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美しいとは何か

美しいとはなんですか? せいちょうすること? せいちょうして死に行くこと? 成長する前の段階のこと?

みんなの回答

noname#210533
noname#210533
回答No.15

美しいとは、手に入らないものを、 ここに留めておけない、失われていくものを、 強く、強く、欲する心。 ずっとずっと、消えずにいて欲しいと願う心。 失われたものの面影さえも、消えてしまわぬ様に、 この世に留めて置きたいと、願う心のこと。 あなたが、そう願う、その心の事。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.14

NO・10 です。 前回は人間の社会行動の規範という倫理的な面から美を考えました。今度は生命そのものの働きから考えてみます。生命の最大の目的はセックスによる次世代への引継ぎですが、そのためにどんな生き物も存在しているといって良いと思います。その方向性のために用意された最大の快感、快美感ともいいますが、我々の美的体験はきわめてこれに近似しているのはこのセックスと美との関係性の重大さを物語っています。 生命が世代を重ねて向かっている方向に究極美への指向性があるのは間違いありません。より強い生命、より永続性の高い生命をめざすために生物に付与された志向的性質が普遍の究極美への指向性なのだと思われます。これは当然人間だけではない、たとえば鳥などにもより強い生命力と種としての典型性を持った美しい異性を目指して交尾する性向があるのもその証明でしょう。 生物のセックスはその生命の輝きの頂点と直下の死を最高のかたちとしています。ここに前回の結論とした人間の倫理行動の最高完遂状況と見事に一致したのです。

回答No.13

美しいとは、自分の死後にもこの世に残ってほしいと願うモノです。 美しく無いモノは消滅しても惜しくない。 美しいモノは消滅させたくない。 何かを犠牲にしても、存続させたいと思う。 これが美しいモノです。 極限においては、自分の命を犠牲にしても、存続させようとする。 それが美しいモノです。

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.12

美しいとは 成長する、老化するに関わらず、そこに価値を見いだせることではないでしょうか。 成長の段階の躍動感や恋や努力も美しいし、老いるときの覚悟、利他、笑いも美しい。 そこには理に適った生き様があるのだと思います。それは価値があると思います。 絵画や理論にしてもそのから何かを得ることが出来ると感じる時に美しさを感じるのではないでしょうか。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.11

augmydt様、こんばんは。 (1)「女神」。才色兼備、万能で、人格的にも優れているような存在 (2)その、一部? (3)「愛しい」であれば、むしろ主観的要素が大きく影響する

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.10

仰ることの意味をもう少し噛み砕いてご説明願いたいと思います。 美しいという言葉は生命に関わることだと仰りたいのでしょうか。 生き物は皆美しい瞬間を持つと仰りたいのでしょうか。 それは否定できないと思いますが、美一般の説明の基礎のようなもので、いささか説明不足かと思われます。 美を目指して人間が行動する場合、はたして何が一番美しいか?という方向から考えます。善なるもの、真なるものを目指す、究極の善は何か?最高の真と善を併せ持つ、価値ある行為を美と同格だと言うことが出来るかもしれません。倫理の究極的行為を成し遂げた人(の行為)を美の究極と捉えたばあい、誰もがやりたくて、しかし出来ないけれど、そのひとはあえてそれをなした、そういう行為のひとつを犠牲といいますが、みなの代りにそのひとが非常な危険と苦痛に耐え、生命をもかえりみずにやりとげたとすれば、それは究極の”美しい”行為といえるでしょう。 生命の輝きの頂点で死を迎える犠牲の若者を永遠の記憶にとどめることが芸術美の理想ではないでしょうか。 それがつまり神との合一、いはば神の似姿であるというひとも居るかもしれません。 美は羊と大から成り立っていますが、羊は古来神への生け贄にされるいきものです。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.9

若く健康な動物の方が、年取って病気の動物 よりも美しい。 腐乱死体は醜い。 生命感情の高揚があるときに、美が発生するのです。 つまり、死があるから、美も存在するのです。 死なねばならない人間に、神が与えたプレゼントが 美です。

回答No.8

 【Q:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8918609.html  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたか?  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題です。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えている。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから社会の集団まで)に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが あるかも分かりません。シガラミとしての美学を持つことが 実際問題として余儀なくされるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の度合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学が持ち上がって来るはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理の善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまと きっかけは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。  

noname#211437
noname#211437
回答No.7

>美しいとはなんですか? 究極の美を追求する ことではないでしょうか。 >せいちょうすること? 美しく成長すること、 自分に磨きをかける という事ですかね。 >せいちょうして死に行くこと? 美しく成長し、 自分に磨きをかけて 死に花を咲かせると いうことですかね。 >成長する前の段階のこと? 究極の美を追求するために 美しく成長し、 自分に磨きをかけて、 死に花を咲かせるような 人生といった感じですかね。

noname#260418
noname#260418
回答No.6

いかなる人間にも、三つの望みがある。 健康であること、 正直な手段で金持ちになること、 そして美しくあること。 プラトン おそらく…人間の本性には、美を観察し 評価する非常に強い普遍的な傾向が あるだろう。心にかんする いかなる原理も、このはっきりと目で 確認できる資質を見すごしにはできない。 ジョージ・サンタヤナ 人間はなぜ美しい肉体を求めるかと尋ねられた アリストテレスは、こう答えた。 「そんなことは、目あきなら誰にでもわかる」。 美は心をとらえ、人をとりこにし、 情熱の日を燃えあがらせる。 プラトンのイデア(永遠不変の理想の姿)から ピンナップ写真にいたるまで、 美しい人間のイメージがつくりあげられて きたのは、理想的な人間の姿を見ること、 想像することへのかぎりない欲求を みたすためだった。 (中略) 多くの知識人が美はとるに足らないものだと 指摘する。なにを証明するわけでも教えるものでも ないから、(中略) 知的な議論の対象と すべきものでなない。 シャルル・ポードレールは十九世紀に、 美は「永遠に不変なる要素」と 「相対的な状況的要素」から成り立っていると 考えた。後者の要素は「年齢、流行、論理、感情」 である。「この二つの要素をひとかけらもでも ふくまない美の例など、誰にもあげられないだろう」 と彼は書いている。 ''The Science of Beauty” ナンシー・エトコフ 著 より一部抜粋。

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