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キリストは、be positive と言ったか?

宗教カテがなくなったんですか? ネガティヴ思考が嫌われ、白人たちも be positive, be optimistic とよく言うように感じているのですが、 ではキリストはそんなことを人々に言ったのでしょうか? 「愛」は説いたと思いますが、キリストが処世術のような「積極的であれ」とか「マイナス思考はやめよ」などの言葉は口にしたのでしょうか? よく知っておられる方教えて下さい。 宜しくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#202739
noname#202739
回答No.4

ぼくはキリストさんについてはわからんので、あくまで宗教者一般の解釈です。 「いつも笑顔でいようね」とは言ったかもしれません。 苦しい時代だったからこそ、「笑っていよう」と。 でも、ずっとポジティブなんてムリだし、そうすべきでもありません。 ライオンが目の前にいたら、「やばい、死ぬ」と思って逃げるのが正解です。 ここで「いい経験だ」とか、「極楽浄土にいける」と考えられるのはポジティブを通り越して、 単なるバカです。 お釈迦さんも、「悩みはなくならない」と言っています。 現実問題、ポジティブシンキングには弊害があります。 自分がネガティブになった時、それを必死で否定し、自己嫌悪に陥ることです。 パワーで押し切るアメリカ人には向いてるかもしれませんが、日本人には不向きです。 大事なのは、内心がどうあれ、常に愛をもって(そのように明るく振る舞って)笑顔で他人を癒すことです。

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 う~ん・・・

その他の回答 (3)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

0123gokudo様、こんばんは。 キリストが何を説いたか、については、「信教の自由」の問題と思います。 ・・・ポジティブ・オプティミスティック・ネガティブ ということについては。 ポジティブ・オプティミスティックとは 「それで、いいのだ!(困難をものともせず)」の世界であり、 ネガティブとは「これじゃ、ダメだ(不満たらたら)」の世界ではないかと 思った次第です。 「あの人はポジティブだ」というのを、単なる処世術でしょ?という範囲で 見てしまうのは、どうなんでしょう。 自力(ポジティブ)と他力(ネガティブ)の違いというようにも思えます。 (「他力」においては、「現状(ポジ)は全てダメ?」から出発して、 「救って下さる」を待つ(のみ)、となる)

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

回答No.2

イエスキリストの時代は そんな時ではありませんでした 本来なら 現在の大統領クラスの人達に 新しい時代の到来を告げる筈だったのが失敗に終わり  現在で言う一般庶民の もっと下 その人達を経て 事を成し遂げないといけなかったので・・ 現在 キリストが活動を起こしてるのなら be positiveもあり得るが 宗教にはbe positiveの心は ちょっと無理かも?

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

回答No.1

>キリストは、be positive と言ったか? キリストさんは英語はしゃべらなかったでしょう。 「前向きであれ」という内容をヘブライ語で言った可能性は否定できない。 しかし、キリストさんを知っている人は生きていないし、日本語の質問は理解できないので、回答資格のある人はおらんよ。

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 聖書を全部読んだ人は回答できると思います。

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