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やはり邪馬台国=日本ということらしい

そもそもの日本は前原市(伊都国)から。 平原遺跡 1号墓(平原弥生古墳)から出土した、副葬品の日本最大、直径46.5センチメートルの大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)は、どうも神器の八咫鏡と同じデザインが使われているそうです。 長年・・・邪馬台国はどこ?という議論がされていますが、最新の研究で、伊都国から奈良に遷都されたのが、2世紀~3世紀ということは、倭の大乱の時期に、ヤマトタケルの東征があったってことでしょうか? 伊都国、邪馬台国、狗奴国にそれぞれ王(天孫)がいて、特に争った狗奴国が出雲王国という解釈でよさ気な気がしてきました。 卑弥呼というのは、天孫族の女王で、誰でもなったわけではない気がします。 そもそも日本では、女性の名は伏せることになっているので、名前は伝わっていないのでしょう。 本当の名前を知りたいところですね。 考えてみたら、天皇だといわれた神功皇后(息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと))が卑弥呼ってことでいいですか?

  • 歴史
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みんなの回答

  • chiha2525
  • ベストアンサー率10% (245/2384)
回答No.3

タイトルとしては、まぁ正しいでしょう。 邪馬台国と畿内ヤマト王権は同じではありません。東遷などしていません。 邪馬台国(やまと国)は北九州の国で、南九州の狗奴国に滅ぼされています。 畿内ヤマト王権は、中国の史書に和国(倭国)を統べるのが邪馬台国(やまと国)と書かれているのを読み、それに倣い自らをヤマト国と呼んだだけです。 畿内ヤマト王権が九州に勢力を伸ばしたときには、すでに狗奴国が九州を統べていました。なので畿内ヤマト王権の記録(日本書紀など)には、邪馬台国や卑弥呼は出てきません。

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質問者

お礼

ソースお願いします。 回答ど~も

  • SPROCKETER
  • ベストアンサー率26% (2014/7516)
回答No.2

 邪馬台国はジャマタイとも呼ばれていたようですが、日本列島だけの国だったのか、他の島国や大陸の一部を含めた国だったのかが、はっきりしませんし、諸国全体をジャマタイと呼んでいただけで、明白な区切りが無かったのかもしれません。今で言えば、アジアと同義語だった可能性もあります。  日本語で読まれている人名も、外国語で読むと意味が変わるのだそうで、古代人には外国人も多く含まれていたようです。島国と大陸国家との区分けがはっきりしない時代だったようです。言わば、英国、フランス、米国のような関係だったようですね。  邪馬台国の時代には大陸との間で戦争や貿易がおこなわれていたようですし、吉野ヶ里遺跡のように軍事国家だった可能性もあります。奪い、奪われる関係だったはずで、国境が頻繁に変わっていたかもしれません。  現世日本人と必ずしも同じ民族では無かった可能性もあり、古代タガログ語が方言に残っているところから考えても、東南アジアから渡って来た南方系の民族の血縁が強いのかもしれません。  遺跡から出て来る祭事品だけを見て民族構成を判断してはいけないわけで、多数派部族を少数派部族が支配する国だった可能性もありますね。

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質問者

お礼

でも、漢の時代は、台湾含めて、全て倭ですよ? それにフィリピンが含まれても、邪馬台国の人々含めて、日本の蝦夷も、この時代にジャカルタの方まで交易していたのは、青森の十和田遺跡で判明しています。 ですので、言葉が似ててもおかしくない。 日本語そのものは、3世紀以降の鎖国状態となってから、文字の開発と供に形成されたのでは?とも考えます。 回答ど~も

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.1

卑弥呼は神功皇后よりもっと古いので別人です。私は卑弥呼は天照だと思っています。 卑弥呼の邪馬台国が狗奴国との戦いに負けて殺されたことから、狗奴国は強国であったと思われます。 邪馬台国九州説には大和への遷都が必要です。それがヤマトタケルの東征とするには年代的に疑問です。その頃には大和王権がすでに出来ていました。

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質問者

お礼

んとね・・・そもそも論でいうと、王権をもった王族は3部族あって、倭国騒乱で合議で統一されたとあります。 これの話が東征しかないのですから、整合性的にそうじゃないかと思うわけですよ。 回答ど~も

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