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徒然草は室町時代の中頃に多くの人に読まれたか
徒然草は兼好法師が覚書として書いていたはず。弟子が、書写して残したのでしょうか?自筆ものはないでしょう?約百年後、室町時代になって正徹という人が書写をして読まれた。とありますが、書写をするために見た書き物(本とかけないので)ってどんなものだったのでしょうか?書写って1冊ですよね。木版本でもあるまいし、目にする人はほとんどいなかったのではないでしょうか。正徹さんが書写し、別の人がさらに書写し、大勢の人が書写したのでしょうか?それにしても、そんなに数はないのに有名になるとは?不思議です。室町時代、物語、日記類はすでに木版本の流布本があったのでしょうか?
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当時、未だ印刷技術は日本では一般的ではなかったですし、又、そもそもが心覚えに書いたものですから、「版に付す」と云う事は有りえません。では、どのように流布していったかと云うと書写です。 時代は遡りますが「更級日記」に、「物語」を貰うと云う話があります。「源氏物語」や今は伝わっていない物語とかを沢山貰います。実はあのようの事の方が稀なのです。 例えば、「源氏物語」を読みたいと思えば先ず持っている人を探します。借りて読んだら手許に置きたいと思ったら書写します。又、良い本だと思ったので誰かに頼んで書写して貰う事も有ります。特に字の上手と云われて居る人に頼んで書写して貰い帝に献上する事もあったでしょう。そのようにして写しを拵えます。その写しを又誰かが借り出して書写するこれのくり返しです。ですから、不注意の性格の人や書写するときに自分で勝手になおして書いたりすると「異本」が出来ます。元が滅びてしまったりするとその不正確な写しを元にせざるを得ません。その結果もとは一つの本の筈なのに色々のヴァーヂョンが出来る事になります。 時代が下がるとオリヂナルが残って居る場合もありますが、古いものは大抵書写したものです、それも何度か書写したものです。 なお、当時大陸では既に印刷は可也普及しており「経子史集」以外でも印刷がされて居ましたが、その後の戦乱などで殆ど伝わっていません。
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- Postizos
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蛇足ですけど、書き写す本の物なので「本」なのだそうです。だから「本」で良いのです。 http://kobun.weblio.jp/content/%E6%9C%AC
- SPS700
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1。 書写をするために見た書き物(本とかけないので)ってどんなものだったのでしょうか? モ必で書いた原本、それ以後は毛筆による写本だと思います。 2。 書写って1冊ですよね。木版本でもあるまいし、目にする人はほとんどいなかったのではないでしょうか。正徹さんが書写し、別の人がさらに書写し、大勢の人が書写したのでしょうか? 「大勢の人」かどうか分かりませんが、書き写し継ぎた物でしょう。日本の古典のテキストが「○○本」「△△本」などを校合しなければ底本が再構成出来ないのは、写し手、保管場所(観智院本など)が異なるためだと思います。 3。 それにしても、そんなに数はないのに有名になるとは?不思議です。室町時代、物語、日記類はすでに木版本の流布本があったのでしょうか? もともと、8世紀頃には既に木版印刷が日本でも行なわれているようですが、仏教関係の書籍が多く、それ以外に広がるのは桃山末期から江戸初期あたりで『伊勢物語』『徒然草』などが、最初の木版印刷になったとされています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E7%89%88%E5%8D%B0%E5%88%B7