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開国始めの貿易 江戸時代後期

noname#224207の回答

noname#224207
noname#224207
回答No.2

>最初は銀の価値の違いにより 教科書にどのように記述されていたのかは存じ上げませんが、銀の価格の違いという訳ではありません。 >小判の改鋳ですぐに被害は収まったんでしょうか? 確かに幕末に改鋳していますが、改鋳で収まったわけではありません。 >被害はどれ程のものだったのでしょうか? 具体的な数値は知りません。 >貿易を始めてから小判を改鋳するまでどれくらいの期間が あったのか教えてください 日米和親条約が嘉永7年(1854年) 安政小判鋳造が安政6年(1859年) ですので、5年ほど時間がかかったことになります。 但し、安政小判の鋳造は4ヶ月ほどで中止しています。 金銀の値段すなわち交換比率が日本と米国とでは異なっていたことは事実です。 むしろ、秤量通貨と計数通貨の違いを認識していなかったことが最大の原因です。 日米の話し合いで1ドル銀貨を一分銀3枚に相当するものとすることに合意しました。 これは一分銀が含有する銀の重量から割り出したものでした。 ところが、日本では金銀の含有量に関わらず、1両=4分という制度になっていました。(計数通貨) この為に1ドル銀貨を1分銀に換えてこれをさらに小判1両に換えて国外へ持ち出して金の含有量を基にした米国の金貨(秤量通貨)と交換すると、差益が生じるという現象がおきました。 両替を繰り返すだけで1ドル銀貨が3ドルに化けるという現象です。 これを防ごうとして小判の金の含有量を下げたのが安政小判です。 理論上は小判の金を減らすだけではなく、一分銀の銀の含有量を米国の1ドル銀貨相当に変更しておけば防ぐことはできました。 とは言え、国内での交換比率はあくまでも1両=4分という交換比率ですので(計数通貨)、必要な銀の量が莫大なものとなって財政難の幕府には実施できるだけの銀を保有していませんでした。 日本国内でも金の地金は取引されていましたから、含有量の少ない安政小判の値打ちはドンドン下がりました。 あわてた幕府は安政小判一枚は三両一分二朱 天保小判一枚は二両二分三朱とする、という現代感覚では訳の分からない通達を出しました。 結果として、庶民は両替商のところへ殺到するという事態になり、同時に物価はドンドン上がるインフレとなってしまいました。 詳しくは下記のサイトをご覧下さい。 幕末の通貨問題 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/幕末の通貨問題

koyamatakashi
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