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1970年代の高校受験について

1970年代は高校受験をするときに偏差値を20くらい下げないと受からなかったというのは本当ですか?? 会社に出入りしている業者のおじさんが言っていました その方曰く、当時はベビーブームもあり受験は激戦だったの事ですが、偏差値を20下げるって相当ですよね? 正直嘘に聞こえてしまったのもので…

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  • IDii24
  • ベストアンサー率24% (1597/6506)
回答No.3

まず偏差値という概念が取り入れられたのは記憶では1980年以降。1970年代には偏差値という考え方は無かったです。 ベビーブームの大学受験は学生運動が盛んだった1960年代。1972年に東大安田講堂での学生たちの立てこもりがあり東大受験がその年中止になってます。で、いわゆる学生運動の終焉1973年ごろから正常に戻りつつベビーブームは去ってます。そもそもこのころの大学進学率はせいぜい30%から40%程度。殆どが高校卒です。要するに競争率はそこまで厳しくありません。1976年ごろまで地方高卒者の集団就職が続き、上野駅では春には集団就職で東京へ上京してくる学生が企業の人事に先導されて列をなす姿が見られました。 学生紛争が終了し、すべてが正常に戻った1975年ごろから大学の進学率が高まります。大学はレジャー化し始め、大学へ行くのはトレンドになりつつありました。受験戦争が過激になり、塾へ通う子供が増え始めたのは1977年ころからです。ときを同じくして高校で校内暴力なども増え始めます。要するに若い人は政治に対する不満から家庭や学校に対する不満に変貌したということです。積み木崩しなどのように家庭内暴力もこのころから増えてます。 つまり受験を望めない学生は落ちこぼれ。人生を悲観し暴力に走ったということになりますね。 1978年ごろに共通一次試験が始まると国立の試験日は統一され、国立は何校も受験できなくなります。そこで国立を第一志望、私立の第二志望から第十志望まで受験するのが一般的になります。 つまり滑り止めの方が受験者は多くなります。中の下ぐらいの大学が一番競争率が多くなるのです。 又東大や京大のすべり止めとして早稲田、慶応。早稲田、慶応のすべり止めとして明治、中央。さらにそのすべり止めに駒沢、日大というように下がってくると、早稲田を第一と考える人は明治、さらにその下の日大、さらに東洋などを受験します。で、日大、東洋などは下から第一志望で受験する人も交えて40倍、50倍の競争率になるわけです。 こうなると東洋に落ちても、東大に受かるとかいう人も出てきます。要するに何がなんだかわからないのが1970年後期の受験です。

その他の回答 (3)

回答No.4

 No3さん。 1975年に私が受けた中3向けの「五ツ木の模擬テスト」の結果には偏差値が書かれていましたよ。そこは訂正しておきますね。

回答No.2

 1970年代の高校受験と言っても年齢で10違うわけです。1970年春の受験生は1954年生まれですし、1979年春の受験生は1963年生まれです。  いわゆる団塊の世代が1948年生まれ、団塊ジュニアが1970~1975年生まれくらいです。 なので1970年代の高校受験生はベビーブームなどはそれほど関係なかったです。ジンオウピラミッドをみてもらえればわかりますが、1948年生まれ(子年)と、その子どもたちの1972年生まれ(子年)の中間の1960年生まれ(子年)はずいぶん少ないです。 また高校への進学率は90%を超えているので現在とさほど変わりません。 ただ、1979年1月から共通一次試験が始まるので、(ってことは1976年入学の子どもたちから。もちろん1浪の人は1975年、2浪の人は1974年に高校生です)まだどのように受験が進むかが全く見えないものだったことも事実です。共通一次試験とは国公立大学のみの試験で、マークシート方式による9科目でしたので、国公立を目指す人はそれなりに対応する高校に行かなければいけませんでしたし、何よりも怖いのは高校受験に失敗することでした。 なので実力よりも1ランク2ランク下げるのは当然でした。 しかし、偏差値を20も下げることはなかったですね。10は下げたかもしれませんが。  現在とは全く受験体制が違うので、あまり現在とは比較できません。 たとえば大阪府では長年9学区制度(1973年度から2006年)を設け、自分の住居によって受験できる高校が決められていました。それが2007年度から2013年度の7年間だけ、4学区制度・・・すなわち学区を倍ほど広げましたが、2014年度からは府立高校の場合、どこでもうけられるようになりました。ようするに大阪一の府立高校に大阪府内のTOPが集まるという図式ですね。10年前だったら第一学区+第二学区の一部の生徒しか受験できなかったわけです。現在の大阪府ではこのTOP校に行ける実力があったとしても、二番手三番手の高校を選ぶ人も多いと思います。  この例は大阪府の場合です。1970年代のことを話をしても現在全く受け入れられませんし、高校受験というものが現在とは根底から違うのもご理解いただけるはずです。

s07031115
質問者

お礼

ご回答頂きありがとうございます 詳しい説明ありがとうございます 現在との違いに驚いています

  • trytobe
  • ベストアンサー率36% (3457/9591)
回答No.1

受験戦争が激しかったのは事実なのですが、 ・高校進学率が50%くらいで、全入時代ではなかった(今の大学くらいの進学率と家計事情に相当) ・私立高校の選択肢は、大都市以外にはなく、ほとんどが公立高校への進学であり、普通科以外の実業科(工業・商業・農業)を選ぶか、不便な立地の不人気な普通科を選ぶことはあった という、選択肢の少なさを表現するならば、第一志望の高校に入れなければ、第二の選択肢の高校はかなり目標とは違う環境になったのは事実ということで、そのような表現をされたのでしょう。 受験戦争の激化は、1978年の共通一次試験ができるまでは、各大学が個別に試験を準備して難化していたことで「四当五落」なんて睡眠時間を削らないと落ちるとまで追い詰められていた背景があるだけで、それは大学でのことであり、そのために高校時代から受験戦争をしているのは、大都市の私立高くらいのものだったのです。 各県の第一高校は、県のエリートが進学し、もともと勉強して当たり前で文武両道が普通の校風なのと対照的であり、そこまでできない人間が私立高でガリ勉に励むしかなかった時代です。

s07031115
質問者

お礼

とても詳しい説明ありがとうございました 私の高校受験の時代とは全く違うので勉強になりました 本当にありがとうございます

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