• 締切済み

日本人は同質性を選ぶのか、多様性を武器にするのか

排外主義の高まりがさけばれている現代の日本社会。このような社会事情のなか、日本人はこれからの日本社会のあるべき姿として、「同質性」を強調し、異質な他者を社会から排除するのか、あるいは、排外主義を改め、多様性を認め、それを「武器」にする社会をつくるのか、どちらの進路を選ぶのでしょうか?

みんなの回答

noname#209756
noname#209756
回答No.4

NO.1です。追加で。 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/361pdf/makiguti.pdf (抑止法の後退( régression)と復原法の発達(上))   デュルケムの「機械的連帯」と「有機的連帯」など、このあたりも大事かと

noname#222500
質問者

お礼

コメントありがとうござます。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11128/34636)
回答No.3

明治の元勲、つまり幕末の志士たちの多くは元々「攘夷論者」でした。つまり「外国人は斬れ!」だったんですね。ところが彼らは新政府の指導者となると、欧米主義者に豹変してしまいます。 別に明治政府になるまでじゃなくても、高杉晋作みたいに上海に留学して、「無理。やっぱ欧米と戦って勝つなんて無理。むしろやつらに学ぼう」と180度の転向をしています。彼ら志士たちは、そういう思想的転向をするにあたって葛藤した様子はありません。坂本龍馬のようにあっさり説得される人もいました。 それどころか、新政府に最後まで抵抗した土方歳三からして、最後に残るあの有名な写真はちょんまげをやめて洋装でブーツという実に「最新の流行を取り入れたオサレ男子」です。お前は武士になりたかったのと違うのかとツッコまずにはいられませんし、ああいう格好をすることに歳三さん自身が葛藤した様子はまるでありません。 太平洋戦争において、日本人は「でてこい、ニミッツ、マッカーサー」とかいっていたのに、戦争が終わってそのマッカーサーが占領軍司令官になると実に従順に従いました。ただ従順に従うだけではなく、そこから復興に邁進したわけです。 そこの切り替えで日本人が「昨日まで敵だったやつの命令に従うべきなのか」という葛藤をした様子はありません。 かように、日本人というのは排他主義が高まっても「それじゃ通用しない」ってのが分かるともうあっさり「じゃあイイトコは取り入れちゃおうぜ」となる民族なのです。それは節操がないともいえるでしょうが、私は日本人のある種のしたたかさだと思います。そのおかげもあって植民地にならなかったり、奇跡的な復興をとげて先進国入りしたわけですからね。

noname#222500
質問者

補足

コメントありがとうございます。 では、現代社会を生きる日本人に、あなたの指摘した「したたかさ」は存在しますか? 排外主義に手を染め、スケープゴートばかりを狙っている、現代社会を生きる日本人に「したたかさ」は存在しますか?

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

”「同質性」を強調し、異質な他者を社会から排除するのか、  あるいは、排外主義を改め、多様性を認め、それを「武器」に  する社会をつくるのか、どちらの進路を選ぶのでしょうか? ”      ↑ 途上国がどうして途上国なのかを考えたことが お有りでしょうか。 途上国はまとまりがないから、いつまでたっても途上国 のままなのです。 どうしてまとまりがないか、といえば、主な原因は 民族の多様性です。 米国のように、建国当初から多様性を前提としていない 途上国では、多様性故に、政治が不安定になり、結果 経済が発達していかないのです。 (高木保興 放送大学教授) 人は何のために生きるのか、 正義とは何ぞや、 お互いが奉仕する目標は何か・・・・ 日本では、そういうことが全く明示されていません。 それでいながら、ここまで日本が発展してきたのは、 単一的民族ゆえの共通の価値観が無言の前提として あるからなのです。 多様性は上手に使えば武器になりますが、下手すると 足かせになるのです。

noname#222500
質問者

補足

「多様性は上手に使えば武器になりますが、下手すると 足かせになるのです。」 → これについては、日本人が多様性を「武器」にすることを、いまだに不得手としていることが原因ではないでしょうか? 内なる国際化、さらには、外国出身者の存在が目立っているわけですから、日本人みずから、メンタリティを改めない限り、このような問題は改善されないのではないでしょうか?

noname#209756
noname#209756
回答No.1

同質性は大量生産時代の話かと。最近はマスマーケット的な発想で画一化しても、低い水準に合わせることにもなるでしょうし。 日本は多民族国家でないため、ほかの民族とどう共存するかというような経験値は少ないです。 (ただし、渡来人などの経験はあります。) それでも昔の日本でも、あの人は社交的とか勉強ができるとは善い人悪い人など、正確に多様性があったのでは。移動が激しくできるようにスタンダード化するだけでなく、身近な人をもっとじっくり観察していたような。 らしさをさらに追及するとガラパゴス化がよりすすんでしまうので。 田舎にも大型スーパーやコンビニなどのチェーン店があり均一化しているのですが、人の移動ではやはりそれぞれ分かれてきます。(関東圏、中京圏、関西圏など) 歴史上、武田信玄、上杉謙信、薩長土肥など地方から出てきてます。民族はどうかとして、地域には多様性はあるのでしょうね。

noname#222500
質問者

補足

コメントありがとうございます。 日本人の「同質性」については、日本の教育制度や社会制度に起因する部分が大きいのではないでしょうか。たとえば、管理主義的な教育。部活動を強制する教育。こういった社会的な部分によって、日本人は「同質性」を強制されているのではないでしょうか。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう