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明治新政府が徳川由緒の建物にとった処置。
明治新政府は、日光東照宮や菩提寺(寛永寺、増上寺、大樹寺など)にどのような態度で接したのですか。 例えば、傷みが酷くなっても修繕費用をけちる、というようなことをしなかったのですか。 よろしくお願いします。
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徳川家の所縁だからどうのと特別扱いはしませんでした。 個々のお寺としては、慶応4年(1868年4月5日)~明治3年1月3日(1870年2月3日)の間に太政官布告という形で出された通称神仏分離令、神仏判然令の影響が甚大でした。 明治4年には最小限の境内以外の土地はすべて没収されてしまいました。 明治6年に出された法令で公園にされてしまいました。 上野公園はその結果できたものです。かつては全山が寛永寺の境内でした。 江戸時代までは、寺院は寺領と呼ばれる領地を所有していて、そこからの租税すなわち年貢を手に入れて運営されていました。 同時に広大な境内を所有していて、そこで祭礼などを行い収益源としていました。 この経済基盤がゼロにされました。 徳川家がどうのこうのということとは次元が異なります。 日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の分離されてしまいました。 上野寛永寺は彰義隊との戦闘の際に主要な建物は焼失してしまいました。 増上寺は境内が大幅に削減されました。 神仏分離令というのは、思想的には天皇を頂点とした国家神道に基づく明治政府の根幹をなす政策でした。 明治政府の意図とは別に国学者などで過激な思想を持った連中が「神威隊」「正義党」などと名乗る集団を結成して全国の寺院を破壊し宝物を略奪しました。いわゆる廃仏毀釈運動と呼ばれる過激な破壊活動です。 結果として、全国で数千軒のお寺が破壊されてしまいました。 増上寺も襲われました。 有名なのが奈良の興福寺の五重塔も25円で売りに出されました。 でかすぎて買主が解体費用がだせず、観光用に拝観料を取ることに方針を変えたおかげで残りました。 >例えば、傷みが酷くなっても修繕費用をけちる、というようなことをしなかったのですか。 このような考え方は現代の考え方です。 寺院の建物や仏像などを文化財として位置付けて国宝や重要文化財に指定して公的な資金を投入するという考え方はズーと後の時代になってからの考え方です。 江戸時代まではあくまでも礼拝の対象でした、純然たる宗教施設でした。 明治政府はこれを否定し、それに民間の過激派が呼応していた時代です。 結果として、現在も、多数の国宝級の仏像や絵画彫刻がボストン美術館などの海外の美術館の所有物となっています。 蛇足 明治政府がお寺を粗末に扱ったのは、イデオロギーとしての国家神道の樹立とは全く別な理由がありました。 江戸時代までは寺院というのは一種の市中金融機関として機能していました。 檀家や信徒から集めたお金高利で貸し出すことによって莫大な利益を挙げていました。 その経済力を背景に政治にまで影響を及ぼしていました。 信長が比叡山を焼打ちしたのも仏教を否定したのではなく、この経済力と政治力を破壊するために行ったものです。 江戸時代には寺院は宗派ごとに完全に系列化された上で幕府の行政の一環である戸籍の管理を請け負っていました。 同時に村落のや城下町の市中金融機関としての役割もはたしていました。 これ等の機能を明治政府は徹底的に破壊して新政府の秩序下に組み込みました。
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いつも詳しい回答をありがとうございます。 明治新政府は、(明治と改元する前ですから、明治政府、明治天皇と呼ぶのはおかしいですが)1868年(慶応4年閏4月)、明治天皇の御沙汰書により、秀吉の勲功を顕彰するように指示し、その後豊国神社の再興を決定しています。 徳川幕府の権威や家康を祀った東照宮の地位を低くする意図もあったはずです。 そこから想像して、幕末の財政難のため多分傷んでいたであろう東照宮その他の寺社に対しては、新政府はどんな対応をとったのか、疑問に思い質問しました。 >徳川家の所縁だからどうのと特別扱いはしませんでした。 そうですか、新政府の態度は立派ですね。 宝物を略奪するようなこともなかったのですね。 徳川の保護がなくなってしまうと、雨漏りが酷くなっても頼るところは政府しかないように思ったので、下衆の考えでそんなとき薩長の連中は徳川を差別したのではないかと思っていました。