文禄・慶長の役の捕虜返還。

「回答兼刷還使」が3度訪れていますが、結局、朝鮮に帰国したのは何十、何百人くらいですか。 大名家の一例でもよいですから教...

Kittynote さんからの 回答

質問者が選んだベストアンサー

  • 2015-05-30 16:46:42
  • 回答No.2
Kittynote

ベストアンサー率 84% (32/38)

御無沙汰しております^^

先ず、回答兼刷還使(1607・1617・1624)以前の事例ではありますが、
1601年(※慶長6/朝鮮宣祖34※)、1605年の捕虜送還の人数については、
下記『朝鮮史.第4編第10巻/朝鮮史編修会編/朝鮮総督府/昭和12.3』の
宣祖三十四年六月、宣祖三十八年(四月)(五月)、宣祖三十九年(正月)の記事等にも
見ることができます。

〇『朝鮮史.第4編第10巻/朝鮮史編修会編/朝鮮総督府/昭和12.3』
<※以下の引用文献は、転写省略。何れも原本画像のとおり※>

・對馬島宗義智柳川調信等書ヲ寄セ和好ヲ求ム被擄南忠元以下男女二百五十名送還ス/
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114960/505
<505/658>(938頁)辛丑 朝鮮宣祖卅四年(六月)※1601
廿八日甲午對馬島ノ宗義智・柳川調信・豊臣正成[寺澤正成]・橘智正[井出彌六左衞
門]ヲ遣シ、書契ヲ齎シ、前縣監南忠元及ビ本國被擄ノ男女二百五十名ヲ率ヰ、釜山
ニ来ル。…(後略)…

・日本源家康被擄三千口ヲ刷還セシム/
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114960/599
<599/658>(1112・1113頁)乙巳 朝鮮宣祖卅八年(四月)※1605
…(前略)…卽チ被擄人ヲ刷出セシメ、是ニ至リテ、男婦三千餘口ヲ倶ニ刷還セシム。

・對馬島宗義智柳川調信ノ答書被擄一千三百九十名ヲ送還ス/
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114960/600
<600/658>(1114頁)乙巳 朝鮮宣祖卅八年(五月)※1605
十二日乙酉對馬島宗義智・柳川調信、禮曹ノ書ニ答ヘテ釜山ニ交易ヲ許スヲ謝シ、
且ツ本國ト速カニ和好ノ驗ヲ結バンコトヲ請ヒ、被擄人一千三百九十名ヲ送還ス。

・對馬島宗義智柳川景直書ヲ禮曹ニ寄ス 被擄漂浪人一百二十三名送還ス
 柳川調信ノ死/
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114960/616
<616/658>(1143頁)丙午 朝鮮宣祖卅九年(正月)※1606
廿六日乙未對馬島宗義智・柳川景直[調信の子]書ヲ禮曹ニ寄セ、速カニ信使ヲ差遣
シテ和好ノ驗ヲ表サンコトヲ請ヒ、被擄人一百二十二名・漂浪人一名ヲ送還シ、
調信ノ死去及ビ源家康ノ第二子秀忠已ニ關白ト爲ルヲ報ズ。…(後略)…

上記により、捕虜送還の人数は1601年(六月)が250名程、1605年(四月)が3000余人
(※ただ、この数値は大雑把で具体的な往来記録でもないため、他との重複も有り
得るか?とも思います※)と同年(五月)1390名、1606年(正月)122名(外に漂浪人1)
であったことがわかります。

続きましては、1607年(七月)1240余人、1617年(十月)321人など。

〇『朝鮮史.第4編第10巻/朝鮮史編修会編/朝鮮総督府/昭和12.3』
・囘答使呂祐吉等囘ル 被擄一千二百四十餘人ヲ刷還ス/
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114960/648
<648/658>(1202頁)丁未 朝鮮宣祖四十年(七月)※1607
囘答兼刷還使呂祐吉・副使慶暹・書状官丁好寛等、日本ヨリ囘リ、
被擄ノ男女一千二百四十餘人ヲ刷還シ、日本國書ヲ齎ス。…(後略)…


〇『朝鮮史.第5編第1巻/朝鮮史編修会編/朝鮮総督府/昭和8.3』
(・對馬、被擄人ヲ還ス/
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114980/13
<13/301>(10頁)戊申 朝鮮光海君卽位年(六月)※1609)
(・被擄人ノ召還/
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114980/139
<139/301>(247頁)丁巳 朝鮮光海君九年(四月)※1617)
(・日本被擄人ヲ還ス/
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114980/144
<144/301>(256頁)丁巳 朝鮮光海君九年(九月)※1617)

・囘答使還ス/
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114980/144
<144/301>(257頁)丁巳 朝鮮光海君九年(十月)※1617
廿六日丁巳囘答使一行釜山ニ還ル、刷還被擄男女凡テ三百二十一人。

(・日本通信使鄭岦ヲ引見ス/
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114980/255
<255/301>(450・451頁)甲子 朝鮮仁祖二年(八月)※1624)

ほか、参考にしたURL

〇「李文長のこと:ある朝鮮役被虜人の迪った人生/川本桂子」
『群馬県立女子大学紀要 第1号/1981-03-31』(100→91)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110001234153
<8/10上・下段>※各コマ逆順
内藤[※内藤雋輔]氏は、両役の被擄人は少なくとも二~三万人にのぼったであろうと
推定されている。
…(中略)…
慶長五年(1600)から寛永二〇年(1643)の間に刷還した被擄人の数は、
正式記録(『癸未東槎日録』)に残るだけでも七千五百名に達したという
[※内藤雋輔『文禄・慶長役における被擄人の研究』p11「刷還交渉の概要」]。

〇shirasagikaraの日記
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20071021
仲尾宏「朝鮮通信使」(岩波新書・※2007年※9月刊)によれば、幕府も、刷還使も、
諸大名に拉致捕虜の帰還をよびかけ、第1回刷還使は1607年に1300人を連れ帰った。
第2回の1617年は321人。第3回の1624年は146人。
さらに第4回の1636年は2人。第5回の1643年は14人と激減。

以上 断片情報に過ぎませんが
少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
お礼コメント
kouki-koureisya

お礼率 94% (1282/1356)

詳細なご回答真にありがとうございます。

初回の刷還使が来るまでに送還された人の方が多いのですね。
慶長5年 (1600)  490人(3月300余、4月300余を重複しているとして)
慶長6年 (1601)  250人
慶長10年(1605) 4390人余
慶長11年(1606) 123人   計 5253人(よりやや多い)。

初回の刷還使以後の送還者は、1783人です。
慶長12年(1607) 1300人、元和3年(1617) 321人、寛永元年(1624) 146人、
寛永13年(1636) 2人、寛永20年(1643) 14人。

単純に合計すれば7036人になります。

ご提示の論文「李文長のこと:ある朝鮮役被虜人の迪った人生/川本桂子」には、
内藤雋輔著『文禄・慶長役における被擄人の研究』を根拠に、
「慶長五年(1600)から寛永二〇年(1643)の間に刷還した被擄人の数は、正式記録(『癸未東槎日録』)
に残るだけでも七千五百名に達したという」とあります。

この「七千五百名」の数字に関しては、
公益財団法人 日韓文化交流基金のレポート「文禄・慶長の役(壬辰倭乱)」で、
「同一の被擄人と思われる者をかなり重複して計算している恐れがある」として、おおよそ6100人程度であったのではないかと想定されています。

http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/2/1_1_2roku_j.pdf#search='%E5%86%85%E8%97%A4%E9%9B%8B%E8%BC%94%E3%80%8E%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E5%BD%B9%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%A2%AB%E6%93%84%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6'


私は、質問前に『韓国社会の歴史』韓永愚著、吉田光男訳(明石書店、2003年発行)を読んでいました。
韓国の研究者が自国民向けに書いたこの本では、当然一貫して朝鮮の立場で「壬辰倭乱」を説明して
あり、「朝鮮人捕虜7千名を取り返した」とあります。


結局、6-7千人が帰国できたのでしょう。
そして、その何倍もの朝鮮人が連行されてきたのでしょう。
日本へ連行された後、東北地方から沖縄、はては東南アジア、ヨーロッパにまで転売された者もいる
ようです。

『朝鮮史/朝鮮史編修会編/朝鮮総督府/昭和12.3』のような書籍があって、しかもネットで読める
のですね。
たいへん参考になりました。
お陰さまでよく解りました。
ご教示に感謝申し上げます。
投稿日時 - 2015-06-01 20:38:03
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