• ベストアンサー

西暦600年当時の天皇(中国では倭王)は男か女か

西暦600年当時の天皇(中国でいう「倭王」)は、日本書紀では女子(推古天皇)ですが、隋書(倭国伝)ではどうやら男子のようです。 どちらが正しいのでしょうか。

  • 歴史
  • 回答数6
  • ありがとう数6

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • teppou
  • ベストアンサー率46% (356/766)
回答No.6

 No.5です。補足質問にお答えします。  古田説は、卑弥呼以前から九州に王朝があり、大和朝廷はその別れで、七世紀におそらく白村江の戦いに負けたことが主因で、衰退していったため、代わって大和朝廷が勢力を伸ばしたと主張しています。  当然ながら、いわゆる邪馬台国(古田説では邪馬一国)は九州にあり、博多湾岸のどこかであるとしています。(魏志倭人伝の読み解きも見事です。決して仮定を積み重ねたものではありません。ポイントは日数の記述は、朝鮮の帯方郡から倭の中心地までの全日数であるべきで、戦時には必ず必要になる数字であるというものです。)  古事記・日本書紀とも九州王朝の伝承を整え直したもので、内容は九州王朝のものであると主張しています。  記紀の記述の七世紀前半以前に相当する部分は、本来九州王朝の記録であるということです。  「日出国の天子・・・」の親書の内容は、隋書にありますが、記紀にはありません。(だったと記憶しています。)これは、この親書を送った王は大和朝廷の王ではないということを暗示しています。また日本書紀には小野妹子は唐に使いしたと書かれており、隋に行ったわけではないので、隋書に大和朝廷のことが書かれていなくても不思議はありません。このことについてはいろいろ解釈がありますが。  私の読んだところでは、整合性の取れた説です。  こういう関係の本を読んだのはずいぶん昔にことで、記憶違いがあるかもしれません。  頓珍漢な話になっていたらお笑いください。  それほどの説にもかかわらず、主流にならないのは、古田説を認めると日本古代史研究者の立場がなくなるからだと思います。  支持者の言うことですので、にわかに受け入れかたいかもしれませんが、古田の著作を一冊でもおよみいただくとうれしくおもいます。  古田の著作は、絶版も多いのですが、現在ミネルヴァ書房から復刊されています。

hinode11
質問者

お礼

そうか。分かりました。ありがとうございました。

その他の回答 (5)

  • teppou
  • ベストアンサー率46% (356/766)
回答No.5

 古田武彦という古代史学者をご存知でしょうか。ユニークな日本古代史を唱えている方です。  私は古田説の支持者で、なぜこの説がもう少し広まらないか不思議に思っているものです。  古田説によると、隋書に見える日本のことを指していると思われる記述は、大和朝廷のことではなく九州の福岡辺にあった国のことであると唱えています。  いかぐだぐだ書くよりURLを貼ります。このサイトの「七『隋書』のイ妥*(タイ)国」の個所をお読みください。  http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kouen2/j2kouen5.html#zuisyo

参考URL:
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kouen2/j2kouen5.html#zuisyo
hinode11
質問者

お礼

ありがとうございました。

hinode11
質問者

補足

隋書倭国伝には「 内官有十二等、一曰大徳、次小徳、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數」とあります。これは明らかに、日本書紀にある冠位12階を意味しており、大和朝廷の官制ではないでしょうか。 また「 敬佛法、於百濟求得佛經」とあります。これも日本書紀の欽明紀にある仏像伝来を指しております。 また「 新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。 」と、朝鮮半島の諸国が大和朝廷に朝貢していたことを記しており、書紀の記述と一致します。 古田説は、面白いですが主流にはなり得ません。

noname#199520
noname#199520
回答No.4

600年ごろなら舒明天皇ですね、推古天皇はその前(628年没)

hinode11
質問者

お礼

ありがとうございました。

hinode11
質問者

補足

日本書紀では、推古天皇の在位期間は、592年から628年までとなっています。ですから、600年当時は推古天皇です。 舒明天皇の在位期間は、629年から641年までではないですか?

回答No.3

中国では600年当時日本の王は「アメタリシヒコ」となっています ヒコは男の王と言う意味 当時の日本の天皇は女帝推古ですが… 中国では当時女帝を嫌う風習があったので使者が王に「日本の天皇は男だ」と紹介した可能性はある それから摂政は厩戸皇子だったため彼を天皇と見た説 それから当時の最強権力者だった蘇我馬子=王として伝えた説 「アメタリシヒコ」が誰なのかはわかりませんが いずれにせよ「男」だったことに間違いは無い つまり厩戸か蘇我馬子のどちらかを指しています

hinode11
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • mpascal
  • ベストアンサー率21% (1136/5195)
回答No.2

日本史的には、600年当時は推古天皇(女帝)であった可能性が高いということになっているみたいですね。 ただし、この時代は聖徳太子がいたといわれる時代とかぶりますが、聖徳太子自体の存在が歴史上不明瞭であり、まったく疑問がない時代と云うわけでは無いようですね。

hinode11
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15294/33013)
回答No.1

    中国の方は又聞きの日本史が多い(例えば魏志の著者は日本に来たことが無い)ので、言うまでもなく、日本の方が正しいと思います。

hinode11
質問者

お礼

ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 暦法の誤差?日本書紀の間違い?

    日本書紀の推古天皇の条に、「卅六年春・・三月丁未朔戊申日有蝕盡之」とあります。 「三月丁未朔戊申」とは「3月2日」です。「(推古天皇)卅六年春・・三月丁未朔戊申」、すなわち「推古36年3月2日」は、ユリウス暦「628年4月10日」に相当します。書紀には、この日に日食があったと記述されています。 ところで日食は太陰暦の月初の日(1日)にしか起きません。ですから「推古36年3月2日」に日食があったという記述は不可解です。 (1)当時の暦に誤差があったのでしょうか。当時の暦法は元嘉暦です。元嘉暦は劉宋(中国)で編成された暦であり、欽明天皇のときに百済を通じて伝来しました。この元嘉暦に1日の誤差があったとすれば謎は解けます。 (2)それとも日本書紀の編者が記述を間違えたのでしょうか。あるいは、書紀編纂の基礎資料に間違いがあったのでしょうか。

  • 遣隋使1号は607年??

    朝日新聞11月10日(土)文化欄に; 「遣隋使1号は600年?607年?」という記事が掲載されていました。 600年の隋書の記録が日本書紀には記載されていない、というのはその通りだと思いますが、それでは、607年に遣隋使1号というのは日本書紀に記載されているのでしょうか? 日本書紀には、(推古天皇15年)大礼小野臣妹子を大唐に遣わす、というのが初めての遣使記事であって、「遣隋使」とは書いてありません。なぜこの記事が「遣唐使」ではなくて「遣隋使」の記事となるのか理解できません。 推古天皇の15年が607年であるという確証でもあるのでしょうか?当時はまだ中国風の暦は使われていなかったはずですが。

  • ヤマト王権の統一について

    ヤマト王権統一が350年頃とされている理由は、どこからきているのでしょうか。日本書紀の記述でしょうか?倭王武の上表文からでしょうか。350年という具体的な数字が示されているということは、どこか文献に当時の様子が書かれているのだと思うのですが。日本書紀なら景行天皇の頃になるのかな? ご存じの方教えてください。

  • 日本書紀の『呉国』とは?

    日本書紀の『呉国』とは? 自称歴史家です。 日本書紀の卷第十一大鷦鷯天皇(仁徳天皇)に、 「五十八年・・冬十月呉國高麗國並朝貢」(仁徳58年10月、呉國の使人と高麗國の使人が並立して天皇に朝貢した)とあります。 日本書紀の卷第十四大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)に、 「六年・・夏四月呉國遣使貢獻」(雄略6年4月、呉國が使人を遣わして天皇に貢物を献上した)とあります。 日本書紀の卷第十四大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)に、 「十四年・・三月命臣連迎呉使即安置呉人於桧隈野因名呉原」(雄略14年3月、臣連に命じて呉國からの使人を迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それでその地を呉坂と名付けた。)とあります。 日本書紀卷第廿二豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)に、 「十七年夏四月・・百濟僧十人俗人七十五人・・泊于肥後國葦北津・・曰百濟王命以遣於呉國其國有亂不入更返於本郷忽逢暴風漂蕩海中然有大幸而泊于聖帝之邊境」(推古17年4月、百濟僧十人ら合計85人の舟が肥後國の葦北津に入港して、「私達は百済王の命を受けて呉國へ行ったところ、呉國は戦乱状態で入国することが出来ず、帰国しようとしたが途中、暴風に逢って漂流し天皇の御国に流れ着きました・・)とあります。 中国の正史(宋書など)によれば仁徳天皇と雄略天皇は5世紀の時代の天皇です。また推古天皇は、日本書紀によれば593年から628年の時代に在位した天皇です。しかし、これらの時代、歴史の地図や年表を調べても、中国大陸にも朝鮮半島にも『呉』という名の国は存在しません。 ※三国時代の「呉」は3世紀(280年)に晋(魏の後身)に滅ぼされたので、仁徳天皇、雄略天皇、推古天皇の時代には存在しません。 日本書紀でいう『呉國』(呉国)とは何を指すのでしょうか?ご存じの方、教えて下さい。

  • 遣隋使

    どうやら第1回目600年は日本書紀に記載なく、おまけに日本初の女帝には妻がいたとか隋書に記載されているようです。 隋書と日本書紀を比べて研究しているような本はあるのでしょうか? また、私見等お持ちの方お教えください。

  • 任那は存在した???                       (日本側の任那存在説VS韓国側の任那非存在説)

    日本側の主張 「宋書」「広開土王碑」「日本書紀」が証明する任那』 1、「宋書」 次の中国南北朝時代の「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を見て下さい。 421年 讃 叙爵 438年 珍 安東将軍・倭国王 443年 済 安東将軍・倭国王 451年 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事 462年 興 安東将軍 478年 武 安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事 451年の倭王済及び478年の倭王武の記述に「任那」の文字があります。 当時、任那という地域が存在し、その「軍事」(当時の中国の官職)に「倭王」が任命されていたことを証明しています。 2、「広開土王碑」 広開土王碑には次のような記述も見られる。 曰く「大軍をもって新羅城を奪還すると、撤退する倭兵の背後から任那加羅まで急追していった」 3、「日本書紀」 日本書紀には、当時の倭国は朝鮮半島に大規模な軍事力を駐屯させており、任那日本府というのはその駐屯地などを兼ねた日本の朝鮮半島における拠点であった。 その後、百済・新羅などによって任那は軍事的圧力を受け続け、紀元562年に任那は新羅に滅ぼされています。(日本書紀、欽明天皇二十三年) 韓国側の主張 1、日本書紀の記述に関して「任那日本府を通じて、日本へ朝鮮半島からの文化が伝わった(要約)」ことが書かれているが、この中の「日本へ朝鮮半島から文化が伝わった」と言う部分だけを引用し、その前提となる「任那日本府」については虚偽であるとしている。 2、また、広開土王碑についても、旧日本軍の改竄説を主張して、論拠を否定している。 3、韓国では「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を認めていない。 任那は存在したと思いますか?

  • 遣隋使はあったのですか。

    日本書紀に小野妹子は大唐国に行ったと書いてあります。遣唐使があったというのは判りますが、遣隋使があったという根拠が判りません。本当に遣隋使はあったのですか。 『隋書』に「開皇二十年倭(*)王姓阿毎 字多利思比孤 號阿輩倭彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」 とあります。 でも、日本の天皇に、阿毎、字は多利思比孤、阿輩倭弥と号づく、なんて尊王はしゃらしゃらなかったのでないでしょうか。あるいは、私の知らない他の書物にそのような天皇のお名前が出ているのですか。 また『隋書』の「東夷傳倭國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とありますが、それと日本の天皇との関係が判りません。私が高校時代に教わった教科書によると、それを送ったのは日本の天皇だと書いてあっただけですが、「東夷傳倭國傳」の文面からはそうだとは確証できません。 一豪族が派遣しても遣隋使と言うのでしょうか。だったら、もっと前に中国に派遣されていた外交団があったのではないでしょうか。あるいは、中国人には天皇の本当の名前を言わなかった(あるいは隠していた)とでもいうのでしょうか。昔の人達が今の人達の違って合理的でなかったとは思えません。 実際に書いてある物を否定するには余程の根拠があると思うのですが、その根拠とは何ですか。誰か偉い方が遣隋使があったと言ったからというような根拠ではなく、実証的に教えて下さい。 (注)「倭」に当たる*の正文字は「教えて!goo」になし。

  • 西暦以外の年の数え方をしている国

    日本は西暦と年号の二つがありますが 西暦以外の年の数え方をしている国は 日本以外にもあるのでしょうか?

  • 中国・韓国から見た天皇とは

    最近になって、天皇陛下の外交権威と云うものを知りました。 アメリカ大統領が最敬礼する3人に入ってるという事も、 エリザベス女王ですら、上座を譲るなど、今更ながら知らなかった事に 恥ずかしさを覚えます。 中国・韓国・北朝鮮はあれだけ日本批判が多いですが、 天皇に対してはどのような対応を取るのでしょうか?

  • 天皇制と中国の関係

    以前からずっと気になっているのですが、日本の国家体制の根幹である天皇制に大きく関係している元号や、皇室・皇族方のお名前を、あえて中国の古典から引用するのはなぜでしょうか? 中国から大きな影響を受けていた古代からの伝統かもしれませんが、なぜ現代においても外国の文献から元号などを決めているのか理解できません。 また、天皇制についてはいろいろうるさい右翼も、これに異を唱えたという話も聞いたことがありません。 なんかいまだに中国の属国のような感じがしてあまり好ましく思えないのですが、なぜこのようなことになっているのか、ご存知の方教えてください。