長崎奉行と長崎探題の違いについて

このQ&Aのポイント
  • 水戸黄門のエピソードで登場した松山藩初代藩主、松平サダユキが就いていた長崎探題について質問したい。
  • タルトの由来についての説明で登場した長崎探題と長崎奉行の違いについて教えてほしい。
  • 演じる俳優が心地良い演技を楽しめる水戸黄門のエピソードで質問したいのは、長崎探題と長崎奉行の違いについてだ。
回答を見る
  • ベストアンサー

長崎奉行と長崎探題、どう違うのか?

まず、「時代劇の中で、聞いたセリフを元に、質問するので、漢字間違いあると思うし、一人の登場人物だけは、漢字表記不明で、カタカナ表記で出すので、勘弁して欲しい」と、思います。 今回、質問したいのは、TBSテレビが、東映と共同制作してる、連続ドラマとしての時代劇、「水戸黄門」。 この内、「平成5年~6年(1993年~1994年)前後に、本放送された、松山(現在の愛媛県松山市)を舞台にした回で、スタートして、ほぼ直後のシーンから、質問したい」と、思います。 問題のシーンは… 「松山の山村に、ようやく着いた、佐野浅夫さん扮する、黄門様ご一行。 高橋元太郎さん扮する、うっかり八兵衛は、十八番である、「現地で、有名な食べ物は?」と、質問して来た。 すると、佐野さん扮する黄門様は、「五色素麺と、タルトがある」と、回答したが、高橋さん扮する八兵衛は、そのタルトを、「樽酒つまり、お酒」と、思い込んだ。 すると、佐野さん扮する黄門様は、改めて八兵衛に対して、「タルトと言うのは、お菓子の事で、松山藩の初代藩主、松平サダユキ公が、長崎探題だった時、出島のオランダ屋敷で食したカステラが、余りにも気に入ったので、その製法を松山へ持ち帰って、作り始めたのが由来と、聞いてますなぁ」的な内容で、説明した」シーンに、なります。 そこで、質問したいのは… 「タルトの部分は、分かればで構わないが、歴史による由来的から見て、どうなのか? 今回のメインは、「佐野さん扮する黄門様が、高橋さん扮する八兵衛に対して、説明してた中に登場した、松山藩の初代藩主、松平サダユキが就いてた、長崎探題」になる。 この長崎探題だが、長崎奉行とは、どう違うのか?」に、なります。

  • 歴史
  • 回答数4
  • ありがとう数6

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kuzuhan
  • ベストアンサー率57% (1586/2775)
回答No.4

#1に補足が付いていたので。 基本的に「時代劇・水戸黄門」で出てくる上級武士(大名など)は実在した人物であることが多いです。(流石に一般民衆や下級武士や「成敗」される人物は創作上の人物であることは多いですが) 水戸黄門(水戸黄門漫遊記)元々は明治初期に成立した講談である説が有力ですから、 松平定行は実在した人物です。 久松松平家の一族で、戦国時代は徳川に付いた久松家の子孫に当たります。家康の生母の夫が久松氏であったといわれており、そのことから「松平」を名乗ることを許されたそうです。 史実の定行は遠江掛川藩主、伊勢桑名藩主を経て伊予松山藩主になったという経歴を持ちます。そして伊予松山藩主時代に長崎探題を兼職しています。なお、伊予松山藩主としては厳密に言うと加藤家、蒲生家が先に入封しているため3代目になります。「初代」なのは久松松平家の藩主としての初代になります。 長崎探題職には1644年に就任し、1646年ごろにポルトガル船の接近で長崎に直接出向いた記録があります。この長崎に出向いた際に知ったロールケーキの製法を持ち帰ったのが松山の銘菓「タルト」の起源といわれています。 定行自身は1668年、82歳で死去しています。 一方で「水戸のご老公」水戸光圀も実在の人物で、常陸水戸藩の2代目藩主です。1690年に藩主から退いて隠居し、権中納言になっています。つまり、これ以降が光圀が『ご隠居』と言われる「時代劇・水戸黄門」の時代設定です。また、光圀自身は諸国漫遊をしたという史料はありません。(藩主時代に蝦夷地への探検を指示したり、死去まで歴史書の編纂を行っていたり、配下を各地へ派遣したりはしています)光圀は1700年に71歳で死去しています。 創作の時代設定としても「タルトの製法」が松山に持ち込まれた時期と光圀の隠居時期の問題はありません。ただし、愛媛銘菓としてのタルトは明治期に入ってから松山に広まったものなので、その頃に一般民衆が「タルト」を口に出来ていたのかまでは定かではありません。

80568410
質問者

お礼

詳しい回答、有難うございます…。 「補足分も含めて、2回も回答して頂いたので、BAにしたい」と、思います。 又、質問した時は、よろしくお願い致します…。

その他の回答 (3)

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.3

>タルトの部分は、分かればで構わないが、歴史による由来的から見て、どうなのか? 地元松山では、「松平定行が長崎から伝えた」事が定説になっていましたね。 松平定行が食べたのは「ジャム」でしたが、松山ではジャムが無いので「餡子」にしたとか・・・。 >この長崎探題だが、長崎奉行とは、どう違うのか? 他にも回答がありますが・・・。 長崎奉行は、幕府直轄地を治める役職(内政)です。 今で言うと、県知事兼警察本部長ですかね。 長崎探題は、幕府の諜報機関(防衛)です。 今で言うと、税関・公安・海上保安庁・自衛隊ですかね。 ※自衛隊といっても、事件が起きた場合は近隣諸藩に出動命令を出します。 竜馬も遊んだ長崎遊郭女郎は、(時代は異なりますが)添付資料と同じで「民間人の募集」でした。もちろん、カネの為に「身売り」した遊女もいましたがね。強制では、ありまsでん。 ですから、遊女は「謝罪しろ!賠償しろ!」とは言いません。^^; 昭和の時代。陸軍2等兵の月給が7円の時に、遊女は300円の高級取りですよ。^^;

この投稿のマルチメディアは削除されているためご覧いただけません。
  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9578)
回答No.2

80568410さん、こんばんは。 長崎奉行職というのは遠国奉行の一つで旗本の役です。長崎探題の探題の意味は軍事的・政治的に大きな言々を持つ大名役のようです。 探題 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A2%E9%A1%8C 長崎奉行 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%A5%89%E8%A1%8C

  • kuzuhan
  • ベストアンサー率57% (1586/2775)
回答No.1

松平定行は初代の伊予松山藩主ですね。 長崎探題と長崎奉行は扱う事業が異なります。 探題は「幕府直轄の軍事及び外交を取り扱う」役職です。今で行くと自衛隊の方面部と外務省のxx支部や支局のようなものです。 奉行は「幕府直轄の政務を取り扱う」役職です。今で行くと県知事で最終決定権が幕府に帰属しているようなものです。 江戸時代に置かれた探題は長崎ぐらいだったと思います。松平定行氏は伊予松山藩主と長崎探題を兼職しています。軍事的に警備を敷いたり、外国人の出入りを抑制したのは長崎探題としての松平氏です。 一方で、奉行は直轄地、いわゆる天領での政治を行っていた役職です。こちらは体内的な役場、警察、消防などの公的な部分を扱っています。天領は藩主といった「責任者」がいませんから、幕府お抱えの人物に任せます。本来、奉行に最重要決定権はない(最終的決定権は将軍にあって、その手前に老中などがいる)ので、テレビドラマの「遠山の金さん」(江戸町奉行)のように「その方らは打ち首!獄門!」などと勝手に死罪を申し渡すことは出来なかったりします(一定以上の罪でこいつは打ち首!となったら、幕府にお伺いしなければいけません)。 要するに探題は「軍人職」、奉行は「役人職」と考えればすっと落ちると思います。

80568410
質問者

補足

回答、有難うございます。 「佐野さん扮する、黄門様が、高橋さん扮する、八兵衛に対して、質問への回答の中で言ってた、松平定行は、実在する人間」と見て、良いでしょうか?

関連するQ&A

  • 伊予松山藩が葵紋を使用できた理由について

    伊予松山藩(いよまつやまはん)が “葵紋” を使用できるようになったのは、田安宗武の六男の松平 定国(まつだいら さだくに)が 伊予国松山藩 9代藩主 になったからでしょうか? 葵紋を使用可能なのは、家康の男系子孫の中から選ばれた家のみです。 伊予松山藩(いよまつやまはん)は久松松平家であり、家康の男系子孫ではありませんでした。 よって、普通に考えれば、伊予松山藩(いよまつやまはん)は葵紋の使用は許されないはずです。 例えば、同じ御家門の奥平松平家は、家康の男系子孫ではなかったので、葵紋の使用が許されたことはありません。 しかし、伊予松山藩(いよまつやまはん)は葵紋の使用が許されたことがあるみたいです。 これは、田安宗武の六男の松平 定国(まつだいら さだくに)が養子に入って、伊予国松山藩9代藩主に就いたからでしょうか? そうなのかどうかを教えてください。

  • 江戸時代の福井藩主、及び松平重富について

    江戸時代の福井藩の藩主についての質問が2つあります。 質問 1. 江戸時代の歴代の福井藩主の中で、藩主の在任期間が最も長かったという、松平重富という福井藩主は、8代将軍・徳川吉宗の孫なのでしょうか? 質問 2. その 松平重富 以降、幕末の福井藩主・松平春嶽(慶永)に至るまでの福井藩主は、全員、徳川宗尹の男系子孫なのでしょうか? 以上2つの質問について教えてください。

  • 関が原合戦から約30年間の九州

    関が原の戦い後、徳川家康、秀忠は一族や譜代を各地に配置して徳川の支配体制を固めていきますが、江戸時代初期の九州の押さえはどうなっていたのでしょうか? 1632年に譜代の小笠原忠真が現在の福岡県にあった小倉藩に藩主として入り、西国譜代大名筆頭として九州の玄関口を押さえる九州探題の任にあたって外様大名を監視したとWikipediaにあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E8%97%A9 小笠原忠真の小倉藩主就任以後なら譜代の高力忠房が島原藩主となったり、大久保忠職が唐津藩主になったり、松平忠昭が府内藩主となったりしてどんどん譜代や松平家の大名が九州に増えているから徳川の力が九州に及んできているのがわかるのですが、小笠原忠真が小倉藩主に就任する前の関が原合戦から約30年の間、九州の外様大名の監視とか押さえとかはどうなっていたのでしょうか? 長崎奉行がその役にあったのかなと思ったのですが初期の頃は船の入港する忙しい6月に長崎に来て10月には江戸に帰って1年を通して長崎にいるわけではなく、1年を通じて長崎に奉行がいるようになったのは1638年からだということをWikipediaで読みました。 調べ方が悪いせいか徳川幕府の九州の監視体制というか押さえの配置がわかりません。知っている方どうかお教えください。 あと福岡藩の黒田家52万石、熊本藩の加藤家52万石や薩摩藩の島津家56万石などかなり力のある外様大名が複数いる九州に、なぜ徳川家康、秀忠は徳川一門の誰かを配置して押さえにしようとしなかったのでしょうか?尾張、水戸、紀伊、越前、越後(六男忠輝は改易されちゃいましたが)と本州ばかりです。九州に徳川一門の誰かが入れば大きな押さえになると思うのですが。

  • この武将(殿様)、主にどの戦いに、出てたか?

    以前、TBSテレビ・東映が制作する、連続ドラマとしての時代劇、「水戸黄門」。 この内、「それぞれの回、原則ゲスト出演者は、舞台になった場所がある、府県出身者とする」体制で、制作されて本放送してた、平成2年度か3年度(1990年度か1991年度)分で、登場してた。 「被害者側が、かつお節職人の親子役として、西川きよしさん親子。 悪役側が、悪のかつお節問屋の手下である、ヤクザ一家の若頭役で、間寛平さんが、それぞれゲスト出演した」現在の高知市を、舞台にした回から、質問します。 気になったのは、ほぼスタートした直後に、登場した… 「西村晃さん(故人)扮する黄門様は、あおい輝彦さん扮する助さんと、高橋元太郎さん扮する八兵衛(うっかり八兵衛)と共に、現在の高知市内の神社に、到着した。 高橋さん扮する、八兵衛は、十八番である、「現地で、名物の食べ物は、何あるか?」を、質問して来た。 すると、当然ながら、「かつおのたたきが、名物である」と言う話が、出て来た。 その「かつおのたたき」が、生まれた言われ、つまり由来について、西村さん扮する黄門様は、あおいさん扮する助さんと、高橋さん扮する八兵衛に対して、「戦国時代、長曽我部(長宗我部)元親殿が、戦場で部下の将兵達を労る為に、 自ら作り始めたのが始まりと、聞いてますなぁ…!?」的な内容で、説明してた」シーンに、なります。 因みに、「かつおのたたきが、生まれた時、その本当の由来」については、以前「庶民が、藁葺きの藁で、かつおを焼く事から、考え付いた」的な内容で、載ってた料理関係の本を、見た事あります。 ですので、「かつおのたたきが、生まれた時の由来を、黄門様自ら、説明してたシーンは、架空だわ…!?」と、私は思いました。 そこで、質問したいのは… 「戦国時代、長曽我部(長宗我部)元親が、出た戦いで、有名な戦いあれば、1~2個程度で構わないのが、どの戦いならあるか?」に、なります。

  • 廃絶大名

    よく似た経緯で廃絶した、館林家と甲府家ですが、館林家が藩主の徳川徳松が5歳で亡くなり、無嗣廃絶により除封されたのに対して、甲府家は藩主の徳川綱豊が本家の養子に入ったため、幕府に領地を還付しています。 こういった例は水戸藩の武田信吉や清洲藩の松平忠吉などがおり、この両者は水戸藩が頼房が清洲藩は義直と、それぞれの弟が引き継ぎ、家臣や領地も看板を変えただけでそのままと言うことと思います。 それに対して、前者の館林と甲府の両家は完全になくなり、館林に関しては後に初代藩主綱吉の甥清武が再興してますが、24千石で1/10にも及びません。 また甲府家はこれまでの例から言えば、藩主の実弟(清武)が跡を継いでも良いように思いますが、完全消滅。 紀州家などは藩主が度々本家の養子になりますが、そのたびに西条家などから養子を迎え、家としては廃絶と言うことも無く幕末まで続きました。 質問としては 1. 館林、甲府の両家は何故いきなり廃絶されたか。 2. 両家の家臣(藩の規模からすると少ないですが)はどうなったのでしょうか。 3. 尾張、水戸家の兄→弟という交代はスムーズだったのでしょうか。 4. 甲府家は何故後継者を出せなかったのでしょうか。 分かる範囲でよろしくお願いします。 特に松平清武は3代将軍家光の血を引く最後の男系子孫ですが、どうも影が薄いですね。 兄も同じように家臣の養子に出されたので、経緯も同じですけど。

  • 「はとこと、その子供から見て、何と呼ぶか?」

    私は以前、何かのドラマ関係の本で、見た事あります。 「テレビドラマとしての時代劇、「水戸黄門」で、主人公の黄門様役を、最近演じた里見浩太朗さんは、先々代の黄門様役の佐野浅夫さんから見ると、「兄弟の孫、はとこで、親戚」。 里見さんには、佐野圭亮さんと言う息子さんが居るのは、ご存知の方はご存知」と、思います。。 そこで、質問したいのは… 「里見さんから佐野浅夫さんと、佐野圭亮さんから佐野浅夫さん、それぞれだと、「伯父さん」等、世間一般的な呼び方で言えば、何と呼ぶのが普通か?」に、なります。 それでは、「家系図的な内容で、親戚や身内関係に、詳しい」方、よろしくお願い致します…。

  • 江戸時代、殿様が参勤交代で留守の時に、預かれる部下

    「TBSテレビ系列で放送してた、連続ドラマ としての時代劇番組、「水戸黄門」を、必ず見ていて、歴史的に分かる人なら、多少分かる」と、思います。 水戸黄門シリーズでは…。 「黄門様ご一行が、訪ねた場所で出会った、何かの商家の関係者が、何かの事件に被害者として、巻き込まれた場合。 一通り捜査して、ボスとして、「現地の藩で、町奉行等の重要な役職についてる、幹部の侍」。 準ボスとして、「被害者側の商家を、乗っ取って、扱ってる物品を売り飛ばす事で、儲けた金はボスに対して、更なるワイロとして渡す商人と、その手伝いとして、「邪魔な被害者側の一家に対して、危害を加える」ヤクザ一家の親分」合わせて、3人つまり、「悪の3人組」が居たのが、判明した場合。 黄門様は、その事を書いた手紙を、配下である風車の弥七・かげろうお銀・柘植の飛猿、何れかに命じて、現地の城へ夜に、忍び込ませる。 そして、気づいた藩主つまり殿様が、「何者じゃ?」と、クセ者と見なした質問すれば、風車の弥七・かげろうお銀・柘植の飛猿の何れかが、「私は、水戸のご老公様(黄門様)の配下で、ご老公様からの命令により、書状(手紙)を持参しました」等と、場合によっては印籠を見せてから、「悪の3人組が、悪事を働いてるので、自分達が被害者達を助ける手助けして欲しいが、その内のボスは、貴方の部下である」内容で、緊急事態が発生したのを、緊急連絡として知らせる。 こうなれば、クライマックスシーンとして、必ず登場する、「悪の一味を、黄門様ご一行が大掛かりな体制で、懲らしめる 」シーンで黄門様ご一行が、悪の3人組の手下を、殆ど倒した時点で、黄門様から緊急連絡を受けた殿様は、別の部下達を引き連れて乗り込み、悪の3人組に対して、「お前達の悪事は、水戸のご老公様から聞いたから、観念せい」的な内容で、証拠の提示込みで指摘したら、 その前後で黄門様ご一行は、正体を明かしてるので、3人組含めて悪の一味は観念してしまい、藩主側の部下が連行する…」シーンが入った回は、 大変多かったと、思います。 そこで、質問したいのは…。 「藩主つまり、殿様が参勤交代として、江戸の藩邸に出向いていて、領地が留守になる場合。 「水戸黄門」で、殿様の次に、ご老公様と会話出来る立場となる善人側の部下で、殿様の留守を預かれる重要な幹部と言えば、「勘定奉行」的な言い方でなら、どの役職クラスの人間なのか?」に、なります。

  • 日本人は何ゆえかくも『水戸黄門』を愛するのか?――現代のオジさんたちのおとぎばなし

    旅をする黄門様ご一行。八兵衛が土地の名物によだれをたらす。  ↓ 偶然出くわしたチンピラにいじめられる町娘を助ける助さん格さん。  ↓ お礼に泊まった娘の長屋ではおとっちゃんが長年の病。娘はチンピラどもの借金の形(かた)に。  ↓ 諜報活動。悪代官に賂(まいない)の饅頭箱を渡す廻船問屋とそれを天井からのぞく矢七。そして、お銀の入浴シーン。  ↓ 悪代官と回船問屋の悪巧みの場に現れる黄門様ご一行。そしてチャンバラ。  ↓ 黄門様の「格さん。もういいでしょう!」の合図で印籠。  ↓ 大団円。 毎回々々似通った時代劇『水戸黄門』が、 かくも高い視聴率を維持できるのは、 なぜなのでしょうか?

  • 徳川宗尹の次男について教えてください。

    徳川宗尹の次男は、どういう人物だったのでしょうか? 徳川宗尹の次男について教えてください。 徳川宗尹の息子について調べてみたところ、 徳川宗尹の長男は、松平 重昌(まつだいら しげまさ)という人物で、越前国福井藩の第11代藩主だそうです。 徳川宗尹の三男は、松平 重富(まつだいら しげとみ)という人物で、越前国福井藩の第12代藩主だそうです。 そして、徳川宗尹の四男は、徳川 治済(とくがわ はるさだ / はるなり)で、江戸時代の御三卿の一つ一橋徳川家の第2代当主。8代将軍・徳川吉宗の孫で、11代将軍・徳川家斉の実父に当たるそうです。 徳川宗尹の五男は、黒田 治之(くろだ はるゆき)という人物で、筑前福岡藩の第7代藩主だそうです。 そこで質問があります。 徳川宗尹の次男についてだけ、調べてみても、出てこないのですが、 徳川宗尹の次男は、夭折したりとかしてしまったのでしょうか? もしそうなら、何歳ぐらいで夭折してしまったのでしょうか? 徳川宗尹の次男について教えてください。

  • 時代劇2

    水戸黄門の弥七に関する質問です 水戸黄門の殺陣のシーンで敵役が鉄砲を構えると弥七の風車が飛んできて敵に刺さり鉄砲を上に撃たせているシーンがあります。 ここで質問です 敵役が鉄砲を構えたら弥七以外で阻止する話はあるのでしょうか? また弥七の出現パターンはこのパターンしかないのでしょうか? ついでに飛猿は壁を壊して出現するパターンしかないのでしょうか? 回答お願いします タイトルが時代劇2のとおり時代劇1もありますのでよろしければ回答お願いします。