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文学を楽しみたい。なにが足りないのですか?
- 文学を楽しむためには美しい文章に魅力を感じることが重要ですが、あまり本を読んでいないことが原因かもしれません。
- また、古典文学の魅力がわかっていないことも一因です。古典文学には芸術的な表現が多く使われており、その美しさを理解する必要があります。
- 想像力が足りないことも原因かもしれません。文学は自分の想像力を働かせることでより深く楽しむことができます。絵本やテレビアニメ、ドラマなどを通じて想像力を鍛えることも有効です。
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こんばんは。万葉集にある持統天皇の御製を詠んで、何もイメージがわかない。けれども絵本やテレビドラマそしてアニメは楽しむことができている。 この二つの状態のどこが違うと考えられますか?。そうです!、一方には具体的な映像としてのイメージが提示されていないが、他方には既に完成された映像が提示されている。この違いです。 ではイメージが提示されていないものに「どうすれば具体的な映像イメージを与えることができるか」との問題になります。 万葉集の言葉は現代語とは異なりもします。辞書を調べて見ると全く逆の意味になっているものもあります。そして「言葉そのもの」が使われた地域や時代そして使った人の職業や身分などといった階層によっても様々に変化するとの性質も持っています。 また『万葉集』やその他の和歌や俳句そして漢詩などの韻文と呼ばれる性質の作品は短い言葉に様々なイメージを複層的に閉じ込めて、読み手がそれを解放することを求めもする少し意地悪な性質も持っていますから、逆にエッセイや物語りといった散文と呼ばれるジャンルの作品を選択することも一つの方法です。 少しばかり時代が近い明治時代の文豪や江戸時代の読み物もあれば、平安時代の『枕草子』そして鎌倉時代の『今昔物語集』といった作品は、どこから読んでも作品の世界に分け入っていくことができます。この部分はつまらないと感じたなら、そこを飛ばして次の章を選んでも別に差し障りがあるわけでもありません。 僕がまだ高校の二年生だった頃、現代国語の教科書に太宰治の『富岳百景』が採り上げられていました。何かつまらない作品でしたが、他の生徒と同様に作品中の次の一言に目が向いてしまいました。それは「井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた。いかにも、つまらなそうであった。」風采の挙がらない作家と奇妙な文人が二人して富士山を眺めようとして山に登り、その途中で一服する間に、なぜ放屁せねばならないのか、そしてその様子がなぜ「つまらなそうに」見えたのか、何か不思議でけれども気に掛かる一節でした。16~17歳でニキビ面の男子高校生に文学理解がどうのこうのといったところで興味を持てという話自体が無理ともいえ、それに反して当人達は言葉とそれが醸し出すイメージに敏感に反応もするとの皮肉。 こうした経験からすれば、言葉そのものから「感じる何か」やそれに対応する自身の経験なども加味して読んでいけば、「文学を愉しむこと」もできるかと存じます。 「言葉を評論する」ならば、辞書を引いたり、その言葉に自身が定義を与えるための筋道や手続きを踏めば論理性を担保することもできますが、愉しむことはそうした理性による確かな骨組みと穏やかな感性との共同作業的な性質を併せ持つガラス細工にも似ています。 辞書の説明をその文に当て嵌めてしっくりこなければ、自身で訳語を作っても目くじら立てるほどの問題もありません。教科書の説明にこうあったからといっても、それは一つの解釈の仕方であって別の解釈の仕方も実際には十分にあります。「正しい」との言葉の内容自体も一つの価値基準によって左右される性質を有しますから、「信じる」よりも「対象として見る」ことをお勧めします。
お礼
ありがとうございました。