- ベストアンサー
箱根関所の「人見女」の給与。
箱根関所の人見女は役人だそうです。 役人なら給与があると思いますが、給与はいくらほどでしたか。 また、どんな身分の人が人見女になったのですか。 さらにまた、江戸幕府(藩に委託した業務を含む)には人見女の他に、女の役人はいましたか。 大奥の女性は役人ですか。 よろしくお願いします。 箱根関所 http://www.hakonesekisyo.jp/db/data_inc/inc_frame/fr_data_01_02_05.html
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 ハハハハ。 オー・大変なる、多大なる、ミステイク! 失礼いたしました。 1疋 = 10文 でした。 後は、計算してみてください。 なお、女の役人についてですが、 ★江戸時代は(特に江戸では)、儒学とか朱子学、四書五経などの影響で、 「女は家を守る者。外には出るものではない」 あるいは、 「仕事をするべきではない」 という精神から、女性の職業としては、 吉原の遊女、茶屋の仲居、芸者、女髪結、売女(職業として良いかは不明??)くらいのものでした。 ★また、役所の仕事ですが、多忙な役職もありましたが、部署によっては、男の役人でさえ、「三勤」と呼ばれるほど、10日に3日出勤すればよい・・・と言われるほど仕事がありませんでしたから、ましてや、女を役人にして仕事を与える余地はなかつたと思います。 ★従って、例えば「鬼平」で有名な「火盗改」の長谷川平蔵は「おマサ」という諜報部員を使っていましたが、これにしても、全くの「私的」であって、役人の部類には入りません。 そこへいくと、現代は全てが「男女平等」。そして、「主夫」なるものまで・・・。 良いのか悪いのか・・・。
その他の回答 (4)
- 川原 文月(@bungetsu)
- ベストアンサー率51% (834/1628)
言い忘れました。 江戸時代では、女性の役人は1人もいませんでした。
- 川原 文月(@bungetsu)
- ベストアンサー率51% (834/1628)
こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>箱根関所の人見女は役人だそうです。 ★「人見女」は、「女改者」(おんなあらため)、「改め婆」、「番女」(ばんおんな)ともよばれました。 ★そして、皆さんが仰せの通り、身分は「役人」ではなく、番所役人の妻女でしたが、基本的には、妻は家を守るもの、という考えから、主に駆り出されたのは「姑」、つまりは、役人の「嫁さん」ではなく、家の中では「お婆さん」と呼ばれる「役人の母親」連中でした。 おおよそ、4~5人が選ばれて交替で番所(関所)に務めました。 ★「給与」は無く、「役人」の身分でもありませんでした。 ★しかし、代官の管理下にありました。 ★そして、「袖元金」(そでもときん=「袖の下」)が主な収入となりました。 ★江戸から東海道を通るにあたっては、当然、箱根の関所を通らなければならなかったわけですが、ご存じのとおり「入り鉄砲に出女」と女性が通過するには厳しい監視体制でした。 ★旅をしたい女性は、例えば長屋住まいの場合には、「家主」の「許可証」の他に「番所」の「往来手形」も必要で、その内容は、「年齢」、「未婚か既婚か」、「背丈」、「体形」(細身だとか小太りだとか)、「髪型」、「顔の形」(丸顔だとか面長だとか)、「肌の色」、「ほくろの有無」(顔ばかりでなく、例えば、胸元にある、臀部にある、とか)、などの身体的特徴が記載されてありました。まあ、事細かに記載されていました。 ★女旅人が関所に入ると、まずは、許可証と往来手形を男性役人に手渡し、「内容検分」を受け、「人見女」が近寄りますが、いわゆる「袖元金」の有無、額、により態度が一変しました。 ★女旅人に「人見女」が近寄り、 「お髪長でござい~」とか「お髪切りでござい~」 と、髪型の特徴を叫びますが、この瞬間に女旅人は「袖元金」を「人見女」の袂にすべこませます。「人見女」は袂に手を入れ手探りでおおよその額を確かめます。 ★それ相応の額と判断した場合は、一応、女旅人の身体を着物の上からパンパンパンと叩くようにして、余程の物が見つからない場合は、これで「通過OK」となります。 ★特に、商家の女旅人と思われる時は、「人見女」は小声でそれでいて露骨に「百疋」(ひゃっぴき)とか「二百疋」と言って「袖元金」をもろに要求しました。 ★要求額よりも少なかったり、普通の女旅人で袖元金が少ない場合は、番所の奥の「改場」へ連れて行き、そこは男性役人の立ち入りは原則的に禁止されますが、まずは、手荷物の全てを出させて一つひとつを検めます。次に、手形に書かれた通りの人間かを調べますが、髪を解かせ、着物を脱がせ、時には、「秘部」を触ったり、股を広げさせたりと、まあ、余計のことまでしました。 ★歌川豊国の浮世絵にさえ、「人見女」が拡大鏡を持って女性の下半身を調べる様子が描かれるくらいでした。 ★天保3年(1802)に、一人の武士が江戸から和州(和歌山)五条陣屋に引っ越しをした際に書かれた「代官例要」という書き物が残っていますが、これは、箱根、新居、碓氷、福島、の各関所に出された手紙のようなものです。(一通だけ残る)。 ★これによると、 「内々にお聞きしたいのですが、改め方にはどれほどの心付けを差し上げたらよいのでしょうか?」 と、書かれてあり、根も葉もない噂ではなかったことが解ります。 さらに、この武士の日記も残されており、 「・・・箱根関所の改め方へ、妻の分として金百疋、娘の分として金二朱、下女二人の分として金一朱を渡した。今切(新居)関所でも、妻の分として金二朱、娘の分として金一朱、下女二人で銭四百文を渡した。・・・」 と、あり、「袖元金」は箱根関所だけではなかったことが窺われます。 ★金銭換算 1疋(ひき)=銭100文 1朱 = 25疋 = 2,500文 銭1文は、時代により貨幣価値が異なりますが、おおよそ、10円位。 ★よって、上記の日記を計算してみると、 箱根関所 妻 百疋 = 10,000文 = 100,000円 娘 二朱 = 50疋 = 5,000文 = 50,000円 下女二人 一朱 = 25疋 =2,500文 =25,000円 合計 175,000円 今切関所 妻 二朱 = 50疋 = 5,000文 = 50,000円 娘 一朱 = 25疋 = 2,500文 = 25,000円 下女二人 四百文 = 4,000円 合計 79,000円 総合計 254,000円 ★武家の妻女の場合は、これ位出せば「身体改」はありませんでした。 ★毎日、4~5人が交代制とはいえ、1ヶ月ではどれくらいの「袖元金」が・・・そして、年間では、果たして幾らになるやら?? 次に大奥ですが、 ★これは、基本的には「御台所さま」(みだいどころ さま)という将軍の正室付きのお女中と言うことなのですが、「側室」などもいましたので、それらの方々のお付きのお女中。また、そのお女中が多くいましたので、それらのお女中を監理、監督する役目の「お年寄り」などと呼ばれる人たちがいました。 ★これらのお女中は、確かに幕府から給金をもらっていましたが、「役人」ではなく、「御台所さま」や「側室」の方々の世話をする単なる「奉公人」でした。 ★「大奥」については、次のサイトをお読みください。 http://bungetsu.obunko.com/ 「大江戸編」をクリック → 「大奥編」をクリック。
お礼
いつも丁寧なご回答ありがとうございます。 人見女についてはよく分かりました。 1疋は、銭百文ではなく十文ではないでしょうか。 「袖元金」は、結局は男の役人連中が山分けして、人見女にはほんの少しの「日当」が支払われたのでしょう。 大奥のお女中は、多額の給与や破格の待遇を得ていても「奉公人」ということで、納得しました。 そして、幕府には女の役人は一人も居なかった、ということですね。 分かりました。
- oska2
- ベストアンサー率44% (2309/5140)
>箱根関所の人見女は役人だそうです。 役人と言っても、実質的には「役人の補助」です。 独立して、関所・小田原藩に雇われたのではありません。 まぁ、今で言うと「駐在所勤務の警官の奥さん」ですかね。 この奥さんも、直接「公務員待遇」ではありませんよね。 あくまで、旦那である警官の補助者です。 ですから、毎月何両とか年棒何両という事はありません。 まぁ、多くて「年3両以下」だと思いますね。 この3両という基準は、各藩が「1年契約で採用した、下僕」の平均年棒です。 実際は、給金よりも「検査を受ける側からの、袖の下(わいろ)」で充分儲かります。^^; 記録では、武家の嫁さんが約9500円。娘が、約5500円。下女が2000円。 これが、一人当たりの人見女への袖の下です。 身体をあれやこれやと調べられるよりも、カネを払った方が良いですよね。 >どんな身分の人が人見女になったのですか。 関所に勤める旦那の嫁さん若しくは母親です。 当初は、男性の役人が調べていましたが「流石に、幕府も遠慮」した様です。 そこで、てっとり早く「役人の嫁・母親」が担当する事になったのです。 >江戸幕府(藩に委託した業務を含む)には人見女の他に、女の役人はいましたか。 これが、非常に難しいのです。 表では、武士社会ですから女性の役人は存在しません。 奥では、大奥が有名ですよね。 が、大奥は「将軍の私的な組織」に過ぎません。 この大奥を「幕府の組織」と見做すと・・・。 大奥取締役は、年棒数億円を幕府から貰っていたので女の役人と見做す事が出来るかも?
お礼
ご回答ありがとうございます。 「人見女」については、「駐在所勤務の警官の奥さん」のような存在ということで、よく分かりました。 大奥が「将軍の私的な組織」だとすれば、大奥の女性たちは使用人であって、決して「役人」ではない、と理解すればよいわけですね。 実際、役人ではないでしょうね。 以下、屁理屈を並べて歴史を楽しんでいます。 ときには、老中が「将軍の私的な組織」である大奥になんだかんだと注文をつけたりしているので、見方によっては、老中が将軍家の内輪に口出ししたことになります。 これが許されているのですね。 また、大奥の実力者が幕政に口出ししたりすることもあれば、老中が大奥にお伺いを立てたりしています。 そもそも老中以下の役人も徳川家の領地管理を任された「使用人」と思えば、大奥の女性たちも同じような気がします。 もちろん、大奥の女性たちは「役人」ではないと思っていますが、自問自答しています。
- trytobe
- ベストアンサー率36% (3457/9591)
人見女は、役人の妻とか母親が充てられていたそうで。給料は旦那の役人につければ済みますし。 女性の身体を確認するために、女性刑務官が必要なのと同じですが、女性刑務官が雇われるのと、刑務官の妻や母を働かせるのは話が違いますので。 大奥は、単純に将軍の身の回りのお手伝いですから、役職ではなく単なる「住み込みバイトの下請け団体」として、城内に囲われていただけです。将軍以外の男が入れなかったところに役人がいても困りますし。
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 なるほど、役人の妻や母親が人見女になっていたのですね。 大奥には、御年寄や御右筆他、いろんな職種・役職があって、幕府から給与を貰っていたので、役人かな、と思っていました。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 なるほど! そうですね。 「儒学とか朱子学、四書五経などの影響」もあれば、男の役人でさえ「三勤」という勤務でしたからね。 女性の出る幕はなかったということ、そこまで思いつきませんでした。