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- technatama
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#1の回答が恐らく正しいのでしょうが、私も調べていましたので、補足します。 実は、『学習院大学 経済論集 第41巻・第3号(2006年10月)』に掲載された 鈴木恒夫氏の論文「戦前期における資産家の株式所有 ―大阪府と兵庫県-』 の中で、谷本作次郎の名前が挙がっていました。 この論文作成に当たっての参考文献は、 明治40年発行の、『日本全国商工人名録』と『日本全国諸会社役員録』で、 大阪府と兵庫県に在住の商工人を抽出し、支払った所得税額のデータを基にしたものです。 http://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/4303/4303suzuki.pdf#search='%E6%8A%B5%E5%BD%93%E8%B2%B8%E3%81%97%E6%A5%AD+%E8%B0%B7%E6%9C%AC%E4%BD%9C%E6%AC%A1%E9%83%8E' その所得税額を10のグループに分けているのですが、谷本作次郎は、ちょうど中ほどの第5グループに属しており、大阪市南区・谷本作次郎・抵当貸業・所得税70円でした。(上記論文の325頁) 要するに、土地などの不動産を抵当にして金を貸す事業をしており、当時の資産家の一人だったのでしょう。 ということは、恐らく地元に対しても何らかの慈善事業を行ったとかで、その感謝の意味の記念碑であったと想像します。
- kuzuhan
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すぐ分かるものがないんですが、ちょっと調べた限りでは戦前に谷本作太郎という人物が、その碑が立っているあたりで抵当貸業をしていたようです。そしてかなりの資産家であった(論文:戦前期における資産家の株式所有 鈴木恒夫 著 より)ようです。 考え方としては ・この地域の発展に貢献した碑 ・自分の業績をたたえた碑 のどちらかになるのではないでしょうか。 区役所や地域の図書館の資料室などに詳細があるかもしれません。