- ベストアンサー
江戸時代。御家人から旗本になるには。
将軍や幕閣に気に入られてとか、縁故によってとかで昇格したのではなく、昇格できる制度とまでは言えないが慣例としていたことはないですか。 例えば、御徒目付で長い年数を勤めると勤功を賞され旗本に昇格できるといったケースです。 あるいは、「学問吟味」で甲科・乙科合格などが決め手となって昇進して、その後旗本になったとか。 江戸時代も260年間もありますから寛政の改革以後の事例を教えてください。 よろしくお願いします。
- kouki-koureisya
- お礼率95% (1808/1896)
- 歴史
- 回答数4
- ありがとう数4
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/1185/1/GAKUEN-140-6.pdf P164 御家人には旗本の「番入り」に当たる制度は確認されていない。 173 本人に起因して旗本に昇進したのは,少なくとも6名である。他にも資料がないため,確認できていない者がいる可能性もある。29名中6名が旗本に昇進したことは,「軽輩の励み」となっただろうか。旗本惣領がほとんど番入りしたことと比べると少ないかもしれない。この判断は保留としたい。
その他の回答 (3)
- ithi
- ベストアンサー率20% (1960/9578)
no.3です。 どうやら、太田南畝は支配感情の地位から出世できなかったようですね。一説には彼の前半生が影響しているらしいそうです。 詳細は下記のURLを参照ください。 太田南畝 http://nenpyou-mania.com/n/jinbutsu/10534/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8D%97%E7%95%9D
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 文化元年(1804)、56才のとき長崎へ支配勘定として赴任していますから、まだ御目見え以下です。 結局、「前半生が影響しているらしい」ということになりますね。 しかし、筑波大学付属図書館特別展の紹介記事では「 湯島聖堂に縁のある朱子学者林家の2代鵞峰(春斎)の履歴書。旗本大田南畝による自筆写本。」とあります。 旗本にはなっているようですが、確証なしです。 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/pioneer40/denshitenji_1.html
- ithi
- ベストアンサー率20% (1960/9578)
kouki-koureisya さん、こんばんわ。 そうですね。御勘定吟味という試験を受けて、支配勘定になり、そこから御勘定になれば、旗本になります。 因みにこのコースに乗った人で川路聖謨がいます。 詳細は下記のURLを参照ください。 川路聖謨 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B7%AF%E8%81%96%E8%AC%A8
お礼
ご回答ありがとうございます。 勘定奉行所では、学問所の学問吟味とは別に御勘定吟味という試験をしていたのですね。 「支配勘定」では御家人だが「御勘定」に昇進すると旗本ということになるのですね。 よく分かりました。 大田南畝の場合は支配勘定で採用されていますが、その後いつの時点で旗本になったのか、今調べています。
蜀山人大田南畝がいるね。学問吟味の成績が認められて旗本になった。ただし御目見以下のまま。 参考文献)藤田覚著『大江戸世相夜話』、2003年、中公新書。17ページ~20ページ。なお、この本には遠山の金さんの父親が遠山家として前例のない出世を遂げたとも紹介しているんだけど、残念ながら中下級旗本の家柄。 勝海舟は海防意見書が認められて、じゃあ君に任せるからと引き立てられたようなものだけど、これは幕閣に気に入られたうちに数えてるのかな。
お礼
ご回答ありがとうございます。 大田南畝は、「学問吟味の成績が認められて旗本になった。ただし御目見以下のまま。」と『大江戸世相夜話』に出ているのですね。 いつ旗本になれたのか、何かの役職に就いた時点で旗本になったのか、調べてみます。 旗本と御家人とは何を基準として区別されるのかさえ知らずに質問しました。
関連するQ&A
- 江戸幕府。小姓の採用基準。
小姓は、何しろ将軍の身近に侍るわけですから、将軍を襲うことも可能です。 なので、厳しい選考があったと思います。 小姓からどんどん出世した人も大勢いますから、文武両道に優れた人材を集めたと思います。 ところが、「東照宮御実記巻8、9、10」から拾い上げてみますと、どの例も次のようにいとも簡単に書いてあります。 「靑山作十郞成次めし出され小姓となる。又松平庄右衛門昌利が子伝市郞昌吉召し出され右大將殿に付らる。」 この記事は、家康、秀忠の小姓の話ですから、共に戦いぬいた旗本の身内から安心して選考できたのかも知れません。 泰平の世になって久しい江戸中後期では、どんな人が小姓に採用されたのですか。 「学問吟味」のような試験はあったのですか。 よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
ご回答ありがとうございます。 実にピッタリの論文「御家人と昌平坂学問所・学問吟味」を教えて下さってありがとうございます。 「本人に起因して旗本に昇進したのは,少なくとも6名である。」ということから、学問吟味で優秀な成績を修めることにより、旗本になれるということが分かりました。 特に見落とせないのは次の2箇所で、大変参考になりました。 学問吟味が謂わば国家試験のような性格であったことがよく分かりました。 1.教育機関での能力開発と公式試験での能力評価,そして旗本惣領の「番入り」という人材登用が,一つの道筋としてつながったのである。幕府の,またその一部であるが,能力主義人材登用制度の確立として挙げることができるのではないだろうか。 2.御家人階層については,旗本階層における番入り選考に相当する制度もなく,学問吟味及第者の優先的登用などの慣行が確立されていなかったため,学問吟味及第と登用や昇進との関連を表す史料は多くはみあたらない。それでも,旗本階層における及第者優遇の慣行を反映して,及第者の登用を働きかける行為はあったようである。 大田南畝が学問吟味を受験した様子をネットで読みましたが、2,3日で終わるようなテストではなく、かなり厳しいものでした。幕府も昼食に焼き飯を用意するほどの力の入れようでした。