わたしたちはどこまで知り得るか?

このQ&Aのポイント
  • ソースとして信頼できるものは何か?
  • 情報の真偽を判断する方法は?
  • 真実とは人それぞれの思い込みなのか?
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わたしたちはどこまで知り得るか?

【情報】 例えば、今日は駅前のスーパーで肉の安売りをしている。というようなことは、新聞の折り込みチラシが教えてくれます。でもひょっとすると、いつもは行かない線路を渡ったところの肉屋の方が安いかもしれない。 みなさんが、「あること」についての「情報」を得ようとするとき、そのソースとして、一番活用しているものはなんですか?或いは一番信頼度の高いと思われるソースは? スポーツの勝敗等は何を見てもA紙とBテレビで違う、ということはありません。 けれども例えば、「憲法」の問題、「日米安保」の問題、「原発の安全性」についての問題、 「北朝鮮」の問題など、「テレビを見たら、キャスターの誰それがこう云っていた」「新聞にはこう書いてあった」で済ませられるでしょうか? テレビ+新聞なら充分でしょうか? 例えば、今年はフルシチョフによる「スターリン批判」60年目にあたりますが、プーチン政権下で、スターリンの再評価の機運が高まり、また政府による情報の統制(国家機密と個人情報に関する法律の壁)によって、スターリンに批判的な過去の記事には、専門家でさえアクセスが困難だと言われています。 わたしは大きなテーマの場合にはできる限り、「書籍」を当てにしていますが、その本が何故正しいと言えるのか?それを批判・判断する材料は何処にあるのか? また時折耳にする「わたしたちは嘘の歴史を教えられてきた」と。ではそれが「嘘」であったという証明は何がするのでしょう?その逆に「嘘ではない」という場合の論拠は何処に求められるのでしょうか? ジャーナリストでも学者でもないわたしたちには、情報の真偽を精査する時間も、ノウハウもありません。また学者やジャーナリストも各々の偏りから免れることはできない。 このように考えてくると「あらゆる正しい意見は間違っている」という結論になりそうです。 わたしたちはどこまで「正しい事実」に近づけるのでしょう? 或いはそもそも「まんべんなく正しいこと」なんてなくて、それぞれが「正しいと思ったこと」が真実なのでしょうか?  だとすれば、そもそも「原発反対」対「賛成」、或いは「憲法改正賛成」対「反対」等 という議論が成立し得るのでしょうか? だから「多数決」=「民主主義なんだ」・・・ですか?

noname#226970
noname#226970

質問者が選んだベストアンサー

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  • oya_zico
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回答No.12

回答No.5です。お礼ありがとうございます。 >ニーチェの言うように「事実というものは存在しない、ただそれについての「解釈」があるだけだ」という処なのかもしれません。 ニーチェさんのことは良く分かりませんが、先日、同じ色の服なのに、見る人によって違う色に見える服がネットで紹介されていました。 同じドレスを見ているのに、妻は、ブルー、私は、ゴールドに見えるのです。 ということは、妻の解釈ではブルー、私の解釈ではゴールドだったということでしょうか? もし、妻から、ドレスの色が青という解釈を知らされていなければ、私は一生そのドレスの色がゴールドだと思っていたことでしょう。 >モンテーニュの、ク・セ・ジュ Que sais-je? (わたしは何を知っているか?) >モンテーニュは「物事を解釈するよりも、解釈に解釈を下すことの方が問題なのである」とはどういう意味か? モンテーニュさんについても良くは分かりませんが、下種な噂って尾ひれがついて雪だるま式に増殖し拡散されて行きますよね。 松本サリン事件で、犯人だと疑われた方がいらっしゃいましたが、そのときは私も、あの方が犯人に違いないと、何も知らないくせにそう思い込んでいましたから(涙) grassrootsさんであれば、書籍を熟読しても、御自分で批判することが出来るので事実を導き出すことが可能かもしれませんが、 私の場合、その論理的に見える書籍を読んでしまうと、書籍の解釈に溺れ?呑み込まれ?その権威にひれ伏してしまうことでしょう。疑問すら浮かんでこないと思う。 ふ~う、もし、私の親が新興宗教に嵌っていて、その教典を私に叩き込んでいたとしたら、、、 洗脳されて、抜け出せないに違いない。怖い怖い(苦笑) だから?と言うわけでは無いのですが、私は、自分の中に取り込む(深く追究する)前に、多くの解釈(可能性、選択肢)が欲しいのです。 玉石混合でも信用出来なくても、選択肢が広がればOKなのです。疑いの芽が欲しいのです。 あ~、色々な知識が欲しい! 最近、インカ帝国の未発見都市の位置を、星の位置から導き出した少年が居ましたが、多岐にわたる知識があれば(少しずつかもしれませんが)事実に近付けることでしょう。 これで終わりとします。長くなり申し訳ございませんでした。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 再びありがとうございます。 >先日、同じ色の服なのに、見る人によって違う色に見える服がネットで紹介されていました。 同じドレスを見ているのに、妻は、ブルー、私は、ゴールドに見えるのです。 ということは、妻の解釈ではブルー、私の解釈ではゴールドだったということでしょうか? へえ。そんなドレスがあるんですか。勉強になります(笑) >もし、妻から、ドレスの色が青という解釈を知らされていなければ、私は一生そのドレスの色がゴールドだと思っていたことでしょう。 でもoya_zicoさんにとっては、それは明らかにゴールドですよね。 思い出したのは19世紀の哲学者フォイエルバッハの言葉で、『太陽系の惑星の数だけ異なる太陽がある』と。 つまり地球と太陽の関係と、天王星と太陽の関係とは全く別のもので、火星には火星の太陽、海王星には海王星の太陽が存在しているということです。 完全な相対主義です。 「実体とは、関係性によって規定される」ということですね。 >下種な噂って尾ひれがついて雪だるま式に増殖し拡散されて行きますよね。 これはわたしの偏見かもしれませんが、インターネットって、そういう操作が簡単にできますよね。この質問の趣旨も、「どこまでそこから自由になれるか?」という疑問も含めました。つまり情報の二重三重の検証ですが、検証に使う情報の正確さは何が保証するのか? >松本サリン事件で、犯人だと疑われた方がいらっしゃいましたが、そのときは私も、あの方が犯人に違いないと、何も知らないくせにそう思い込んでいましたから(涙) >grassrootsさんであれば、書籍を熟読しても、御自分で批判することが出来るので事実を導き出すことが可能かもしれませんが、 私の場合、その論理的に見える書籍を読んでしまうと、書籍の解釈に溺れ?呑み込まれ?その権威にひれ伏してしまうことでしょう。疑問すら浮かんでこないと思う。 ですから、わたしは基本的に「先ずすべてを疑え!」というところから始めるようにしています。疑うこと、「これが正しい」と迂闊に言わないこと。 なんて、偽善者チック?(笑) >ふ~う、もし、私の親が新興宗教に嵌っていて、その教典を私に叩き込んでいたとしたら、、、 洗脳されて、抜け出せないに違いない。怖い怖い(苦笑) 最近思うのは、結局教育とはある種の洗脳ではないか?ということです。 「改憲」も洗脳「護憲」もまた洗脳・・・ でもこんなことを考えているとエッシャーの絵のように無限循環に陥りますので、或るポイントで、立ち止まることが必要だと思っています。 >だから?と言うわけでは無いのですが、私は、自分の中に取り込む(深く追究する)前に、多くの解釈(可能性、選択肢)が欲しいのです。 玉石混合でも信用出来なくても、選択肢が広がればOKなのです。疑いの芽が欲しいのです。 まったく同感です。 >あ~、色々な知識が欲しい! 最近、インカ帝国の未発見都市の位置を、星の位置から導き出した少年が居ましたが、多岐にわたる知識があれば(少しずつかもしれませんが)事実に近付けることでしょう。 これも同感。知識もそうですがもっと明晰な頭脳が欲しいですね(笑) またなにかありましたらお気軽に書き込んでください。

その他の回答 (15)

  • catpow
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回答No.16

>>本来「善・悪」を峻別するもので、朱子学の影響を蒙っているから「嘘つき」であるとは飛躍し過ぎだと思います。 孔子様の教えというか、論語には、「父は子のために隠し、子は父のために隠す」という教えがあります。 儒教に対しての認識として、まったく飛躍しているとは思いません。 >>わたし個人の感想としては、貧しさから畑から野菜を盗んだ父親に肩入れしたくなります。 もちろんそのように考える方もいるから、嘘つきの教えに賛同する方がいても、私は不思議ではありません。 個人レベルの生活においては、それが「善」であり、「善いこと」といえるかもしれません。 大岡裁きのようなケースもあってもいいという気はします。 でも、個人を越えた組織とか国家レベルになれば、違ってきます。 それを拡大解釈したとき、「公」の利益に反することになります。 たとえば、大東亜戦争においての大きな敗因は、ハンモックナンバーを重視しすぎた為だといわれています。 これは、兵学校の卒業席次を重視し、先輩・後輩の規律を重んじて、いくら優秀な人がいても、先輩を追い越す人事ができなかったため、出来の悪い司令官が指揮し続けたことが、ミッドウエー海戦での大敗北に通じた面もあったといわれています。 これは、上下関係という「忠」を重んじて、「国家の利益」という「公」への利益を毀損したといえるのではないでしょうか? >>オウムの事件にしても、もっともっと麻原彰晃の陳述を得るべきでした。 なぜそうなったか?という、事件の背景を深く探ることなくして、「次の同様の犯罪」に備えることは困難です。 あの強制捜査のきっかけをつくったのは、幸福の科学の会員でした。 そして、オウム真理教の危険性は、宗教家としての大川隆法総裁は、早くから気づかれていました。 横浜で、坂本弁護士一家が誘拐殺害された事件においても、早くから総裁は、「すでに殺されて埋められている」と透視され、そのことを警察関係者(かな?)にも知らせていたそうですが、無視されたとか。 地下鉄サリン事件が発生したとき、私は彼らの危険性を知っていましたので、会社で「あれは、オウム真理教の犯行だよ!」と断言したのですが、会社の人たちは誰も私の言うことを信じてくれませんでしたね。 私は、幸福の科学で所属する幸福の科学の教えだけでなく、その後は、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、エホバの証人、仏教、モルモン教、神道、白光真宏会、創価学会、統一協会、天理教、大本教など、多くの宗教の思想を学びました。そして、オウム事件の背景なども、大川総裁の御法話を通じて知りました。 ですので、多くの方が、幸福の科学で学ばれて、「正しい宗教とはどんなものか?」ということを知れば、「次の同様の犯罪」を防ぐことが可能になると信じています。 また、原発に関しては、私は、40年近く前に、「原発は危険なのでは?」と思って、反原発運動に参加したものです。 その当時、定価5万円以上したと思う原子力発電所の構造を教えてくれる専門書などを図書館で借りて勉強しました。 3.11の大震災があって、ニュースで「ECCSが動作しない」という報道が流れたとき、その知識から、私は即座に「原子炉で水素爆発が起こる!!」と予想でき、ゾッとすると同時に家族にこのことを伝えました。 その、数時間か10数時間後、原子炉格納容器が爆発してしまいました。 いずれの件も「知は力」ということを感じさせられるました。 なお、現時点での原発に対するスタンスは、「20年後、30年後には何か問題があるかもしれない毒が入っている食品がある。でも、他に食べるものがなく、もうすぐ餓死するかもしれない。それなら今を生きるためには、毒入りだとしても喰らうしかない」という判断をしています。 >>これが例えば井沢元彦氏あたりの著作からの影響であれば、彼は明らかに「予断の人」であり、 私は井沢元彦氏の本は読もうと思いながらも、未だ読めていません。ただ、彼の本を多く読んだ友人の話を聞くと「予断の人」とは思えません。 grassrootsこそ、井沢氏に対して「予断の人」になっているのではないですか? なお、私は、以前からモデルガンなど軍事系のことに興味があり、その延長として「地政学」とか、J.C.ワイリーの「戦略論の原点」などを読んでいます。 また、友人に歴史好きな人がいたり、幸福の科学で近代史も含めて、歴史を学ぶことが多いのです。 大東亜戦争後、中国が近隣諸国や自国民に対して、どんな非道いことをやってきたか、現在、南シナ海で中国軍がなにをやっているか。 さらに、オバマ大統領が広島市を訪れる予定であること。 この延長線には、日本に対する米国の「核の傘」が無くなることが予想されます。 通常兵器のみの戦いであれば、日本は現時点では中国に負けることはありません。 でも、米国の「核の傘」が無くなったとき、日本は中国の属国になるでしょう。 そんな「最悪の事態」を想定して対処するのが、国家としての「善」であると私は信じていますし、その価値観でいろんな善悪を判断しています。

回答No.15

事実は時を経ると、「物語」になってしまい、それはつまり一つの視点・主観を持って語られるので、どうしても偏った情報になってしまうんでしょうね。また歴史は勝者のものですから、時の権力者によって歪められてしまいます。 また、歴史を勉強するにしても、意図を持って調べればいくらでも自分の考えに都合の良い情報が出てきてしまいますし、色んな勢力によってバイアスのかけられた情報が溢れています。 「正しい事実」に一番近いものは、一次資料であり、当事者の言質であり、客観的な統計・数字の記録だと思います。一次資料や当事者の言質を私たちシロウトが調査するわけにもいきませんが、客観的統計や数字の記録から事実に近づくことはできるのかもしれません。それも私には難しいので、やはり専門家の学術的研究にまかせるしかないのですが。 人はとにかく「物語」が好きで、偶然起こったこともすべて必然だったようにしてしまいます。すべての事が因果関係で繋がると納得できるし、わかりやすいし、ついつい歴史を物語として考えてしまいます。 なので、事実に少しでも近づくためには、「自分が物語に騙されていないか」という事に注意しなければいけないと思います。物語としての歴史観もあっていいとは思いますが、あくまでも物語であるという認識を忘れないようにしなければならないと思います。

noname#226970
質問者

お礼

こんばんは。 >事実は時を経ると、「物語」になってしまい、それはつまり一つの視点・主観を持って語られるので、どうしても偏った情報になってしまうんでしょうね。また歴史は勝者のものですから、時の権力者によって歪められてしまいます。 仰るとおりですね。「歪められる」だけではなく、隠蔽されてしまうことがほとんどですね。 新聞記事の受け売りですが、ロシアでは、専門家でもなかなか一次的な情報に接することが難しくなっていて、学校の教師などでも、スターリンが何をしたのか?「血の粛清」のことなど知らずに生徒に教えているということらしいですね。そもそも「教科書」にそのような記述がないそうです。 権力者が自国の「負の歴史」を大っぴらに認めたりそれを積極的に国民に教えてゆくなんてことは何処の国でもちょっと考えにくいことなので、結局は国民一人一人が国の言い分に惑わされずに、考えて学んでゆくしかないのでしょう。 >人はとにかく「物語」が好きで、偶然起こったこともすべて必然だったようにしてしまいます。すべての事が因果関係で繋がると納得できるし、わかりやすいし、ついつい歴史を物語として考えてしまいます。 けれども、歴史は物語の側面ももつのでしょう。「反・物語」が歴史だとは言い切れないと思います。ただ、因果関係をあまりに単純化したり、短絡したりしないようにすべきでしょう。例えば、徳川家康の天下統一は、「この国に平和をもたらすため」ではなく、あくまでも「徳川家」のためであって、その副産物として、泰平の世の中があったとしても、後の世の結果から遡行し、実時間での(その当時の)「前提」を措定するのは無理があるような気がします。 >事実に少しでも近づくためには、「自分が物語に騙されていないか」という事に注意しなければいけないと思います。物語としての歴史観もあっていいとは思いますが、あくまでも物語であるという認識を忘れないようにしなければならないと思います。 これもその通りですね。なかなかその自覚を持つことは容易ではないかもしれませんけれど。 参考になりました。ご意見をありがとうございました。

  • cwdecoder
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回答No.14

複数のソースがあり、自分で妥当だと思える情報です。

noname#226970
質問者

お礼

こんばんは。 >複数のソースがあり、自分で妥当だと思える情報です。 仰る通りですが、何故それを「妥当」としたか?という疑問があるのです。 自分を信じられるか?ということでしょうか。 ご意見をありがとうございました。

  • heyboy
  • ベストアンサー率21% (1852/8729)
回答No.13

うまくは言えませんが どんな情報でも その書いた人の価値が どうしても入るので 最終的に言えるのは 「本当の事はそこに行かなければ わからない」です。 それと多数決は 何かしらの事に対して 反対は必ずあるから その人の口を閉ざす意味で 誰にでもわかるような感じ で決めているだけに過ぎません。 ソースなんか 他の人と同じように 人から聞くとか 新聞やニュースを見るぐらいです あとはもう憶測だけですが… 所詮、人は真理を知っても 自分に関わるかどうかだけで 判断しますから 全てが正しいとは限りませんよ。

  • catpow
  • ベストアンサー率24% (620/2527)
回答No.11

No.3です。 >>これはどこから導き出された命題ですか? (わたしは「それは違う」といっているのではなく、この説の「論拠」を知りたいのです。 例えばあなたが、中国と韓国にそれぞれ3年暮らしていた。というのであれば、それなりの説得力はありますが。 何かの書籍で読んだ記憶がありますが、ちょっと書名が思い出せません。 ただ、おおざっぱにいえば、中国および、その中国に長期間、属国支配されていた朝鮮半島は、思想的には、儒教と、そこから生まれた朱子学に支配されてきたそうです。 その朱子学は、「儒教こそは、人間全体に対して、絶対に正しい教えである」と主張します。これは、キリスト教と同様な思考回路ですね。 とはいえ、現実世界では、「忠と公の対立」という問題が出てきたそうです。 たとえ話では、貧しさゆえに親のAさんが隣の畑から作物を盗んだ。その事実を知ったAさんの子供のBが、役人に訴え出て、親が捕まった。 子供Bの行動は正しいか?間違っているか?という問題です。 「公」の視点・法律とか社会全体からみると、盗みは悪いものなので、子供は正しい行為をしたという判断になります。 「忠」という視点では、子供は主人である親を裏切ったことになります。忠義に反する行為です。 そして朱子学では、「忠」を優先するそうです。子供は「悪いことをした」「経済的には、当然として、さらに道徳的・倫理的にも子供は間違っている」という判断になるそうです。 これは、小さな田舎のひとつの家庭の話のように思えますけど、この「家族レベル」に対する考え方が、一族全体、企業全体、さらには国家全体までも適用されていったそうです。 朱子学からすれば、子供は、役人に問い詰められても「お父さんは、畑から盗みをしていない!」と嘘をつくのが倫理的・道徳的に正しいことになるわけですが、この論理が国家レベルにまで適用されているってことです。 今は、時間がないので、残りの件は、改めて夜以降に書き込みします。

noname#226970
質問者

お礼

こんばんは。 儒教及びそこから派生した朱子学は「宗教」とは呼べないにしても、何が善で何が悪かという、「教義」はあるでしょう。 わたしは宗教には詳しくはありませんが、それでも、「オシエ」というものは本来「善・悪」を峻別するもので、朱子学の影響を蒙っているから「嘘つき」であるとは飛躍し過ぎだと思います。 わたし個人の感想としては、貧しさから畑から野菜を盗んだ父親に肩入れしたくなります。 >「公」の視点・法律とか社会全体からみると、盗みは悪いものなので、子供は正しい行為をしたという判断になります。 公の視点からしても、例えば俗にいう「大岡裁き」と言うように、個別の事情を考えて、「何をしたか」だけではなく「何故そのような行為に及んだのか?」をも、考慮しなければならないと思います。 つまり「それは違法行為であるから罰せられるべき悪である」という視点は、「公」の利益にも反しているはずです。 オウムの事件にしても、もっともっと麻原彰晃の陳述を得るべきでした。 なぜそうなったか?という、事件の背景を深く探ることなくして、「次の同様の犯罪」に備えることは困難です。 話がそれましたが、仰っているのは、「忠」ということに対する朱子学の立場ですね。(朱子学の曲解のようにも見えますけれど) これが例えば井沢元彦氏あたりの著作からの影響であれば、彼は明らかに「予断の人」であり、朱子学を判断するには、京大学派の島田虔次 (けんじ)氏あたりの本を比較されてからでも遅くはないと思います。 ご意見をありがとうございます。

noname#236410
noname#236410
回答No.10

国際間の話や歴史の真実などは難しすぎて私の額からビームが出てきそうなので、 お茶の間レベルの真実に引き下げて回答します。 私は、人ってものは、見たいものを見、思いたいように思うものだと思っています。 それは私自身も例外ではありません。 まるで未知のことについて調べ物をする際には、私はまずネットで検索してみて、 そこからいろんな可能性や関係があるかもしれない言葉というのを探します。 ネット上でひとしきり調べてみて、「こうかな?」という推測を立てると、 次に書籍や過去の新聞、ナントカ事典などから推測を裏付ける文言や事実を探し、 「ok,わかった」ということになります。 それは大体において、調べ物をするくらいのことなら普通のやり方だと思います。 真実を知るという作業は、推測をし、その裏を取っていくことなんですよね。 調べ物をしていると、途中からは「こうだ」という確信をもって探しますが、 あらすじを作ることに夢中になって、それを裏づけする事実だけを追ってしまって 小さな事実や可能性、少数派を見落とすことはありそうな気がします。 そういうのが「人ってものは、見たいものを見、思いたいように思うもの」 ということだと思うんですよね。 何が正しいかって、根拠は、自分の確信なのかなあと思います。 人は感性のいきものですが、正しいことも感性で決めている面があるのかなと思います。 人も真実もあやふやなもの、人は真実を実は知りたがっていない、 というのが私の考えですが、質問者さまのお好みに合ってなかったらすみませんー。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >私は、人ってものは、見たいものを見、思いたいように思うものだと思っています。 それは私自身も例外ではありません。 それはその通りでしょう。 芥川龍之介は「歯が痛いから歯医者の看板が目に入るのだ」と云っています。 「なんだ目医者ばかりではないか」ではありません。 またアナイス・ニンも、「ひとは世界をあるがままに見ないで、自分のあるがままに見る」と云っていますが、これはどうしようもない真実だと思います。 >あらすじを作ることに夢中になって、それを裏づけする事実だけを追ってしまって 小さな事実や可能性、少数派を見落とすことはありそうな気がします。 そういうのが「人ってものは、見たいものを見、思いたいように思うもの」 ということだと思うんですよね。 そうですね。つまり誰の中にもある程度の「予断」(予めの判断)があるのでしょう。で、なんとなくそれに都合の悪い事実は排除して、事実は事実でも、一方の事実のみで物語を仮構してゆく。 >何が正しいかって、根拠は、自分の確信なのかなあと思います。 そうですね。わたしにもわたしの固有の偏りがあり、好みがあり、傾斜があって、それから自由にはなれないし、またそこから自由になったら人間ていったいなんだ、という気もしています。 個人的には、少数派、より弱いもの、より低いところ、より声の小さなもの、圧倒されているものに寄り添って考えていきたいと思っています。 とても参考になりました。 ご意見どうもありがとうございます。

回答No.9

不確定性原理において、存在の本質は確率的であり、 ある性質を確定しようとすると、属性としてそれに 存在的意味を与える他の性質が、無限不確定(カオス) に発散する事が知られている。 つまり、物事を本質的に確定せずに、階層的な現象を 表面的に(いい加減に)捉える事で、有限な値を具備 した存在は生じているのだ。 またそうした対象(存在)においてだけでなく、それを 受け取る側(認識)においても、不完全性定理において、 論理的な構成(公理系)は、不完全である(その系内で 証明できない、ユークリッド幾何の平行線定理のような) 場合にのみ、無矛盾(Aと非Aを同時に導かない)であ る事が明らかとなっている。 一般の生活における“実感”である、「自分の外に独立 した先入的&確定的な存在があり、二次的に意識を生じ ている」という素朴唯物論は、否定されているのだ。 無=不確定性無限=カオスの潜在的認識可能性(感受表 面の量子相互作用=現在(光速)=仮説的時空への無の射影) からの、自我仮説(記憶=過去(超光速)=時間の流れ)と 空間仮説(予測=未来(光速下)=空間の広がり)の相補分化 として、この世界は得られているのだ。 無とは分からない事が、“有”なのだ(物理とは、それを 無に還元する過程)。 「世界のカオス」は、自己の内なる不完全の射影であり、 責める前に努力が先だ。 その不完全ゆえに、可能性=希望と、循環=愛は可能に なっているのだ。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは、psytexさん。 いつもながら有意義でありながら、理系にはめっぽう弱いわたしにはなかなか理解が及びません。(恥) ところで、この無矛盾性=(Aと非Aを同時に導かない)は、 Aが非Aを含み持つということはないのですか? Aという情報があって、それは同時に非・Aという命題(情報、価値)を含み持っているから意見の対立というものが生じるのではないでしょうか。 物理学は難しそうですので、多少の論理学の基礎くらいは身に着けたいところです。 いつもご意見をありがとうございます。

noname#218692
noname#218692
回答No.8

「わたしたちは嘘の歴史を教えられてきた」←これだけをピックアップすれば 人が人を傷つける事は良くない事・・って言う意識があるのに 未だに殺人のニュースが流れます・・・ 人間は悪い事をすれば 後悔となって した事を悔やむ性質がある・・ けれど その後悔の念が治まると 又 悪行をする・・ 段々と 後悔の念も薄れて来て 何が善で 何が悪かも解からなくなってくる・・ あなたの 過去問も これと同じなのだが あなたには理解出来て無い・・ そういう事です・・

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >人間は悪い事をすれば 後悔となって した事を悔やむ性質がある・・ ということですが、過去にも問うたかもしれませんが、では「悪いこと」とはなにか?あることを「悪」と決めるにはその判断基準があるはずですが、その判断自体の正当性は何処にあるのでしょう?「社会性」?「違法性」?「良心」?「他者の眼差し」? そのような問いでもありました。 >あなたには理解出来て無い・・ なにが理解できていないのか教えてください、一緒に考えてみたいと思います。 ご意見をありがとうございます。

  • 2012tth
  • ベストアンサー率20% (1889/9435)
回答No.7

50代♂ > そのソースとして、一番活用しているものはなんですか? 最近、テレビ+新聞はほぼ見ません。 もっぱら、ネットで複数の情報を得ています。 > それを批判・判断する材料は何処にあるのか? 私は、元々自分自身の判断しか?信用しないです。 > 論拠は何処に求められるのでしょうか? 私は、他人の話は鵜呑みにしない事にしています。 > 偏りから免れることはできない。 他人の意見は、参考程度止め自分の考えが優先です。 > あらゆる正しい意見は間違っている 断固たる判断基準を自分の中に内紛していれば何も恐れる事は 有りません。 > わたしたちはどこまで「正しい事実」に近づけるのでしょう? 所詮は赤の他人の勝手な思いなので?近付く必要性は微塵も無い と思います。 > それぞれが「正しいと思ったこと」が真実なのでしょうか?  少なくとも私はそのように思います。 > という議論が成立し得るのでしょうか? むしろ、それが民主主義の原点…人それぞれ意見や好みが異なる。 > だから「多数決」=「民主主義なんだ」・・・ですか? 他人に干渉を受けない事が民主主義です。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 2012tthさんの一連のお答えでは、自分の意見は自分の意見であって、他人の意見は参考程度で、どのような情報であっても鵜呑みにしないで、自分の正しいと思ったことを信ずる。 という感じかと思います。 これはまったく仰る通りですが、わたしが例えば新聞でも雑誌でもネット上でも、「これは違うんじゃないか?」という気持ちを抱いたときに、その違和感は何処から来たのか?何故そう感じるのか?また仮にその意見に「反論」を試みる場合に、こちらの拠り所とする論拠は何処に求めるのか? というようなことを考えます。 基本的にはわたしも「人は人」「自分は自分」派です。 けれどもある事柄について、自分のスタンスを再確認しようとしたときに、 自分の知識の乏しさを痛感すると同時に、では人は有用な情報をどこから得ているのだろうか?という疑問が生じました。 「無知からの脱却」はどのように、またどこまで可能か?ということを考えてみました。 ご意見をありがとうございます。

  • sqqrcxvx
  • ベストアンサー率9% (84/911)
回答No.6

grさんこんばんは。 まとまった回答文ではなく、質問文の個々にコメントする形で、失礼をします。 >例えば、今日は駅前のスーパーで肉の安売りをしている。というようなことは、新聞の折り込みチラシが教えてくれます。でもひょっとすると、いつもは行かない線路を渡ったところの肉屋の方が安いかもしれない。 ここがけっこう笑えました。 哲学を語り芸術を論ずるgrさんが、新聞折り込みチラシを見て、あゝ今日はナスとキュウリが安い、と自転車に飛び乗り漕いで行く・・ 一つの比喩である事は承知していますが、おもしろい・オモシロイ。 >みなさんが、「あること」についての「情報」を得ようとするとき、そのソースとして、一番活用しているものはなんですか?或いは一番信頼度の高いと思われるソースは? 最近ネットの比重が大きくなりましたね、良いことかどうか? でもネットのニュースと言えど元は通信社や新聞社のネタでしょ。 >スポーツの勝敗等は何を見てもA紙とBテレビで違う、ということはありません。 報知と巨人軍などはグループ会社同士ですから、なあなあですね。贔屓がミエミエ。でも仮に負けが込んでくると突然報知の方がキレる? >「北朝鮮」の問題など、「テレビを見たら、キャスターの誰それがこう云っていた」「新聞にはこう書いてあった」で済ませられるでしょうか? 済ませられません。 2月に処刑された筈の軍高官が生きていた。先般の大会で実証されたわけで・・摩訶不思議。 >テレビ+新聞なら充分でしょうか? 不十分すぎますね。でも何で補充するのか?はっきりとは分かりませんが・・ 前々回に、私が「東京都知事はもう少し上手く嘘を言って欲しい」と回答したところ、grさんが「無理です」と即答された。その慧眼!(笑) これが当たって来ています。もううそがザクザク出て来て。全く言っておられた通りです。 >わたしは大きなテーマの場合にはできる限り、「書籍」を当てにしていますが 私も願望としては同様ですが、長編を読む根気が・・段々 その根気を維持しておられるのなら皮肉ではなく大したものです。 >このように考えてくると「あらゆる正しい意見は間違っている」という結論になりそうです デカルト的ですね。 >或いはそもそも「まんべんなく正しいこと」なんてなくて、それぞれが「正しいと思ったこと」が真実なのでしょうか? ↑よく考えてみましたが、結論は出ません。 でも人の人生は誰しもさほど長くないので、正しいと思った事が真実(つまり後者)だと思っておいた方がよろしいのではないでしょうか。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは、sqqrcxvxさん。 >>例えば、今日は駅前のスーパーで肉の安売りをしている。というようなことは、新聞の折り込みチラシが教えてくれます。でもひょっとすると、いつもは行かない線路を渡ったところの肉屋の方が安いかもしれない。 >ここがけっこう笑えました。 哲学を語り芸術を論ずるgrさんが、新聞折り込みチラシを見て、あゝ今日はナスとキュウリが安い、と自転車に飛び乗り漕いで行く・・ 一つの比喩である事は承知していますが、おもしろい・オモシロイ。 ははは、これはどうも(笑) まぁこれは、仰る通り、新聞(メディア)に載っている情報だけがすべてじゃないかも?という気持ちです。 >最近ネットの比重が大きくなりましたね、良いことかどうか? でもネットのニュースと言えど元は通信社や新聞社のネタでしょ。 うーん。インターネットでは例えばここでsqさんやみなさんと、ひとつのテーマを掘り下げていくのはとても有意義な事ですが、それとは別に、情報のソースとしては、多分に「伝言ゲーム」的な、或いは「噂の広まり」に近い気がしています。1次的な情報に様々な尾ひれがついてくるのでは?という疑問です。 >>「北朝鮮」の問題など、「テレビを見たら、キャスターの誰それがこう云っていた」「新聞にはこう書いてあった」で済ませられるでしょうか? >済ませられません。 2月に処刑された筈の軍高官が生きていた。先般の大会で実証されたわけで・・摩訶不思議。 つまり、ポジティブな情報であれ、ネガティブなものであれ、その一過性の情報を覆す新しい情報は常に生起し得るということですね。 都知事の問題は、あそこまで自分の正当性を言い張っておきながら、何故掌を返したようになるのか? >>わたしは大きなテーマの場合にはできる限り、「書籍」を当てにしていますが >私も願望としては同様ですが、長編を読む根気が・・段々 その根気を維持しておられるのなら皮肉ではなく大したものです。 いえいえ、出来る範囲で、という感じですし、長いものや難解なものは避けています(苦笑) >>或いはそもそも「まんべんなく正しいこと」なんてなくて、それぞれが「正しいと思ったこと」が真実なのでしょうか? >↑よく考えてみましたが、結論は出ません。 でも人の人生は誰しもさほど長くないので、正しいと思った事が真実(つまり後者)だと思っておいた方がよろしいのではないでしょうか。 勿論結論はでないでしょう。わたしの質問の意図は「いっしょに考えてみましょう」といったものですから。無理やり結論を引っ張り出す必要も感じていません。 仰る通り、結局は自分に納得のゆく「間違い」を主体的に選択するということくらいしかできそうにありません。 いつもご意見をありがとうございます。

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