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御成敗式目について(鎌倉時代)

御成敗式目が、世に出てきた背景を教えて下さい。 それと、鎌倉時代を理解する上で、御成敗式目で書かれている50余条に及ぶ内容は、実際にそのような事実がかなりの頻度で起きており、鎌倉幕府として困っていたと理解して良いのでしょうか?例えば、「神社を修理して祭りを大切にすること」とあるのは、「神社が荒れていて、祭りが大切にされなくなった」というような……。

noname#205122
noname#205122
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回答No.1

鎌倉時代に伴うような武家社会における法律みたいなのがなくて、 武家社会を統制する法律や生活のうえでの規則みたいなのを決めないと、武士の所領問題、 貴族と社寺と地頭と領家の諍いが増えたため、御成敗式目ができました。

noname#205122
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