- ベストアンサー
吉宗が輸入した漢訳蘭書とは。
wikiによれば、「徳川吉宗が漢訳蘭書の輸入禁止を緩和し、青木昆陽、野呂元丈に蘭語学習を命じ、…」とあります。 どのような漢訳蘭書をどこから(清?、朝鮮?)輸入したのですか、教えてください。 よろしくお願いします。
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
御質問タイトルの「吉宗が輸入した漢訳蘭書とは。」限定の場合、 少なくとも『暦算全書』とその原本の『西洋暦経』などが該当するようです。 ・早稲田大学図書館>古典籍総合データベース「暦算全書」例 ※残念ながら江戸後期天保4[1833](写)のものです※ http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ni05/ni05_01614/index.html ただ、『暦算全書』は中根元圭が訓点訓読を施したことを持ち出すまでもなく、 上記のとおり漢字本なのは確かですが、その原本の『西洋暦経』については、 「吉宗は『西洋暦経』を読んでいたとする記録があるが、 これがどのような天文暦学書を指しているのかも定かではない」ようです。 享保五(1720)年一月、将軍吉宗によって禁書令が緩和され、享保十一(1726)年には、 『暦算全書/梅文鼎(撰)/雍正1(1723)年(魏氏兼済堂本)』がわが国に伝わったようですが、 下記によれば、 〇「「外なるもの」への意識:鎖国初期における日本人の海外知識の系譜:/尾原悟」 『ソフィア 23(2)/1974-07/上智大学』(41-59頁) http://repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/handle/123456789/1427 <13/20> …吉宗が天文暦数に特に関心を持っていたことは周知のことである。彼は将軍職に就いて 二年後(一七一八)渾天儀を造らせ、自らも測午儀を作って吹上御苑内に据えさせている。 …(中略)…吉宗は当時頌行していた貞享暦に誤謬が少なからずあるのではないかと、 貞享暦を奉った渋川春海の門、天文方猪飼文次郎や、関孝和の高弟建部資弘に下問して いる。明答の得られぬまま、やがて中根元圭から、天文暦数は西洋が進んでおり、 中国でも明代にリッチによって伝えられてから採用しているのに、 わが国では禁書令のため存分に輸入できないことが遺憾である旨、言上があったので、 清の梅文鼎の『暦算全書』とその原本の『西洋暦経』を取り寄せさせた。… 他関連URL 〇コトバンク>暦算全書(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説/ 世界大百科事典 第2版の解説/日本大百科全書(ニッポニカ)の解説) https://kotobank.jp/word/%E6%9A%A6%E7%AE%97%E5%85%A8%E6%9B%B8-151493 ○KAKEN科学研究費助成事業データベース ・漢訳西洋暦算書の基礎調査と近世国学者への影響に関する研究/ 2009年度 自己評価報告書 <PDF>※クリック(URL直貼付エラーのため) https://kaken.nii.ac.jp/d/p/18500760/2009/8/ja.ja.html <2/5> 2.研究の目的 享保5年(1720年)1月、第8代将軍徳川吉宗によって禁書令が緩和されるが、 これによって享保11年(1726年)には、梅文鼎遺著『暦算全書』がわが国に伝わった。 また、翌年には『祟禎暦書』系の三角関数表も舶載され、建部賢弘らに貸し出された。 これ以後、『西洋新法暦書』『律暦淵源』-『暦象考成』(42巻)『律呂正義』(5巻)『数理 精蘊』(53巻)-『暦象考成後編』など西洋の新しい天文学を紹介する漢訳西洋暦算書が つぎつぎと舶載された。 幸いにもこれらの書籍が中国船によって持ち込まれた様子は記録として残されているが、 その後どのようにして日本国内に流布したかと言う伝播する情報は皆無といってよい。 例えば吉宗は『西洋暦経』を読んでいたとする記録があるが、これがどのような天文暦 学書を指しているのかも定かではないのである。… 上記では一方が「…取り寄せさせた。」に対し、他方では「…伝わった。」と 曖昧表現ではありますが、 ・「西学(Western Studies)をめぐる中日両国の近世-方以智の場合-劉岸偉」 『札幌大学教養部紀要第39号:(1991年10月)』(71-121頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110004853065 「3 徳川日本における『物理小識』」<29/51>の記述中 彌吉光長氏は唐本の販路を考察し、次のように指摘している。 「唐本の舶載は詰物扱いで、その量は少く、はじめて入荷する新刊書は幕府御用とあって、 紅葉山文庫や昌平黌をはじめ、老中若年寄、長崎奉行以下の役人に買上げられて、 民間に回るには、その後数年を要したであろう。 稀に入荷部数が多く、民間に売り出されたにしても、その値段が高いため、 大名や民間の愛好者の富豪の文庫に収まるくらいであった。」ことと、 コトバンクの各記述を併せ考えますと、幕府御用=吉宗と理解しました。 なお、下記などを読んでみますと享保五年正月の禁書緩和以前から、 実用のためもあってか意外と中途半端な禁制であった様子も伺えます。 〇『近藤正斎全集.第3/国書刊行会/1905』 「好書故事 卷七十四/御書物奉行臣近藤守重 撰 書籍二十四 禁書 一」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991310/119 <119~121/267>(215~218頁) 〇「鎖国下におけるキリシタン禁書『泰西水法』の伝来と流布(数学史の研究)/鈴木武雄」 『数理解析研究所講究 巻1787 数学史の研究/京都大学数理解析研究所/2012.4』(116-126) http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/172778 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
その他の回答 (6)
- Kittynote
- ベストアンサー率84% (32/38)
No.2&No.4&No.6の Kittynote です、毎度お騒がせして申し訳ありません。 No.6投稿分の一部訂正の件 (誤)『商船載来書目』→(正)『商舶載来書目』 「商舶載来書目」とは認識していましたが、 論文の引用箇所を安易にコピペしてその誤記に気付かないまま、 投稿文内でも再コピペして誤記を増やしてしまいました。 論文側を再確認すると<2/25>では『商船載来書目』、 一瞬『商舶載来書目』とは別物か?とも思いましたが、 論文内の他の箇所では複数『商舶載来書目』と正記されていることから、 やはり『商舶載来書目』が正しいものと再確認しました。 御質問板を汚して申し訳ありませんm(_"_)m 以上 御報告まで あと、気になっていることがあります。 No.6投稿で「御書物方留牒・日記」で書名が確認出来ても 漢訳洋書名が事前に分からなければ宝の持ち腐れとカキコミましたが、 …それは『商舶載来書目』でも同様のことかも… うぅ~ん、それなら先ず漢籍類の書目一覧などをピックアップして 逐一その出自・来歴を確認して漢籍か漢訳洋書かを判別、 書名に西洋とでも付されていない限りは膨大な抽出作業、 その上で三十年分以上の「御書物方留牒・日記」などから 漢訳洋書の抽出となりますと、要する日時は見当もつきません。 どうもこの方法には無理があるのかもしれません(><)
お礼
ご丁寧に訂正してくださって真にありがとうございます。 (誤)『商船載来書目』→(正)『商舶載来書目』 私は気づきませんでした。と言うよりは、パッと見て全く同じに見えましたから。 書名を見てもほとんど全て内容を推定できませんね。 まして、漢籍か漢訳洋書かを判別することなんて、とてもじゃないですが、できることではありません。 Kittynote様のご指導のお陰で疑問は解けました。 予測した以上の多くの周辺知識も得ることができました。 深く感謝申し上げます。
- Kittynote
- ベストアンサー率84% (32/38)
再び失礼致します。 >質問が拙くてご迷惑をおかけして、真に申し訳ございません。[No.4補足コメント欄] >今後、正確に質問内容を書くように十分注意します。[No.4お礼コメント欄] いえいえ、過分な心遣いを賜りまして恐縮至極でございます。 こちらこそ申し訳ありせんm(_"_)m 全くノー・プロブレムです。 と、申しますのも「吉宗が輸入した漢訳蘭書とは」のフレーズを 素直に「吉宗治世下頃に輸入した漢訳の洋書(・洋学)など」と理解すれば済むところを、 当初のアプローチ方法として、敢えて「吉宗の意向で輸入した漢訳和蘭語書」と 極めて限定的に私自らが目標設定しただけの話でした。 ところが、思いの外、否、「例えば吉宗は『西洋暦経』を読んでいたとする記録があるが、 これがどのような天文暦学書を指しているのかも定かではないのである。…」事からも 薄々予見はありましたが、「暦算全書」に比べやはり肝心の「西洋暦経」の手懸かりが 掴めなかったために、No.4投稿にて現状報告を自虐的に表現したに過ぎません。 wikiの記述「漢訳蘭書」を御提示されたに過ぎない kouki-koureisya 様には何らの落ち度もございませんので、一切苦言・苦情はありません。 よって「今後、正確に質問内容を書くように十分注意」等のお気遣いは 全くもって不要でございます^^ さて、またまた新ネタがあるわけではありませんが、 と、その前に「(清?、朝鮮?)」に関しましては、例えば下記によりますと、 ・「西洋に対しての日本と朝鮮の対応の比較:シーボルトとハーメルを手がかりに/ 尹基老(YOON Ki Ro)」 『県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要 6 /2005-12-20』(293-303頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110005000926 どうやら当時の朝鮮では「洋書・洋学」どころでは無い状況も伺えます。 条件を本来の「吉宗治世下(+~没前)頃に輸入した漢訳の洋書・洋学など」に戻しても、 具体的な書籍となりますと思いの外、難解ですね。 改めて、調べて見ましたところ、直接の回答でなく申し訳ありませんが、 国立国会図書館所蔵の『商船載来書目』が一番の近道のようではあります。 また「大庭脩」氏の著書などでも情報は得られそうです。 ・「江戸時代に舶載された法帖の研究/大庭脩」 『書学書道史研究 Vol.1998 No.8/書学書道史学会』(3-27頁) https://www.jstage.jst.go.jp/article/shogakushodoshi1991/1998/8/1998_8_3/_article/-char/ja/ <2/25> …国立国会図書館にある『商船載来書目』である。長崎の書物改役向井富(字元仲)が、 文化元年(一八〇四)八月に自家の資料によって作ったもので、元禄六年(一六九三)から 享和三年(一八〇三)の間に初めて渡来した書籍名をいろは別に、そしていろは各項の中 は年代順に並べた書目である。甚だ重宝であるが、元禄六年に書物改役が大意書を作成 することになって以後の資料なので、元禄五年以前に渡来していても新渡扱いにしてい る場合があることが難点で、一応要心して使わなければならぬ。…以上 また、下記は「西洋暦経」<13/39>調べの途中で出会した論文なので、 これも直接の回答には繋がりませんが、吉宗の書籍に対するこだわりは見てとれます。 ・「徳川吉宗と大清会典 享保時代における日清交渉の一斑/大庭脩」 『法制史研究 Vol.1971 No.21/法制史学会』(61-95頁) https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalha1951/1971/21/1971_21_61/_article/-char/ja/ さてさて、WEB上で『商船載来書目』に代わる何かないものかとの流れから、 「紅葉山文庫」が浮かび、取り敢えず辿り着いたのが ・国立公文書館所蔵資料特別展>将軍のアーカイブズ>研究する将軍> 33.遠西奇器図説録最 http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/shogunnoarchives/contents/33.html また、途中から気になっていた「御書物方日記」のことを下記で確認。 ・国立公文書館所蔵資料特別展>将軍のアーカイブズ>徳川吉宗の閲覧資料> 20. 御書物方留牒 http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/shogunnoarchives/contents/20.html この流れに乗れば、あとはせっかく辿り着いた国立公文書館。と言っても、 以前「江戸幕府日記」を閲覧するもド素人の私には崩し字が壁となって敬遠気味の所。 ・国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/ 検索キーワード[御書物方留牒]で17件ヒット。 うち「正徳6、享保2・3・5・6・8・10・11・14~18」 同じく[御書物方日記]で210件ヒット。 うち「享保4・6前・6後・9・12・13・19・20前・20後・元文1前・1後~5前・5後・ 寛保1前・1後~3前・3後・延享1前・1後・2前・2後」などと 享保7年欠落?以外の将軍在位期間中ほかの読書歴等が確認出来そうな様子。 ここで、試しに享保11年に有るはずの「暦算全書」を確認して見ますと、 ・御書物方留牒 内閣文庫>和書>和書(多聞櫓文書を除く)>御書物方留牒 [請求番号]181-0028[冊次]11[書誌事項]写本,享保11年月日~写本,享保11年月日 [マイクロフィルム]000200[開始コマ]0022 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=default&BID=F1000000000000053279&ID=M2005060918355303627&TYPE=&NO= ※試しにURLを貼付してみましたが、エラー表示かもしれません。※ No.11(全16件中) 件名 御書物方留牒 [181-200]→Page186 に「暦算全書」の記録が見てとれます。 ただ、各書籍名は読み取れても文章部分の崩し字が(私の場合)障壁のため、 単なる入庫記録か将軍の読書記録かは定かではありませんが、 少なくとも紅葉山文庫に存在する書籍の出入確認にはなりそうです。 流れの勢いだけで辿り着いものの、漢訳洋書名が事前に分からなければ宝の持ち腐れ、 迷走から脱したつもりが、今度は迷宮に落ち込んでしまいました(><) 以上 条件に当て嵌まりそうなのは「遠西奇器図説録最」程度と 文字数の割に中身が無いことは自覚しておりますので、 全く以て御参考にはなり辛いと思いますが たとえ僅かでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
お礼
再度の丁寧なご回答真にありがとうございます。 「西洋に対しての日本と朝鮮の対応の比較:シーボルトとハーメルを手がかりに/尹基老」を読むと 朝鮮から漢訳洋書は、入ってきていないようですね。 日本も朝鮮もともに“鎖国”政策を採っていたのに日本が真っ先に近代化できたのは、長崎出島の存在が大きいという解説は大いに参考になりました。 「江戸時代に舶載された法帖の研究/大庭脩」で、長崎に入荷した書物の輸入手続き、幕府老中への報告、市販されるいきさつなどがよく分かりました。 値段交渉までしていますね。 商売のためですから当然と言えばそれまでですが、読んで楽しかったです。 「長崎会所の役人の一つである書物目利が、唐船頭(商人)と荷物を中心にして、幾らの値段で売るかの交渉を行ない、その経過を記録した「直組ねぐみ帳」を作る。唐商人は値段が折り合わねば商品を持ち帰ることもでき、売却に同意すれば捺印してその 意志を示す。」 一つのテーマで深く追求していくと全体の流れがよく分かります。 「国立公文書館所蔵資料特別展>将軍のアーカイブズ>徳川吉宗の閲覧資料」は、簡潔で要点が分かりやすく大変参考になりました。 「展示資料の『新修南昌府志』は、万暦16年(1588)に刊行された、江西省南昌府の最古の地誌。享保6年(1721)に加賀国金沢藩主の前田綱紀から献上された明代の府志13部の一つです。これら前田家献上本が、吉宗の中国地志収集を促しました。本書は中国では失われ、唯一展示資料のみ現存。」 吉宗と言えば“暴れん坊将軍”くらいしか思いつかなかったのですが、考えを改めました。 「書物改役の第一の仕事は、調査した書籍の概要を記した「大意書」を作成して長崎奉行に提出すること。長崎奉行はこれを江戸の老中に進達し、御用書(幕府が購入する書籍)の有無を伺いました。展示資料は、宝暦4年(1754)に入港した唐船が積んできた『十三経註疏』『政刑大観』ほか四百数十種について、その概要を向井元仲が記した「大意書」。内容や刊年だけでなく、「脱紙」「磨滅」など書籍の状態も細かく記されています。」 この「大意書」を見ましたが(読むところまではなかなか…)大変な作業ということが分かりました。 それもしてもこんなに大量の書物を運んでくるのですね。 売れなければ持ち帰るとは驚きです。 「遠西奇器図説録最」も勿論参考になりました。
No.1・3です 補足を頂戴しましたが、御真意を測りかねています No.1への補足 長崎大学附属図書館所蔵の漢訳洋書は、近代化黎明期つまり幕末のものですね。 私は、吉宗の時代、キリスト教以外の洋書輸入解禁策でどんな書籍が日本に入ってきたのかを聞いています。 No.3への補足 書籍に関しては有用なすばらしいサイトを紹介して下さってありがとうございました。 その場しのぎの補足は御無用に願います。 当方がお願いしました具体的な論拠の資料のご提示もなく、本題よりも片言隻語の揚げ足取りにご興味がおありのようですので本件に関しましては以降の回答は控えさせていただきます。
- Kittynote
- ベストアンサー率84% (32/38)
「蘭書」(=オランダ語で書かれた書物。オランダの書物)部分を横に置いたまま、 「西洋暦経」の実態も不明なまま、安易に大胆なカキコミ投稿に走った^^ No.2の Kittynote です、再度、失礼致します。 実は、小ネタに過ぎませんが、『徳川実紀』に「暦算全書」「西洋暦経」の記録が あることと、記録上では、先に「暦算全書」を唐船から入手して訳すべしと命じ訳本、 後に「西洋暦経」の入手を長崎奉行をもって唐商に令した流れなのか、 少なくとも同時入手ではないようです。 〇『德川実紀.第六編/成島司直等編/経済雑誌社/1904』 「有德院殿御實紀附錄卷十五」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917891/177 <177/413>(341頁下段9~21行目) …當時用らるゝ貞享の曆法は疎脱多く。誤も又少からざるにやと。天文方澁川助左衞門 春海が弟子猪飼文次郎某に御尋有しに。文次郎其わざにいたりふかからざれば答へ奉る 事あたはず。かさねて彦次郎賢弘にとはせ給ひしに。彦次郎賢弘京の銀工中根條右衞門 玄圭といふを推擧せり。よりて條右衞門玄圭を府に召れ御質問どもありしに。かれが申 處ことごとく明白なりければ大に御旨にかなひ。其ころ唐船に曆算全書といへる書をも たらし來りしを。條右衞門玄圭に譯すべしと命ぜられしに。やがて譯本一通を進らせける。 しかるにこの書は別に全書ありて其中より抄錄したるものなれば、その全書をみざらん には本意は明辨しがたしと玄圭申しければ。やがて其全書をもち來るべきよし。長崎の 奉行萩原伯耆守美雅もて唐商に令せらる。はたして曆算全 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917891/178 <178/413>(342頁上段1~10行目) 書は西洋曆經のうちより抄錄せしものなりしかば。西洋曆經の書本をもて參りぬ。これ をも條右衞門玄圭にみることをゆるされしに。これにたよりて律襲曆(一名白山曆)をつ くりて奉れり。其此條右衞門玄圭。凡曆術は唐土の法みな疎漏にして用ひがたく、明の 時に西洋の曆學はじめて唐土に入し後。明らかになりし事少からず。本邦には耶蘇宗を 嚴しく禁じ給ふにより。天主または利瑪竇などの文字のある書は。ことごとく長崎にて 燒捨るをきてなれば。曆學のたよりとする書甚だ乏し。本邦の曆學を精徴にいたらしめ むとの御旨ならば。まづこの嚴禁をゆるべ給ふべしと建議せしといへり。…以上 さて、No.2前投稿の冒頭 「少なくとも『暦算全書』とその原本の『西洋暦経』などが該当するようです。」と 安易に大胆なカキコミをしてしまいましたが、『西洋暦経』の実在は伺えるとしても、 その実態が不明であることと、当時中国の漢訳本にはイエズス会士などの関与が多く、 また会士にはイギリス・フランス・イタリア・ドイツ・スイス方面などの出身者が多く、 オランダ出身者は極僅かの様子から考えますと、 …現にNo.2前投稿の『暦算全書』の後に続く、『祟禎暦書』『西洋新法暦書』『律暦淵源』 『暦象考成』『律呂正義』『数理精蘊』『暦象考成後編』など、 何れもオランダと無関係の様子からも… 「徳川吉宗(1684-<将軍在職1716-1745>-1751)」没前までの間に、 清で「蘭書(=オランダ語書物)」の「漢訳(=他国語(オランダ語)の漢文訳)」が出版され、 吉宗の意向に基づいて輸入された「漢訳蘭書」となれば、 出版自体の可能性も限りなく低く、No.2&No.4投稿のとおり吉宗の意向については、 現状では『暦算全書』『西洋暦経』以外の記録が見つかりませんので、 「漢訳洋書」まで広がれば別ですが、「吉宗が輸入した漢訳蘭書」は有りませんとの トンデモ回答に向かって迷走するしかないようです(><) 「漢訳(=他国語(オランダ語)の漢文訳)」を清等に限定せず、日本(人)を含めたとしても、 「オランダ風説書」を除けば、吉宗没後の『解体新書(1774)』等まで待たないといけない のかもしれません。 以上 支離滅裂で誠に申し訳ありませんm(_"_)m
お礼
再度のご回答真にありがとうございます。 『德川実紀.第六編 有德院殿御實紀附錄卷十五』を読みました。 いつものことですが、読み始めると面白くて止められません。 教科書で「享保5年 漢訳洋書輸入の禁を緩和」と知っても上辺だけのことしか分かりませんでしたが、この『徳川実紀』を読むとそのときの歴史を直に感じるような気がします。 さて、「吉宗が輸入した漢訳蘭書」とした質問文が的外れで真に申し訳ありません。 wikiをコピペしたのがそもそも間違いでした。 主旨は、「吉宗の時代とその前後に、どんな書籍(洋書)が入ってきたのか」です。 この疑問については、 「「外なるもの」への意識 鎖国初期における日本人の海外知識の系譜 尾原悟」 『ソフィア 23(2)/1974-07/上智大学』 で解決できました。 私は“禁書”とか“鎖国”という言葉に惑わされていたようです。 この論文によれば、禁書の政策は、寛永7年(1630)に始まったそうです。 そして、1720年に緩和していますから、90年間続いたことになります。 一方、人文科学的思考は禁書解禁以前から花開いているので、禁書期間中になんらかの刺激、それも外国からの刺激があったのでは、というふうに考えました。 今、気づいたのですが、長崎にはオランダ人や中国人がいっぱい居たわけですから、「禁書が叫ばれているのに」(論文の表現)実際にはいろんな書物に接する機会があり、「禁書令下にもかかわらず密かに流布していた」(論文から)禁制本もあったわけですね。 知的好奇心を抑えることはできませんね。 納得しました。 「西学(Western Studies)をめぐる中日両国の近世―方以智の場合―劉岸偉」 『札幌大学教養部紀要第39号 (1991年10月)』 驚きました。 「イエズス会士 マテオ ・リッチ は布教のかたわら,自ら中国語を勉強し,(中略)ユークリッド幾何学など多くの 西洋学術書を漢訳した。」 私は、中国人が訳したと思っていました。 また、この中の「3 徳川日本における『物理小識』」に興味ありです。 表3 『物理小識 』の流布状況 によれば、1712年 西川如見『天文義論』、1713年 新井白石『采覧異言』で『物理小識』の一部が引用されていますが、禁書であるから引用したことを伏せていると解説されています。 大変、参考になりました。 懇切丁寧なご教示に感謝申し上げます。 今後、正確に質問内容を書くように十分注意します。
補足
再度のご回答真にありがとうございます。 「漢訳蘭書」とせず「漢訳洋書」とすべきでした。 質問が拙くてご迷惑をおかけして、真に申し訳ございません。
No.1です 補足を頂戴しました 資料の入手可能と思われるところは既に御紹介してあります。 ホームページもあります ご自身で検証願います。 書籍に関するご質問ではなかったのでしょうか 事例に一々拘られるのであれば下記をお願いします。 >清に帰国して見つかれば処刑されていたのですか。 法を破った人間を捕縛して放置する国家があるとお考えですか お考えになられた論拠となる資料をご提示願います。 >朝鮮人参の輸入は対馬藩ではなかったのですか 当方は中国船から購入可能とのみ記しています 中国船からはあり得ない対馬藩に限定されたいた、とされる論拠となる資料をご提示願います。
補足
再度のご回答ありがとうございます。 書籍に関しては有用なすばらしいサイトを紹介して下さってありがとうございました。 ただ、ご回答の大半が書籍以外の事柄でしたので、つい疑問に感じたことをお聞きした次第です。 >1.中国の貿易船は自由に長崎に渡来して来ていました。 >2.清王朝は朝貢貿易を基本としていましたので、中国の冊封国として朝貢しない国との交易は禁止していまいた。 >3.つまり長崎に来航してきていた中国船は清にいわせれば密貿易船でした。 >4.見つかれば処刑されました。 3項の確認ですが“密貿易船”ですね。 密貿易船とは知りませんでした。参考になります。 それなら4項は分かります。「処刑」または「処罰」されるでしょう。 >5.清の冊封国であった李朝鮮も全く同様の政策を実施していました。 >6.李朝鮮の商人は自分で船を仕立てる危険を避けて、この中国の貿易商人に販売していました。 >7.これによって日本は朝鮮人参などの漢方藥を輸入することができていました。 「これによって日本は朝鮮人参などの漢方藥を輸入することができていました。」と説明(回答)されたものですから、私の読解力では「当方は中国船から購入可能とのみ記して」いると推察できませんでした。 李朝鮮の商人の一部には朝鮮人参を中国の貿易商人に販売し、そして商品が長崎へ運ばれたこともあるでしょう。 李朝鮮の商人は、中国の商人が対馬藩より高く買ってくれさえすればよいわけですからね。 それは理解できます。 >朝鮮人参の輸入は対馬藩ではなかったのですか。 >中国船からはあり得ない対馬藩に限定されていた、とされる論拠となる資料をご提示願います。 「対馬藩だけではないよ」で済む話だと思いますが……。
経済学部分館所蔵漢訳洋書概要 - 長崎大学附属図書館 近代化黎明期 ... gallery.lb.nagasaki-u.ac.jp/dawnb/economy.html 漢訳蘭書の現物を閲覧できます 中国の貿易船は自由に長崎に渡来して来ていました。 清王朝は朝貢貿易を基本としていましたので、中国の冊封国として朝貢しない国との交易は禁止していまいた。 つまり長崎に来航してきていた中国船は清にいわせれば密貿易船でした。 見つかれば処刑されました。 清の冊封国であった李朝鮮も全く同様の政策を実施していました。 李朝鮮の商人は自分で船を仕立てる危険を避けて、この中国の貿易商人に販売していました。 これによって日本は朝鮮人参などの漢方藥を輸入することができていました。 日本は清や李朝鮮のように鎖国をしていた訳ではありません。 交易を幕府が独占して長崎奉行所で一括管理していただけです。 李朝鮮が日本と接触を持っていたのは通信使節という制度による来航だけです。 通信使節は将軍の代替わりの度に慶賀の使節として来日していました。 あとは特例として、対馬藩が米を入手するために李朝鮮と交易関係にありました。 家康は秀吉によって悪化した日朝関係を修復するためにこの対馬藩の行為を認め、むしろ外交窓口として利用したのをそのまま江戸幕府は継承しました。 中国から必要な物資は自由に手に入っていましたので、李朝鮮の産物で日本人にとって魅力があるのは漢方藥の原材料だけでした。 以上のような状態でしたので、輸入するとかなんとかという大上段に構えた話ではなく、商品として中国の書籍が購入されそのなかに漢訳された蘭書が入っていたということです。 吉宗が認める前までは、聖書を漢訳したものが流入することを警戒して禁止していました。 杉田玄白による解体新書の著作にも見られますように、オランダ語の文書は自由に入ってきていました。 オランダが商館を設置するために布教行為はしないことが絶対の条件でした。 オランダ自身も建国の精神にもあるように布教などには興味を持っていませんでした 外科技術である蘭方医を学ぶ人達や幕府の天文方のように観測技術を学ぶ人達は長崎に留学してオランダ語を収得していました。 杉田玄白等はこの手間を省いて直接翻訳に挑戦したものです。 別に杉田玄白等が嚆矢だった訳ではありません。 漢籍蘭書が歓迎されたのは、江戸や大坂に居ながらにして慣れ親しんだ漢文で読むことができたためです。 いちいち見慣れないオランダ語を取得する手間が省けました。 中国という国は、政策あれば対策あり、のお国柄です。 とくに華僑と呼ばれる人達は、政府というものは利用すべきもので統治されるものではない、という考え方を持つ人達です。 自分達の利益に貢献すれば政府に従い、有害であれば無視しました。 結果として一族が世界中に分散して暮らしています。 自分達が習得するために外国語を翻訳するなどというのは極当然のことです。 現在も全く変わっていません。 歴史的に、時々に蘭学禁止だの洋学禁止だのということはありましたが、枝葉末節の些細な史実だの資料だのに気をとられずに、歴史全体の流れを読み取ることをお勧めします。 資料をみたければ国立国会図書館へいかれれば大概の書籍はみれます。 地方に分散している古文書類については国文学研究資料館がデータベースを作成しています。 ご自身で足を運んでください。
補足
長文のご回答ありがとうございます。 長崎大学附属図書館所蔵の漢訳洋書は、近代化黎明期つまり幕末のものですね。 私は、吉宗の時代、キリスト教以外の洋書輸入解禁策でどんな書籍が日本に入ってきたのかを聞いています。 理解できない箇所がありますので教えてください。 >中国の貿易船は自由に長崎に渡来して来ていました。 >清王朝は朝貢貿易を基本としていましたので、中国の冊封国として朝貢しない国との交易は禁止していました。 >つまり長崎に来航してきていた中国船は清にいわせれば密貿易船でした。 >見つかれば処刑されました。 中国の貿易船は自由に長崎に来ていたが、清に言わせれば密貿易船だから、清に帰国して見つかれば処刑されていたのですか。 >清の冊封国であった李朝鮮も全く同様の政策を実施していました。 >李朝鮮の商人は自分で船を仕立てる危険を避けて、この中国の貿易商人に販売していました。 >これによって日本は朝鮮人参などの漢方藥を輸入することができていました。 朝鮮人参の輸入は対馬藩ではなかったのですか。
お礼
丁寧なご回答真にありがとうございます。 質問の背景です。 1.18世紀前半、綱吉から吉宗の時代にかけて人文科学的な思考が一斉に花開いた感じがします。 徂徠、仁斎、昌益、梅岩、白石といった、儒教的定型をやぶった思想家たちがむらがり出ています。そして、これは中国やオランダからの舶来の書籍や文物などがひとびとの脳細胞を刺激した結果というほかないと、これは勿論私ではなく、司馬遼太郎の言です。 そこで、吉宗の時代とその前後に、どんな書籍が入ってきたのか、興味を持ちました。 2.書籍と言えば印刷術も考えねばなりません。 当時の日本は版木でした。 世界初の金属(銅)活字は朝鮮ですから、漢訳蘭書と言えば朝鮮も何か関係あるのかな、と思いました。 日本印刷産業連合会 http://www.jfpi.or.jp/printpia/part2_03-03.html >なお、下記などを読んでみますと享保五年正月の禁書緩和以前から、 実用のためもあってか意外と中途半端な禁制であった様子も伺えます。 >「好書故事 卷七十四/御書物奉行臣近藤守重 撰 書籍二十四 禁書 一」 そうです。ズバリこれです。 吉宗が輸入禁止を緩和する以前に、西洋の人文科学系の書物が日本に入ってきているはずだと、思っていました。 日本人独自の発想だと思いたいところですが、何かがきっかけとなったはずだと思っていました。 人は、知的好奇心を抑えることはできませんから、長崎奉行所のなかに、禁書の禁をやぶってこれらの書物を買った役人がいたのでしょう。 想像すると楽しくなります。 もう少し、ご教示のサイトを全て読んでみます。 >幸いにもこれらの書籍が中国船によって持ち込まれた様子は記録として残されているが、 その後どのようにして日本国内に流布したかと言う伝播する情報は皆無といってよい。 中国船で持ち込まれたのですから、中国で翻訳され印刷されたのでしょうね。 参考になりました。 いつもびっくりするような資料を教えて下さって感謝の気持ちでいっぱいです。