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江戸時代の現金輸送。

dayoneの回答

  • dayone
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回答No.4

あまり情報が無く一つの事例に過ぎませんが、下記の改鋳貨幣の引替に際しましては、 京・江戸間の旧貨・新貨の輸送には「伝馬」の利用が伺えます。 また、金貨・銀貨等の新・旧引替に関しましては、 基本的には江戸・京・大坂の三都限定のようですから、 公用の大量輸送を要する場合でも原則的には江戸─京・大坂間のみとは言えそうです。 (ただ、江戸・京・大坂以外の天領・藩領等の個々の旧貨・新貨の輸送については、 単に為替両替屋等の取扱いか、代官・郡代や各藩も関与したかはよくわかりません。) なお、『近世交通史料集/児玉幸多編/吉川弘文館』によれば、 「壱駄あたりの荷物重量は、無賃の伝馬は慶長6年正月から30貫、慶長7年6月以後32貫、 元和2年11月以後40貫」だそうですから、 千両箱を含め金貨であれば馬一頭当たり六千両程度、 十頭で六万両程度と十分対応可能(襲撃のリスクはあったのでしょうが)と思われますが、 銀貨となりますと疑問も残ります。 次に、銭座に関しましては、 「其國は勿論他國へも御定之ごとく金壹兩に四貫文、 壹分に壹貫文づゝ拂(L)之様に可(=)申付(-)候」などとありますから、 各々の銭座で対応していた様子も伺えます。 あと、残念ながら「お金道中」は何を指すのか全く分かりません(><) 〇『東京市史.外編 第5/東京市編/東京市/昭和6.3』 「第十二章 新舊貨幣引替事務」 <116~119/199>(187~192頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1225142/116 金座の新舊貨幣引替事務は、元祿の改鑄以來生じた重要事務で、 江戸及び京都の金座に於て引替に從事した。 尤も此の以前にも、切れ金即ち損傷貨幣及び、輕目金即ち量目不足となった 貨幣の引替は行つてゐたのであるが、改鑄に際しては、悉く舊貨を引上げて、 之を改定の品位量目を以て、吹直すの必要から重要の事務となつたのである。 引替には、新舊貨幣の交換割合を定めて、一定の歩打を附し、交換に一定期限を設け、 此期間經過後は舊貨は單に潰し金として、目方を以て買入るゝ事とし、 改鑄の目的を貫徹するために、引替の完了に百方努力したのであるが、 元祿以降幕末に至る十餘回の改鑄は正徳、享保の復古的改鑄の如き一二の場合を除く外は、 殆どみな良貨を惡鑄して、その差益を幕府に収めて、財政の缺乏を補ふを以て目的としたので、 新貨即ち惡貨は、舊貨即ち良貨を驅逐するの現象を呈し、屢々引替を困難ならしめたので、 幕府は或は引替期間を延長し、或は交換割合を改めて打歩を增加し、 或は遠近に應じ引替の手當又は運賃を與へて引替を促し、 又は引替を怠る者を嚴科に處するの令を出す等、手段百端、苦心努力したのであつた。 而して直接この引替の事務に從つたのが金座であつた。 次ぎに掲ぐるのは、元文年中の改鑄に際し記された金座の文書で、 當時の引替事務を窺ふことが出來る。 引替金之儀、江戸・京共に來未正月(元文四年)より午前直引替被(=)仰付(-)、 京都引替金之徃來は御傳馬を以て致(=)上下(-)候様被(=)仰渡(-)候に付、右仕方左に申上候。 …(中略)… 一、京都引替之儀、一ヶ月古金三四萬兩程宛引替候得共、   代り文字金五六萬兩程之引替高罷成候間、右之通引替可(L)然奉(L)存候、   唯今迄引替所へ御渡被(L)成候文字金四萬兩私方へ御渡被(L)下、   引替元手金に仕度奉(L)存候、右古金江戸着之節者、翌日の御出役御方御見分にて封印切、   輕目改、古金請取、文字金差登候様可(L)仕候、京都引替文字金徃來一ヶ月兩度に上下仕、   引替候様に可(L)仕候。 一、御傳馬之儀、御用中御證文一通にて御金竝宰領共に上下仕候様に奉(L)願候、   尤も其度々馬數書付御届可(=)申上(-)候、勿論道中徃來之儀、   御證文寫私印形之先觸相添差出候様可(L)仕候 以上                      後 藤 庄三郎 「朱書」書面之通可(=)相心得(-)候 以上  …(中略)… 依つて以て、引替の模様を窺ひ得るであらう。 前掲文書中、引替所とあるは、元文の改鑄に際し舊貨取集めを爲替兩替屋十名、 …(中略)…へ命じ、是等の爲替兩替屋から金座へ取集金の引替を請はしめ、 彼等には引替費用として金一兩に付銀一分づゝ、又銀の場合には百目につき一分五厘づつを 持主から請取らしめた。これを引替所と稱し、一定期限後は、此引替所を徹して、 金座直接の引替となつたのである、右は元文以來の制度で其以前は兩替屋を通じ、 或は直接金座について引替を行はしめたのである。 〇『日本財政経済史料.第2/大蔵省編/財政経済学会/1924-1925』 「經濟之部一 第一、貨幣 一、鑄造發行の沿革」 <314/732>(560頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1902248/314 ◇寛永十四年丁丑八月 錢鑄所  水戸、仙臺、吉田、松本、高田、長門、備前、豐後中川内膳領内 一只今迄被(=)仰付(-)候分にては諸方弘かね候間、代物澤山鑄させ、其國は勿論他國へも  御定之ごとく金壹兩に四貫文、壹分に壹貫文づゝ拂(L)之様に可(=)申付(-)候 …(中略)…【憲教類典二】 <319・320/732>(571・572頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1902248/320 ◇元祿十一年戊寅二月 口上之覺 一遠國之古金銀を新金銀に引替之爲他國へ出し候儀、…(中略)… 一渡海有(L)之國々若破船等之ためも候間、金銀少づゝ段々引替申様に可(L)然候 一江戸近國は江戸にて引替京大阪近國は大阪にても引替候間、引替請負候町々様子聞合 埒明候様に可(L)然候、依(L)之引替所各別紙に書付申候 (別紙闕) 以上 寅二月 荻原近江守 【舊政府御達留一】 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^ ほか関連URL 〇日本銀行金融研究所>金融研究> 『金融研究 第18巻第4号(1999年9月発行)』 ・「江戸時代における改鋳の歴史とその評価/大塚英樹」 http://www.imes.boj.or.jp/research/abstracts/japanese/kk18-4-2.html ・「江戸時代の貨幣鋳造機関(金座、銀座、銭座)の組織と役割─金座を中心として/大貫摩里」 http://www.imes.boj.or.jp/research/abstracts/japanese/kk18-4-1.html

kouki-koureisya
質問者

お礼

丁寧なご回答、真にありがとうございます。 小判の輸送については、おおよその様子が分かりました。 改鋳時、新旧貨幣の引替えの際、馬で運んだという記録があるのですね。 輸送手段としては、「馬」か「船」しかないと思っていましたから、馬の事例があると分かって一安心です。 船の場合「一渡海有(L)之國々若破船等之ためも候間、金銀少づゝ段々引替申様に可(L)然候」というきめ細かい指示には実感が出ています。 問題は、銭貨(寛永通宝)の輸送ですね。 ものすごい嵩になりますから。 錢鑄所(水戸、仙臺、吉田、松本、高田、長門、備前、豐後中川内膳領内など)へ民間業者が「買い付け」に行ったのか、どうしたのでしょうか。 いつか、何かの機会にひょこっと見つかるかも知れませんので、今回はこれで締め切りたいと思います。 「茶壷道中」はよく出てきますが「お金道中」は出てきません。 こんな用語はないのかも知れませんが、下記URL(個人のサイト)によれば『史話 日本の歴史17』大石慎三郎「参勤交代は日本経済を活性化させた」には出ているそうです。 http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/zeitaku-2.html  『日本財政経済史料.第2/大蔵省編/財政経済学会/1924-1925』は、大変参考になりました。 読みたい箇所がいっぱいあります。 いつも綿密に調べて下さって真にありがとうございました。

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