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平安時代の身分の高い人は爪を伸ばしていましたか?

ある人に平安時代の身分の高い人は爪を伸ばしていたと聞いたのですが それを裏付ける史料(文献や絵画など)はありますか? よろしくお願いします。

noname#220222
noname#220222
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  • ベストアンサー
  • fumkum
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回答No.2

「平安時代の身分の高い人は爪を伸ばしていた」ということはないと思います。理由は次の2点(資料)です。 『九条殿遺誡(ゆいかい)』 遺誡幷日中行事。 先起称2属星名号1七遍。次取レ鏡見レ面。次見レ暦知2日吉凶1。次取2楊枝1向レ西洗レ手。-中略-次記2昨日事1。次服レ粥。次梳レ頭。次除2手足甲1。次択レ日沐浴。-以下略- 書き下し 先ず起き属星の名号を称えること七遍。次に鏡を取て面を見、次に暦を見て日の吉凶を知る。次に楊枝(ようじ)を取り西に向かい手を洗う。-中略-次に昨日の事を記し、次に粥を服す。次に手足の甲(つめ)を除き、次に日を択(えら)びて沐浴す。-以下略- 意訳 起きたら自分の生まれ年の属星(生まれ年ごとに決まっている運命を支配するとされる星)の名前を唱える事7回、次に鏡で自分の顔を見、次に暦を見て今日の日の善し悪し確認し、次に楊枝を取って歯を磨き、西に向かって手を洗う。-中略-次に昨日の出来事を日記に書き、次に粥を食べる。次に手足の爪を切り、次に日を選択して沐浴する。-以下略- 上記のように書かれ、「次除2手足甲1。」の後に書き込みがあり、「丑日除2手甲1。寅日除2足甲1。(丑の日に手の爪を切り、寅の日に足の爪を切る)」としており、十二支なので、12日に1回手もしくは足の爪を切るようにとしています。 この『九条殿遺誡』ですが、「遺誡」は遺訓、家訓などの意味に近く、子孫に残す生活・行動・人生等への注意、心構えなどが書かれ、人生訓的な内容も持つというものです。「九条殿」ですが、平安時代中期の貴族の藤原師輔のことです。最終官位は正二位右大臣で、異母兄の左大臣藤原実頼に次いで、NO2の公卿で、実力的にはNO1とされ、長生きすれ(外孫の冷泉天皇が即位すれ)ば、摂政・関白は確実とされた人物です。自身は摂関に就任しませんでしたが、直系子孫は兼家-道長-頼通-師実-師通-忠実-忠通と摂関に就任し、忠通の子の近衛基実と九条兼実から摂関家が分かれ、後に五摂家といわれる五家に分かれますが、そのような系譜を持つ最高クラスの貴族でした。 平安時代の「遺誡」の中で、宇多天皇の『寛平御遺誡』と並んで有名で、平安時代中期、後期の貴族の日記、歴史物語の『大鏡』などにも書名や内容の一部が記載されています。現在は、『群書類従』に所収されており、和製漢文で、原稿用紙4~5枚程度のもので、ちょっと大きめの図書館には『群書類従』は置かれていることが多く、確認ができます。 横道に逸れましたが、「先起~沐浴。」の文は、属星や西向きに手を洗うなどの当時の風習、信仰に基づく行為もありますが、内容の多くが現代でも習慣的に行われることや類似の行為であり、そのことから考えても、手足の爪を定期的に切る習慣が当時あったことがわかります。 藤原師輔 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E8%BC%94 『保元物語 下巻 新院御経沈めの事 付けたり崩御の事』 (崇徳上皇は)その後は、御髪をも召されず、御爪をも生やさせたまはず、生きながら天狗の姿にならせたまふぞあさましき。-中略-見奉りければ、御髪、御爪長々と生やさせたまひ、-中略-(上皇は)日本国の大魔縁となり、 意訳 その後は、髪をも切られることもなく、御爪もお切りになられず、生きたまま天狗の姿におなりになられたことは驚きあきれるばかりだ。-中略-上皇のお姿を拝見すると、御髪や御爪は長々とおはやしになられ、-中略-上皇が仰るには、私は日本国の大魔縁(大悪魔)となって、 崇徳上皇は平安時代後期の天皇・上皇で、保元の乱に敗れ、弟の後白河天皇により讃岐国(香川県)に流され、そこで生涯を閉じます。生前上皇は後生菩提のために、指から血を滴らせて、血書の五部の大乗経を書き、その経巻を京都近郊の寺社に納めたいと京都に送りますが、後白河天皇・朝廷により納付を拒否されて送り返されます。これを恨んだ上皇は、「生きても無益なり」として、髪も爪も切らずに長々と伸ばし、日本国にあだなす大魔縁になるとして、生きながら天狗の姿になったとされます。源平の合戦前後から崇徳上皇のたたりとされる事柄が続き、史実として崇徳上皇の霊を鎮めるための処置が次々に行なわれます。崇徳上皇が実際に髪、爪を伸ばし続けたかどうかはともかく、爪を伸ばし続けることが大魔縁や天狗の印であるとの意識が当時の人にあったことになります。ですから逆説的ですが、平安時代に爪を切っていた傍証にはなると思います。 なお、『保元物語』と同様な記述は『水鏡』などにもあります。両書共に、鎌倉時代初期の成立と考えられていて、風俗・習慣は平安時代とそれほどの違いはなかったと考えられます。また、両書は各種古典文学全集に入っていることも多いので確認ができます。 崇徳天皇 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87 以上、参考まで。

noname#220222
質問者

お礼

本文、書き下し文、意訳まで書いてくださって感激しています。 これだけの文章を書くのはものすごく時間がかかったと思います。 本当に親切にありがとうございます。 藤原師輔についての説明なども、歴史に詳しくない私にはたいへんありがたいです。 12日で人間の爪はどのくらい伸びるのか、ただいま自分の爪を観察中です。 崇徳上皇はいったいどのくらい髪の毛や爪を伸ばされていたんでしょうね。 テレビで1m近く爪を伸ばしている人を見たことがありますが。 丁寧かつ長文回答を本当にありがとうございます。 たいへん参考になりました!

noname#220222
質問者

補足

個人差もあるかと思いますが、12日で1mm~1.5mmくらい爪が伸びました。 あんまり伸びないですね。

その他の回答 (2)

回答No.3

「髪」のことではないでしょうか。 日本人の髪は世界的に見ても長くなるほうで抜けるまでに約2m弱の長さになるのですが、平安時代は長い黒髪が美人だということで、抜けた髪も絡んで5mくらいの長さにまでしていた人がいたようです。

noname#220222
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 あるお寺の仏像の爪が長くて、それで爪の話になりました。 ですが、髪のお話しも大変興味深く読ませていただきました。 5mとはものすごいロングヘアーですね!

回答No.1

取り立てて、爪を伸ばす、という風習はなさそうです。 というよりも、平安貴族には、爪を切って良い日、という風習があり、 その日まで伸びてしまうので、結果的に爪が長くなってしまうことがある、 ということだと思います。 http://www.saga-ed.jp/workshop/karatuji/data/jissen/history/1-1heian-kizoku.pdf こちらは、爪を切る日についての記載があります。 ネイルアートみたいなのは同時代には中国・唐から入ってきたそうです。

noname#220222
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「丑 の日には手のつめ,寅 の日には足のつめを切る」とありますが、丑の日や寅の日は12日ごとにやってきますね。 12日で爪はどのくらい伸びるんでしょうね。 ただいま観察中です。(笑)

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