家柄第一だったのが、彼は学問の力で上り詰めたのです。だからこそ、家柄は無関係に、学力だけでも立身出世が可能な時代でこそ、「学問の神様」の人気が高いのかもしれません。
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- ithi
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japanway さん、こんにちは。 その話には後日談があり、権力争いに敗れて殺されたというより、病気になって死んだのです。道真が死んだ後、九州大宰府に流した本人の藤原時平が雷に当たって死んだとか事件があり、これは道真の祟りという噂が立ち、彼の霊を慰めるために天神の称号与えたという事です。彼はもともと学者の家系であり、学問ができたため、学問の神様として古くからあがめられていました。 詳細は下記のURLを参照ください。 菅原道真 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F
- hue2011
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諸葛孔明と言う人が居ますが、この人は戦略に関しては神のごとき人だった。 だけど、日本のどこにもこの人をまつった神社なんてありません。 中国の東北部にはあり得たかもしれませんけど。 なぜかというと、普通の個人からはかけ離れた優秀さで、あやかりたいようなものがないからです。 日常生活で、相手の打った矢を集め武器にしよう、なんて考え付くような場面はありません。 一方、関羽は神社があります。横浜中華街の関帝廟です。 この人は武将ではあったけど、きっちりとデータを集め分析して戦略をたて兵隊を動かした。ついでに簿記を作ってしまった人です。 商売人だったら神とたたえて当然です。 菅原道真は、自分の努力学問だけで政権の上まで行けた人で、それだけだったら単なるエリートであり、面白みもない。 そのまま死んだらだれも神にはしなかった。 だけど、藤原時平(しへい)というもののたくらみで失脚させられ、大宰府に左遷された。 京都を離れるときに詠んだ歌「東風ふかば匂いおこせよ梅の花主なきとて春な忘れそ」と言ったところから伝説が始まります。 梅は桑の木の傍にあった。 大宰府に道真が去ったあと、大嵐が京都にやってきて、落雷落雷で、藤原時平の屋敷に直撃し、このとき時平死んだんだったかもしれません。 さすがに道真のたたりじゃないかとうわさされ、それからは雷がなると「くわばらくわばら」というようになった。 ここは桑の原ですよ。あなたの屋敷ですよ。落ちないでください、という意味です。 九州についた道真は、山に登り、自分の気を落ち着けるためかもしれないけど天を仰ぎ、呪いの言葉をつぶやいていた。 それがいま鹿児島本線の二日市の次の駅天拝山の名にのこっています。 本物の天拝山はもっと西のほうにありますが、いまでも観光地です。 まあ大宰府でも一応一流の公務員として活躍し亡くなるわけですが、仇の時平にバチをあてた秀才の公務員を祀る神社がたてたれるわけです。 天拝山で祈っていたので天神さんです。人生は満ちていたということで天満宮です。 大秀才ですから学問の神様です。 それが京都の北と大宰府にあるわけです。 それを分祀した神社は日本全国にあります。 伝説はその後の文化にいろいろ引き継がれ、歌舞伎の中にもでてきますが、最近の落語でくすぐりに使われる小噺。 「天満宮にお詣りにいってきた」 「やったな、お賽銭いくらだした」 「五百円だ」 「しみったれるなよ、千円は出せ」 「そりゃダメだ」 「なぜ」 「天神様は紙幣(時平)は嫌いだ」
- あずき なな(@azuki-7)
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菅原道真は死後 朝廷によって左遷の詔を破棄され右大臣に復職しています つまり道真の名誉は回復されています この時点で負けたのは道真じゃなく朝廷側(藤原氏)となったのです 道真が左遷されて太宰府で無くなった事に対しては同情する人が多かった そして道真の死後に朝廷や藤原氏の周りで怪奇現象が多発 ついには左遷の詔を発した天皇も謎の死を遂げ 京都の清涼殿に落雷があり藤原氏の多くが死傷しました。 それにびびった朝廷と藤原氏は道真の左遷は間違いでした と公に発表 そして学問に秀でていた道真を 優秀な人として奉るようになったのです 彼は敗者ではありません
- technatama
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私は wikipedia の引用は滅多にしないのですが、「菅原道真」についてはそれほど間違いもないようなので利用します。 冒頭の10行は、単に道真の経歴の要点のみの説明であり、ご質問には関連しない記述です。 ご質問の主旨は、何故「学問の神様」と呼ばれるのかが腑に落ちないという点だと思われます。 そのことは、「6 死後」の項が適切な説明になるでしょう。 道真の死後、京では異変が相次いだこと ★ 政敵・藤原時平の病死 ★ 右大臣・源光が狩りの最中に溺死 ★ 醍醐帝の東宮・保明親王の薨去 ★ 次に皇太孫となった慶頼王も病死 ★ 清涼殿落雷事件 ★ 醍醐帝 崩御 これらの度重なる凶事が、連続して頻発したため、道真の祟りだとして恐れられ、朝廷は道真の名誉回復を図ろうとして、復権だけではなく、位階や職位についても生前よりも上位のものを死後に贈った。 清涼殿落雷事件から、道真の怨霊は雷神と結びつけられた。 火雷神が祀られていた京都・北野に、北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。以降、百年ほど大災害が起きるたびに、道真の祟りとして恐れられた。 こうして、「天神様」として信仰する「天神信仰」が全国に広まった。 やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従って、道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に、天神は学問の神として信仰されるようになっていった。 以上のような顛末の結果でしょう。
- maiko0333
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菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F です。
お礼
みなさん回答ありがとうございます やっぱ。 菅原道真を祀っている北野天満宮は 当初は天災の神様だったんですね。 そうだと思った。 いつから学業の神様になったのだろう?