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無用の用? 無があって有があるのか?
いま議論中ですが この世界、この宇宙は 無があって有があり得るのでしょうか? それとも有在るのみなのでしょうか? 無というものは無いのでしょうか? 無とは何でしょうか? 0とかヌルストリングスとか 現実にあるのでしょうか? それとも無は概念なのでしょうか?? ご意見をお聞かせください。教えてください。
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無とは文字通り無いのですから、どこにもありません。 存在の否定である非・存在ならあります。 たとえば、目の前からエンピツが消えた、という場合、まったくエンピツが無くなったのではなく、ただ、私の視界から消えただけで、別の所にあるのですから、非・存在だというべきです。 私たちが無という言葉で理解しているのは、たいてい非・存在です。 また、非・存在という存在があるわけでもありません。 非・存在は存在の在り方ではなく、単なる存在の否定です。 ハイデガーは無を「無化する」と言っています。 「無化する」のですから、この世界のどこにも、宇宙にも存在しません。 キリスト教は、神が世界を、宇宙を無から創造したと言っていますが、無から有が生まれたりしません。 無からは何ものも生まれません。 すべて、存在するモノは存在するモノから生まれたものです。 今の私たちの宇宙は今から146億年前に1個の素粒子から誕生したとされ、そのビッグ・バンによって急速に膨張し、今の姿になったと言われますが、それ以前は無であったかというと、そうではなく、現代の素粒子物理学によると1個の素粒子は、それ以前にダーク・マター・暗黒物質というものがあり、その中に誕生したとされています。 今の宇宙はずいぶん希薄ですが、ダーク・マターはもっと希薄で、あるかないか微妙だということでも、何らかの物質はあったとされています。 だから私たちの宇宙も決して無から生まれたのではなく、物質から生まれたのです。 第一、キリスト教は神が世界を、宇宙を無から創造したと言っていますが、その神はいったい誰が作ったのでしょうか? 神も存在するモノならば、それも無から作られたとみなければなりませんから、神が存在する以前は無だったことになります。 その無から神が生まれ、そして神が世界を、宇宙を創造したことになります。 だけど、それって、どこかおかしくありませんか? 神が無から誕生したのですか? 「無用の用」というのは老荘思想で言われたことで、人為を否定し、自然に任せれば、おのずから生じる、却って自然に任せた方が肉体は意識しなくても自動的に「用」を果たしてくれる、そこから言われた言葉です。 人為的に作られたものは一つしか役に立たないけど、自然にあるものはいろいろな「用」に役に立つ。 変幻自在だから。
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無用の用が無になっちゃってることはあるのかってことですね? そりゃあ人間が慣れすぎてしまうと無用の無に感じることはあるでしょうね。ありがたみが無くなるってやつです。 コンビニエンスストアのキャッチコピーで、「笑顔は無料です」というのがあったけど、「竹輪の穴は無料です」ってのもありましたね。 いえいえ冗談じゃなくって、宇宙論で紐理論というのがあって、どうしても10次元の仮説で進めたいという要望があったんだそうです。それに竹輪の穴が関係していてポアンカレという学者の説も関係しているとか。 しかしやっぱり有と無は主格にはなりませんね。それから、無の状態から有の状態になるには、時系列上でどこかから借りてくるほかないのですよ。で、借りたら返す。ここ重要だから試験に出ると思います。
お礼
何だかよく分かりませんが、10次元理論って物理学はなんとも奇天烈ですねえ 超ひも理論はかなり有望視されていますが でも紐と考えると説明がつくというだけで 実際に紐が沢山在るとは限らない様な気もしますが 有というのはエネルギーの事でしょうか?エネルギー保存則からすれば 忽然と湧いて出るわけにも行かないでしょうねえ どうもありがとうございます。
ここにガラスの塊があります。 ピシっ、と割れが生じました。 透き通ったガラスの塊の中に、波打つ水面のような へき開面、断層が見えます。 これは「有」でしょうか? それとも「無」ですか? 00000000と0は同じものですか?違うもの? 答えが全く出せない時はね。 その問い自体が前提としている意味の「域」が狭いからです。 地球上にあっては上下は明確なものだが、宇宙ではそうではない。 上下は決定されたものではなくて、好きに決めて良いものに変わる。 先ほどのゼロについてもそう。 単なる数字と思えば同じにもなるけれど、あらかじめ決められた 桁数に入っているヌルだと思えば、それはデータとなり、単なる 数値ではなくなる。 ガラスのへき開面は、物理的実在であるにも関わらず、その厚みは ゼロ。 無、という概念は「何かが無い」という意味でしかありません。 ルビンの壺同様に、無も有と合わせて存在することで意味を持つ 「地と図」の関係にあります。 一切の有と切り離されて存在する無は、ありません。 自明の理です。 無、なんだから。
お礼
無 と言うものが在る訳じゃないという事でしょうか? ガラスのへき開面って厚さは0何ですか? 私には理解できませんねえ。 >一切の有と切り離されて存在する無は、ありません。 どうもありがとうございます。
- 雪中庵(@psytex)
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全ての存在は確率的分布を以って存在している。 そうした確率波動性によれば、同じ波長&強度のレーザー 光を位相をずらしてハーフミラーで同軸上に導けば干渉に よって闇になるように、いかなる存在を無限に詰め込めば、 ある波動には必ずその反対の位相の波動が約束され、 無と等しくなる。 そこにおいて、闇にある波動を加える事と、無限に詰まった 状態からある波動を引く事=それによって相殺されていた 波動が顕在化する事は等価となる。 つまり、加える事と引く事は等価なのだ。 我々は、存在の周りの“何も無い所”を底と考えるが、実は 存在とはそこからの“高さ”ではなく、高さがどうあれ確率 分布が平らならそこが基準面=無になる、即ち確率分布の 偏りこそが存在の本質であって、無と有は必ず相補的に 派生するのだ。
お礼
でも実際には確率分布だけではなく 法則に従ってエネルギーや物質は個性を持っていますよねえ 存在を考えるならその個性で説明しないと何が存在か分かりませんよねえ 酸素という個性があるから 酸素が存在すると言える 狐という個性があるから 狐という存在がいると言える。 人間という個性、精神があるから 精神という存在が在ると言える。 無が基準面で 加えることと引く事が等価?そうかなあ? どうもありがとうございます。
「無」も哲学で議論されているかもしれません。 記憶って雑多に覚えていると、ごちゃごちゃで何が重要かなんてわかりません。 余計な情報は消した方がいいですね。 なくしていく過程で気づくことだってあります。 山積みの物質や情報を頼り固執していると、気休めにはなりますけど、やはり抽象化できませんので、テキスト状の長いものが頭をいっぱいにします。自己肥大の理想ばっかりみて目標に向かっていることで安心したりします。スモール化すれば実は足りなかったものに気づくことがあります。 意外になくしていく過程で本当に足りないものって気づくものです。 不安やスキームを消して「無」にすることなのかなと私はおもってます。 そのままだと立ち止まってたり、モラトリアム状態ということもありえます。 「無」になるからとらわれず、何かがはじまるのかもしれないですね。
お礼
無になるから何かが始まる。 命を連想しますねえ。命が無に帰るから新しい命が始まる。 不安やスキームを消して無にする。 つまり無がある という訳ではなですねえ。 一度無にして、無になってまた始まるということなんでしょうね どうも大変ありがとうございます。
- a_hona
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無用の用とは全く別ですね。 無用の用とは、能ある鷹は爪を隠すに似た、処世術を説いたものではないでしょうか。 頭からっぽの方が、夢を詰め込めるなんて言葉もありますし、アホの方が幸せ、知ってアホになるのであるならば、それも又一つの処世術とも見れます。 重宝されて人生を磨耗するくらいなら、見向きもされないが自分を大事にできる人生の方がいい、とか。
お礼
無用の用と 無がある から有もあり得るとは別というわけですね 成る程 分かりました どうも大変ありがとうございます。
お礼
成る程 色々頷けます。 随分博識であられるんですねえ 参考になります、どうも大変ありがとうございます。