ま、わかります。
いろんな場面で、状況とか他者にぜんぶ合わせようとすると、自分がなくなった感覚になると思います。いろんな自分の姿の最大公約数、すべての場面に共通する要素、それを「自分」と捉えるからです。
英語で個人はindividualですね。 in 否定の接頭語 - divide 分ける - al 性質をあらわす接尾語 これ以上分けられない単位、それが個人というわけです。
性格を理解するために、4層構造として捉えることがあります。<気質>…生まれつきのもの。変えられない。<狭義の人格>…幼少期の頃に、ほぼ形成されるもの。親の責任で、本人の責任でないもの。<習慣的性格>…努力次第で、いかようにも変わる部分。<役割性格>…時や場合や状況によって、意識的・無意識的に、瞬時に変わったり変えたりする部分。
ジャック・ラカンによると、われわれは自分とは何者かを他者を鏡として知るのである、というのです。たとえば、僕の回答に『考えが深いですね』とコメントがあれば、『あー、自分は考えが深い人間なんだ』と思うわけです。幼い子が親に態度で、カワイイ、カワイイとされれば、『自分は愛されるべき価値ある存在だ』と無意識に認識するでしょう。けっして、自分ひとりで「自分とは何者か」の答えは出ないというのです。他者と一緒にいると埋没して自分を失うのではなく、他者と触れ合うからこそ「自分」がわかるのです。
役割が定まらない時代には、自己同一性がぐらつく時が多いのではないかと思います。父親とか先生とか、役割がキッチリ決まっていればぐらつかないと思います。大学生くらいの時期がいちばん不安定なのがふつうです。就職活動期から新社会人のころが最不安定期でしょう。
平野啓一郎 という(むつかしい言葉をよく使う)作家が“分人”という考え方を提唱しています。
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