日本人の死生観と死刑についての個人的見解

このQ&Aのポイント
  • 日本人は死刑に賛成し、自殺者も多いが、死に対してネガティブではない
  • 日本人にとって「生」とは自由な行動期間、「死」とは願望が絶たれる機会
  • 死刑については西洋人の興味と日本人の同情が異なる
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日本人の死生観

日本人は国民の大部分が死刑に賛成しています。 また、日本人は自殺者も多いです。 これは、日本人は死に対し、西洋人ほどネガティブに考えていないのかもしれません。 一方で、脳死とかについては 西洋よりも慎重で、また、安楽死は認められていません。 個人的見解ですが、死刑については、多分西洋人は《犯罪者の将来を(神の立場から・正義の立場から)どのように裁くか》に興味が大きく、日本人にあっては《無念の思いで死んだ人とその家族への同情》に関心が大きいのだと考えます。 日本人にとって「生」とは神のおぼし召しでなく、自身の思いでそれなりに自由に行動できる期間であり、「死」とは自身の願望が絶たれる機会であると想像しているのでしょう。 そこで質問です。抽象的な問題だと思いますが、日本人にとって、「生」と「死」とは何でしょうか? ただ、これでは漠然としすぎていますので、もし、死刑囚が重篤な病気にかかったら、延命治療はすべきか という点から考えてみたいと思います。

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回答No.2

>もし、死刑囚が重篤な病気にかかったら、延命治療はすべきか という点から考えてみたいと思います。 恐らく現実的な選択肢は、「ホスピスケア」か「延命治療」かの二択になるかと思います。 (何も治療を受けさせないのは、死刑囚とは言え違法のため。) 日本人は、「お前が死ねば許す。」と言う発想です。 「ホスピスケア」を、支持する人が多い気がします。 欧米人は、「お前は死んでも許さない。独房にぶち込んで一生死ぬまで苦しめてやる。」と言う発想です。「延命治療」を支持する人が多いかもしれません。 ただ、一般人には手が出せない「高額医療をしてまでの延命治療」は、さすがに反対するでしょうが。 私個人の意見は、「ホスピスケア」を支持します。 これは囚人だから「ホスピスケア」がお似合いと言う意味ではなくて、根治不可能な病は無理に延命しないで死を迎えるべき。と言う気持ちが私自身にあるからです。勿論私が、末期癌などの根治不可能な病に倒れたら、延命治療は望みません。 * これはあくまでも、欧米人の死生観や日本人の死生観に関する本を読み比べた私の主観です。 特に、明確な統計や研究結果ではありません。

luna_mond
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >私個人の意見は、「ホスピスケア」を支持します。 死刑に限らず、「生」とは何かを考えると 本当に難しいですね。 人間はいつかは死ぬことになっていますからね。つまり、殺人事件でも 加害者が被害者を殺さなくとも いつかは 死ぬ運命にあるし、加害者だって 死刑にしなければ いつまでも生きるものではありませんからね。 それから、死刑囚でもなくとも、懲役を食らえば、酒・タバコなど 寿命を縮めるものは断ち切られ、規則正しい生活を余儀なくされ、メタボにもならず、結果的に寿命が延びてしまいます。

その他の回答 (6)

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.7

"日本人は死に対し、西洋人ほどネガティブに考えて  いないのかもしれません"     ↑ 西洋人はキリスト教文化に根ざした考え方を します。 生命についてもしかりです。 神が生命を与えたのだから、神ならぬ人間が 生命を奪ってはならない、という考えが根底に あるのです。 自殺もそうです。 神から与えられた生命ですから、自分でも 自由に処分できません。 だから、キリスト教では自殺は最大の悪と されます。 これに対して、日本は武士道が根付いています。 だから死んで責任をとる、取らせるという考え方が あります。 仏教による諦念感も自殺の多さに関係している のでしょう。 ”一方で、脳死とかについては 西洋よりも慎重で、また、  安楽死は認められていません”     ↑ これは心身一元論と心身二元論の違いです。 西洋ではデカルトの心身二元論的考え方をとります。 つまり、肉体は魂、心の入れ物に過ぎない、と いう考えです。 だから、脳が死ねば、終わりとなるのです。 だから、臓器移植にも抵抗がありません。 これに対して、日本は心身一元論をとります。 森羅万象すべてに魂、心が宿る、と考えます。 だから、身体の一部、内臓にも魂が宿ると 考えます。 だから、脳死や臓器移植には抵抗があるのです。 脳が死んでも心臓が動いている、身体は暖かい、 出産もできるのに、死んだといえるのかよ、 ということです。 ”死刑囚が重篤な病気にかかったら、延命治療はすべきか”      ↑ 延命治療すべきです。 そして、自分は悪いことをしたから死刑になるのだ、 ということを認識しつつ死んで行くのです。 (死刑執行の停止) 刑訴法 第479条 1.死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、  法務大臣の命令によって執行を停止する。 2.死刑の言渡を受けた女子が懐胎しているときは、  法務大臣の命令によって執行を停止する。 3.前2項の規定により死刑の執行を停止した場合には、  心神喪失の状態が回復した後又は出産の後に法務大臣の  命令がなければ、執行することはできない。

luna_mond
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >これに対して、日本は武士道が根付いています。 だから死んで責任をとる、取らせるという考え方が あります。 武士道って言ったって、当時は武士の生き方であって、百姓や町人には当てはまらなかったはずです。 そもそも、今の日本人に 武士道のような美学があるでしょうか? 臆病なくせに欲張りで浅ましく未練がましいというのは 現代人気質ですよね。 ところで、北斗の拳のジャギはご存知ですか? ジャギって すごく卑しい根性の持ち主みたいですが、人間の浅ましさを象徴していると思うんですよ。 >延命治療すべきです。 そして、自分は悪いことをしたから死刑になるのだ、 ということを認識しつつ死んで行くのです。 健康な死刑囚でも執行時にどれだけ認識するでしょうかね。例えば 宅間守なんかは、hekiyuさんの考えに基づけば 死刑が適切ではなかったと思いますよ。 これは、死刑賛成派でも意見が割れるところでしょうね。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

>「日本人にとって、「生」と「死」とは何でしょうか? 」 ・・・ >「ただ、これでは漠然としすぎていますので、もし、死刑囚が重篤な病気にかかったら、延命治療はすべきか という点から考えてみたいと思います。」 ・・・「延命治療」とは、そもそも何か。

  • rappacho
  • ベストアンサー率50% (13/26)
回答No.5

「疑わしきは罰せず」 人が人を裁くリスクを負いながら、裁かないわけにも行かない。 それはどこの国でも同じだと思いますが、 「生まれながらに罪人」 「神様でさえ、人を裁くには、その人の死後までお待ちになる」 「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」 そういう価値観を前提にしている人と比べると、日本人は宗教的な関心がゆるいので、ためらいが少なく、人間寄りな判断に至るケースも多いような気がしますね。 どちらかと言うと死後よりも生前を大切にする。 ただいざ自分が裁く立場になったとき、死刑を選ぶ人がどれだけいるかわかりません。 自分で鳥を捌くことはできなくても、人の捌いた鳥は食べることができる人。 鳥は捌くことができなくても、魚は捌くことができる人。 いろいろです。 釣った魚にエサを与えない人が、死刑囚の延命治療は望むかも知れません。 日本人の多くは輪廻転生を信じているかもしれませんが、それにしては矛盾したこともする。 「愛の反対は憎しみではなく無関心です」

luna_mond
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • hiak123
  • ベストアンサー率16% (14/87)
回答No.4

生はお金。 死は病気、極貧。 これ以上考える暇はない。 もともと脳がないが。

回答No.3

死刑囚といえども生きている限り基本的人権を守らなくてはならいのが法治国家の日本です。 問題は、死刑囚をいつまでも死刑執行せずに生かしておく行政の態度です。 司法が死刑を決めたのであれば、行政は遅滞なく処分を実行するのが正しい三権分立です。 日本の行政が勝手に「生かしておこう」と判断しているとすれば、まさに司法に対する反逆です。 この際、新しい立法によって、「死刑判決確定後○○日以内に刑の執行をする義務」を行政に義務づける必要があるのかもしれません。 私個人は死刑に反対ですが、法治国家として正しい行政をしてほしいと思いっている一人なのです。

luna_mond
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >私個人は死刑に反対ですが、法治国家として正しい行政をしてほしいと思いっている一人なのです。 なんか、教師というか、会社の課長・部長クラスの考えに通じるものがありますね。 つまり、個人的には 学校とか会社の方針には反対だけど、ルールを守らない人には厳しいみたいな。

回答No.1

日本のような、労働集約的なジャポニカ米稲作農耕文化 +いつも同じ顔ぶれゆえの遠慮&日和見の島国文化の 融合した、世界でも稀な集団主義の文化においては、 自他の別があいまいになり、家族でさえ年老いて迷惑を かけるようになれば山に遺棄する風習があったり、国の 危機に命を捨てて特攻したり、社会に迷惑をかける事を 恥じて自殺したりするのである。 そこらあたりは、自律的な判断が重要な遊牧や狩猟文化 圏の個人主義的な西欧とは、根本的に異なる。 西欧では戒律の厳しい一神教が主流なのに対し、日本な どでは冠婚葬祭の儀式宗教である事にも表れている。 日本人は「生・死について考えた結果」(自律的に) 生きているのではなく、周囲に合せて生きているだけだ。 死刑囚の重篤な病気についても、それ自体への考察では なく、周辺の状況=経済的に余裕があれば治療して寛大 さを示し、余裕がなければ死刑執行して公益を図る、と いった融通無碍な判断になろう(ロジカルなポリシーは ない)。

luna_mond
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >周辺の状況=経済的に余裕があれば治療して寛大 さを示し、余裕がなければ死刑執行して公益を図る、と いった融通無碍な判断になろう もともと死刑になるのをわざわざ治療するのが、寛大かは疑問ですが、これは日本人でも意見が割れるんじゃないでしょうかね。

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