- ベストアンサー
Conflict: The Essence of Storytelling
- A story is a presentation of individual characters facing a problem or conflict.
- Conflict is at the center of both fiction and life, providing a sense of energy.
- Fiction allows us to experience the heightened awareness of life and explore the meaning of our own stories.
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
前便の回答が分かりにくい訳と書き方でしたので、書き直して再送します。 なお、問題(5)は、1.bored 2.satisfied 3.disappointed 4.frustrated のうちの1.が正解です。(内容的には他の選択肢との間で迷いがあるかも知れませんが、後に続くwith により、1.bored が正解だと確信できます。) 物語というものは単なる生活の映像ではなく、動いている生活の映像であって ― とりわけ、我々が意味あるものとして感じるような、特殊な経験を経てある終点へ向かって進んでいく個別的性格の提示作品なのです。また、物語の中で特徴的に示される経験は、問題や闘争に直面するような経験です。経験を、ただぶっきらぼうに提示するだけでは、闘争でも物語でもありません。 フィクション(虚構)の中心に闘争を置くべきだ、というのは不思議なことではありません。なぜなら生活の中心には、(つねに)闘争というものがあるからです。とはいえ、生活の中にはしばしば苦痛を伴うような激しい闘争経験があるがゆえに我々は平和を切望するというのに、なぜ闘争に集中するようなフィクションに心が向くのでしょうか? 実は、闘争に対する我々の態度には、理解しがたいものがあります。もし生活の中で十分満足するような調整のとれた状況が見つかると、我々はむしろ逆に、退屈の中に沈み込んでしまう傾向があるのです。我々の環境 ― あるいは我々自身 ― が再び問題ごととして頭をもたげてくるような場合にこそ、我々は目を覚まし、エネルギーのほとばしりを感じるものであって、それこそが生活というものなのです。そのようにして、より豊かに生きる生活こそが我々の求めるものなのです。 したがって、我々は平和を願望する時でさえ、同時にまた問題そのものを切望するのです。探検家、スポーツ家、賭博者、かくれんぼうをする子ども、野球場でマウンド近くを選ぶ十代の少年、スタジアムで活気づく観客 ― 我々全員が、実は大なり小なり緊張を伴う問題状況を探し求めたり、あるいは作り出したりしているのです。そのような状況は、エネルギー高揚の感覚、生きていることのより強い感覚を我々に与えてくれます。そして、フィクションもまたその高揚した生活意識を我々に与えてくれるのです。そこ(フィクション)には、豊かな情感の横溢 ― 涙、笑い、優しさ、同情、嫌悪、愛、それと意外性 ― を誘発するような、あらゆる新鮮な機会が用意されています。それが我々の内面に供給されると、習慣化し馴れっこになっているものに対しては、退屈したと我々に感じさせることになるのです。さらに、この高められた(日常性への)忌避意識は、フィクションの世界でこそより完全に享受されます。なぜなら、実際には脅威となる問題が、ここでは単なる想像に制限されるからであり、またその問題は何らかの解決が約束されているからでもあります。 物語は、我々に解決を約束します。そして、我々は宙吊り状態(はらはら気分)の中で待って、事態がどのようなことになるかを知ります。我々は、何が起こるかだけでなく、さらに出来事が何を意味するかに関しても宙吊り状態にあります。我々は、読書中の物語に関して宙吊り状態にありますが、(実は)それは、もっと我々の身近にあって、より重要な別の話 ― 我々が生きる際の、自分自身の生活の物語 ― に関して宙吊り状態にいるからに他なりません。我々は、その物語がどのような結果になるのかまだ知りません。それが何を意味するかもまだ知りません。したがって、我々自身の生活をめぐる謎深い不確実性の中で、日頃の生活での自分自身の物語に関するヒントを求めて我々はフィクションに向き会うのです。それ(不確実性)が、フィクションとしての物語について感じられている宙吊り状態の中で、反復されると思われるからです。基本的感覚上、我々自身の生活と虚構上の生活との関係によって、我々はフィクションに引きつけられるのです。 以上、再伸まで。
その他の回答 (1)
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10021/12543)
以下のとおりお答えします。(面白い内容でした。) 問題(5)の部分については、(*→)~(←*)のマーク内部のみ原文も添付します。 物語というものは、単なる生活の映像ではなく、動きのある生活の映像であって ― とりわけ、特殊な経験を通って、我々が意味あるものとして受け取るようなある終点へ向かって動いていく個人的性格の提示物なのです。また、物語の中で特徴的に示される経験は、問題、闘争に直面する経験です。それをただぶっきらぼうに提示することは、闘争でもなく、物語でもありません。 I闘争が、フィクション(虚構)の中心にあるべきだ、というのは不思議なことではありません。というのも、生活の中心には闘争というものがあるからです。しかし、生活の中にしばしば苦痛を伴う際立った闘争経験があって、それで心の平和を切望するという時に、なぜ我々は闘争に集中するようなフィクションに向かうのでしょうか? 実は、闘争に対する我々の態度には理解し難いものがあります。もし生活の中でまったく満足するような適合性が見つかると、我々はむしろ退屈の中に沈み込む傾向があるのです。我々の環境 ―あるいは我々自身― が再び問題として浮かび上がってくるような場合に限り、我々は真に目覚めて、エネルギーの迸りを感じるものであり、それが、生活というものなのです。そうして、より豊かに生きる生活、それこそが我々の求めるものなのです。 Iしたがって、我々は平和を切望する時でさえ、同時にまた、問題そのものを切望するのです。探検家、スポーツ人、賭博者、かくれんぼうをする子ども、野球の試合で上側を選ぶ十代の少年、スタジアムで元気づく観客 ― 我々全員が、実は大なり小なり緊張を伴う問題の状況を探し求めたり、あるいは作り出したりしているのです。(*→)そのような状況は、高まったエネルギーの感覚、生活していることのより強い感覚を我々に与えます。そして、フィクションもまたその高揚した生活意識を我々に与えてくれます。それには、豊かな情緒性の充電 ― 涙、笑い、優しさ、同情、嫌悪、愛、それと皮肉 ― を誘発するような、あらゆる新鮮な機会が備わっています。それが我々の内面に蓄えられ、習慣化したものに対して(5)うんざりしたと我々に感じさせることがあるかも知れません(←*)。さらに、この高められた禁忌の意識は、フィクションの世界でこそより完全に享受されます。なぜなら、実際には脅威となる問題が、ここでは単なる想像に制限されるからであり、またその問題は何らかの解決が約束されているからであります。 (*→)Such situations give us sense of heightened energy, a stronger sense of life. And fiction, too, gives us that heightened awareness of life, with all the fresh opportunity to release the rich emotional charge - tears, laughter, tenderness, sympathy, hate, love, and irony - that is stored up in us and can make us feel (5)bored with the accustomed.(←*) 物語は我々に解決を約束します。そして、我々は事態がどのようなことになるかを知るために、サスペンス状態(はらはら気分)の中で待ちます。我々は、何が起こるかだけでなく、さらに出来事が何を意味するかに関してもサスペンス状態にあります。我々は、読書中の物語に関してサスペンス状態にいますが、(実は)それは、もっと我々に近く、より重要な別の話 ― 我々が生きる際の我々自身の生活の物語 ― に関してサスペンス状態にいるからに他なりません。我々は、その物語がどのような結果になるのかまだ知りません。それが何を意味するかもまだ知りません。したがって、我々自身の生活をめぐる深い不確実性の中で、我々は、日頃の生活での我々自身の物語に関するヒントを求めてフィクションに向かいます。それ(不確実性)が、フィクションとしての物語について感じられているサスペンス状態の中で反復される、と思われるからです。我々自身の生活と虚構上の生活との関係が、基本的感覚の中で、我々をフィクションに引きつけるのです。