人は孤独でいられるでしょうか?

このQ&Aのポイント
  • 孤独に耐えることはできるでしょうか。
  • 本当の孤独とはどのようなものなのでしょうか?
  • 孤独に耐えられないと、人は自己を持つことはできないでしょうか?
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孤独

“孤独に耐えることができなければ、自己を持して生きることはできない。” というようなことばに接した記憶があります。 質問: 1. 人は孤独でいられるでしょうか? 孤独に耐えることはできるでしょうか。 2. 本当なる孤独ってどんなものなのでしょう? 3. 孤独に耐えられないと,人は自己を持することはできないでしょうか? (人は弱いものです。なるが故に自己を持せない,私はそれも是認しますが。) *ちょいと敷衍(1);確かに繁華街等での孤独(The Lonely Crowd)ってある意味で、他者の無視ですよね。 *ちょいと敷衍(2);独身で独り住まいの人も多いし、いわゆる孤立した孤老という人も多い。 たいへん寂しいでしょう。

質問者が選んだベストアンサー

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  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.5

人はいつの時代でも、孤独であったわけではありません。 だから孤独は人間が本来有するものではなく、偶有的なものです。 孤独というものが歴史上登場したのは、西欧では19世紀、日本では明治以降です。 それ以前は日本は「村落共同体」の時代であり、その時代では、個人がいないし、自我が存在しないし、地縁・血縁でみんな結ばれていたから、誰も孤独なんか感じる人はいませんでした。 明治になって、その「村落共同体」が崩壊し、個人を中心とする「市民社会」が登場し、しかも戦後、家族共同体が「家制度」が民法で廃止された結果、みんなバラバラになり、個人が孤立することになって、社会との結びつきを失い、そして孤独というものが登場しました。 殊に資本主義は共同体が解体した後に登場したもので、市民は互いに敵視し、互いを敵とみなし、競争しますので、その社会の成員は孤独にならざるを得ません。 資本主義の中では、みんな他人を自分の利益のためとか、自分のための手段としてしか考えませんので、人間同士の「友愛」は失われます。 互いに互いを警戒し、「隣は何するものぞ」と疑心暗鬼に襲われます。 他人に親切にされると、何か下心があるのではないかと疑います。 また、他人に同情したりすると、他人はバカにするな怒ります。 だからうっかり、同情もできません。 マンションにいっぱい住人がいても、互いに顔を見たことがなく、見ても顔をそむけます。 隣りが何をやっている人か知りません。 私たちは毎日、戦々恐々として暮らしています。 今の私たちの日本には共同体とか、コミニティーなんてありません。 みんな個々人が「孤立」しています。 人間は本来、共同体で生きる動物です。 共同体から切り離されると、個人の「内面」は空疎になります。 こうしてみんな孤独に苦しむことになります。 明治以降の日本は「近代化」に努めてきましたが、その結果が、個人の「内面」の「空虚」と「空疎」です。 そこであなたの質問に戻りましょう。 (1)人は孤独でいられるでしょうか? ・・・・・・・人間は本来共同体で生きる動物です。共同体で生きるからこそ、生きる甲斐があります。その共同体から切り離されて、「空虚」「空疎」な状態に長く耐えることはできません。夏目漱石が「行人」という小説で言ったように、キチガイになるか、死ぬか、それとも宗教に救いを求めるか、そのいずれでしか解決の道はありません。 それが嫌だったら、資本主義を倒し、新たに人間の共同性を実現する社会を打ち立てるしかありません。 (2)本当なる孤独って、どんなものでしょう? 前述のように「孤独」は人間が本来有するものでなく、時代的・歴史的なものです。 日本では、明治以降に登場したものです。 だから「本当なる孤独」というものはありません。 それだと、もともと人間は生まれついて孤独だと言っているように聞こえます。 でも、人間は、生まれついてということだったら、共同的なものです。 互いに助けあい、ともに喜ぶ、ともに食べ物を分け合う、互いに協力して一つのことをする・・・それが本来の人間の在り方です。 マルクスはそれが「人間の類的本質」と言っています。 そして資本主義を人間の「類的本質」の「疎外」だと言って非難しています。 (3)孤独の耐えられないと、人は自己を持することはできないのでしょうか? 若い人は持することができても、年寄りは持することは難しいでしょうね。 儒教の中国でも、昔は年寄りを敬い、大事にしたものですが、最近はそうでもないようです。 ましてや日本は年を取ると「ゴミ」扱いです。 社会の「邪魔者」扱いです。 さみしい、イヤな世の中になりました。

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。 近代社会、資本主義社会。 共同体の破滅と消滅。 私は未だにそれ以前。明治以前か江戸以前。 共同体人間で、そういう私に仲間になってくれる血も姻戚もつながらない人たちに囲まれ幸せです。いえ所謂る宗教にも入信していない。 こんな人間たちもいるんですね。ありがとうございました。

その他の回答 (5)

回答No.6

1.孤独というのがどの辺から孤独というのかにもよるが、孤独ではいられると思いますよ。会社などめんどくさい人間関係から解放されたいと願う人なら孤独も平気じゃないですか?孤独とは耐えるものでもなければ、ならないために努力するものでもなく、打ち勝つものだと思う。どんなに孤独にならないようにしてても周りが死んだり、周りの家庭の事情等であなたから離れていくことだって十分あり得る。孤独は突然やってくる場合もある。そこを耐えるのではなく、1人でいること、1人だからこそできることを見つけて楽しむなど工夫すれば孤独に打ち勝つことはできる。 2.本当なる孤独。誰とも接することのない生き方だと思う。人ってそう簡単には孤独にはなれない。家族もいなく友達や彼女もいない人が必ずしも孤独とも思わない。全く人との関わりなくして仕事は成り立たないし、店に行けば店員さんとの交流、居酒屋やスナックに行けば店員さんや常連さんとの関わりもある。本当なる孤独があるとしたら人目のつかないどこかに長く閉じ込められた時か、人里離れた山奥で一人で暮らしている時ぐらいじゃないですか? 3.それは関係ない。人は弱いが克服するための努力はできる。孤独をいい風に言い換えれば周りに気兼ねなくすることなく自由とも言える。孤独を恐れるな、楽しめ。孤独をまるで全てにおいての悪みたいに捉える人は、孤独のネガティブな部分ばかり見て恐怖を拡張してしまっているように感じる。孤独に耐えれずに自己を持することができなくなってしまう人は本当の意味で弱い人だと思う。

krya1998
質問者

お礼

ご訪問と貴重なご見解をありがとうございました。

  • oyatsuya
  • ベストアンサー率21% (111/517)
回答No.4

1.孤独ではいられないでしょう。   孤独に耐える必要はないです。また、耐えてはいけないです。 2.本当なる孤独とは、死です。 3.正式な孤独、に耐え抜こうとしていくその道の先には、魂の死が、   底なしの闇の向こうに待っています。 (1) 繁華街での他者の無視って、孤独? 居心地良いんじゃない?    自分も無視してる場合は居心地は良いな。   けど、求めているのに無視だと寂しいでしょうね。 (2) 知ってる孤老や独身独り住まいの人たちは、忙しく楽しくしてるように見えます。   でも、些細なきっかけを作って人を捕まえて話し込んだりするときは、   あの時は寂しい感じのときなのかも。

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#260418
noname#260418
回答No.3

(2)依頼心、依存心の強いひとは 同じような人と一緒になって変な喧嘩しますね。 自立した人は自立してない人を選びません。 (3)一人で楽しめることができないと 人と楽しめません。 (1)一人で楽しめることができる人は孤独に 見えないです。 lonelyとaloneはちがいます。 一人と独りもちがいますね。

krya1998
質問者

お礼

『孤独な群衆』(The lonely cloud)はアメリカの社会学者の著書名ですね。55年前、私の勤務する大学でも学生たちはよく話題にしていました。 まあ、その大学は46年勤務して10数年前に退職しましたが。 lonelyとaloneは仰せの通り違いますね。 ありがとうございました。

krya1998
質問者

補足

誤植訂正 The Lonely Crowdです。

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1118/8871)
回答No.2

人間は誰でも終始孤独です。自分の体を環境として住んでいます。自分の体の中に複数の自分がいたら一大事です。唯一の対策は、人間はすべて孤独だということで平等であるというように考えることです。

krya1998
質問者

お礼

そのように思います。 だから質問を出したのです。 ありがとうございました。

回答No.1

すぐ近くに人がいても、壁1枚隔てれば、見えない事では 地球の裏と変わらない。 関係を持てる事を言うのであれば、地球の裏でも信頼し合っ ていれば孤独ではない。 むしろ競い合い奪い合う拝金主義の、都会の雑踏にこそ真 の孤独はある。

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。

krya1998
質問者

補足

頑固な人、節操をだいじにする人を孤高の人とも言いますね。 孤高の人って、意外に人懐っこくて人情味がありますね。 しっかり相手の思いを受け止めてくれる。 決して他を排斥してはいない。 孤独ではない。

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